(3)森光子の放浪記の作者・林芙美子記念館
- 2020/08/26
- 15:18
養子・泰(たい)がピアノを弾いているところ。
自画像は、撮り忘れた。画家になることも考えたことがあった芙美子は、アトリエで絵筆を取ることもあった。藤田嗣治、梅沢龍三郎など画家との交流もあった。
23歳、画学生の手塚緑敏(てづか・まさはる)と知り合い、同棲、生涯の伴侶となる。私は、林芙美子はオトコ癖が悪く、生涯独り身だと思っていた。
今回、記念館を訪れて、原稿を書きながらも、家族を愛する家庭的な人だということがわかった。
オトコ癖の悪さは、宇野千代と勘違いしていたのかもしれない。
23歳(1926年)、『放浪記』、『続放浪記』が改造社より刊行され、ベストセラーになる。
28歳(1931年)、『風琴と魚のまち』、『清貧の書』をそれぞれ雑誌『改造』に発表。この頃より、流行作家として、多忙になる。
同年、渡欧。パリ、ロンドンに滞在。
29歳(1932年)、欧州旅行から帰国。
32歳(1935年)、『牡蠣』を刊行。自伝的作風から脱却する。
34歳(1937年)、毎日新聞社特派員として、上海、南京に行く。
35歳(1938年)、内閣情報部による「ペン部隊」の一員として、上海に派遣され、その後、陥落直後の漢口に行く。
36歳(1939年)、下落合に土地を購入。家屋新築工事に着手。
38歳(1941年)、完成し、新居に移る。
同年、軍部の文壇統制が厳しくなり、『放浪記』、『泣虫小僧』などが発売禁止になる。
39歳(1942年)、陸軍の報道班員として、シンガポール、ジャワ、スマトラなどに滞在。
40歳(1943年)、生後間もない男児を養子に迎え、泰(たい)と名付ける。
41歳(1944年)、同棲していた緑敏と泰を正式に林家に入籍。子供のことを思ってのことだろう。
同年、母と泰を伴い、信州などに疎開。
42歳(1945年)、疎開先を引き上げ、自宅に戻る。
43歳(1946年)、『吹雪』を雑誌『人間』に発表したのを皮切りに、旺盛な執筆活動を再開。流行作家としての地位を確立する。
44歳(1947年)、『うず潮』を毎日新聞に連載。
45歳(1948年)、『晩菊』を雑誌『別冊文藝春秋』に発表。
46歳(1949年)、『晩菊』により、第三回女流文学賞を受賞。
48歳(1951年)、『めし』を朝日新聞に連載。
同年、『主婦の友』の取材後帰宅。就寝後間もなく、苦悶し始め、翌日、永眠。47歳。死因は心臓麻痺。
もともと、心臓弁膜症を患っているにもかかわらず、夜通し、原稿書きをしていたのがたたったのだろう。
自宅で告別式を行う。葬儀委員長は川端康成。戒名は、純徳院芙蓉清美大姉。
曹洞宗萬昌院功運寺(中野区上高田四丁目)の墓所に川端康成の銘により、墓碑が建てられた。
芙美子写真アルバム、『めし』の原画、芙美子が使用した角型小皿など。
アルバムの写真。
「あの人に会いたい」。NHKアーカイブス。女学生を前に質疑応答を交え、ラジオ放送が収録された時の映像。
「わたしというものにがっかりしないで、愛読してくださるようにお願いいたします」と言って、会場の笑いを誘った。
若い頃の芙美子。美人だった。
『放浪記』の初版本。
林芙美子、宇野千代、吉屋信子、佐多稲子。女流作家が集う。
1951年(昭和26年)、47歳で亡くなる四日前の貴重な映像。
「わたしは今、家庭を持っておりまして、子供もいるんですよ」。
「女だから、男だからというのは、今の時代にはないと思う。私たちの時代はあったかもしれないですけどね」。
画家の夫・緑敏と一緒の写真。「25年結婚しているんですよ。もう銀婚式が始まるんですけど」と言うと、会場がまた沸いた。素敵な夫婦だった。
自画像は、撮り忘れた。画家になることも考えたことがあった芙美子は、アトリエで絵筆を取ることもあった。藤田嗣治、梅沢龍三郎など画家との交流もあった。
23歳、画学生の手塚緑敏(てづか・まさはる)と知り合い、同棲、生涯の伴侶となる。私は、林芙美子はオトコ癖が悪く、生涯独り身だと思っていた。
今回、記念館を訪れて、原稿を書きながらも、家族を愛する家庭的な人だということがわかった。
オトコ癖の悪さは、宇野千代と勘違いしていたのかもしれない。
23歳(1926年)、『放浪記』、『続放浪記』が改造社より刊行され、ベストセラーになる。
28歳(1931年)、『風琴と魚のまち』、『清貧の書』をそれぞれ雑誌『改造』に発表。この頃より、流行作家として、多忙になる。
同年、渡欧。パリ、ロンドンに滞在。
29歳(1932年)、欧州旅行から帰国。
32歳(1935年)、『牡蠣』を刊行。自伝的作風から脱却する。
34歳(1937年)、毎日新聞社特派員として、上海、南京に行く。
35歳(1938年)、内閣情報部による「ペン部隊」の一員として、上海に派遣され、その後、陥落直後の漢口に行く。
36歳(1939年)、下落合に土地を購入。家屋新築工事に着手。
38歳(1941年)、完成し、新居に移る。
同年、軍部の文壇統制が厳しくなり、『放浪記』、『泣虫小僧』などが発売禁止になる。
39歳(1942年)、陸軍の報道班員として、シンガポール、ジャワ、スマトラなどに滞在。
40歳(1943年)、生後間もない男児を養子に迎え、泰(たい)と名付ける。
41歳(1944年)、同棲していた緑敏と泰を正式に林家に入籍。子供のことを思ってのことだろう。
同年、母と泰を伴い、信州などに疎開。
42歳(1945年)、疎開先を引き上げ、自宅に戻る。
43歳(1946年)、『吹雪』を雑誌『人間』に発表したのを皮切りに、旺盛な執筆活動を再開。流行作家としての地位を確立する。
44歳(1947年)、『うず潮』を毎日新聞に連載。
45歳(1948年)、『晩菊』を雑誌『別冊文藝春秋』に発表。
46歳(1949年)、『晩菊』により、第三回女流文学賞を受賞。
48歳(1951年)、『めし』を朝日新聞に連載。
同年、『主婦の友』の取材後帰宅。就寝後間もなく、苦悶し始め、翌日、永眠。47歳。死因は心臓麻痺。
もともと、心臓弁膜症を患っているにもかかわらず、夜通し、原稿書きをしていたのがたたったのだろう。
自宅で告別式を行う。葬儀委員長は川端康成。戒名は、純徳院芙蓉清美大姉。
曹洞宗萬昌院功運寺(中野区上高田四丁目)の墓所に川端康成の銘により、墓碑が建てられた。
芙美子写真アルバム、『めし』の原画、芙美子が使用した角型小皿など。
アルバムの写真。
「あの人に会いたい」。NHKアーカイブス。女学生を前に質疑応答を交え、ラジオ放送が収録された時の映像。
「わたしというものにがっかりしないで、愛読してくださるようにお願いいたします」と言って、会場の笑いを誘った。
若い頃の芙美子。美人だった。
『放浪記』の初版本。
林芙美子、宇野千代、吉屋信子、佐多稲子。女流作家が集う。
1951年(昭和26年)、47歳で亡くなる四日前の貴重な映像。
「わたしは今、家庭を持っておりまして、子供もいるんですよ」。
「女だから、男だからというのは、今の時代にはないと思う。私たちの時代はあったかもしれないですけどね」。
画家の夫・緑敏と一緒の写真。「25年結婚しているんですよ。もう銀婚式が始まるんですけど」と言うと、会場がまた沸いた。素敵な夫婦だった。
- 関連記事
-
- (4)トキワ荘マンガミュージアム
- (3)トキワ荘マンガミュージアム
- (2)トキワ荘マンガミュージアム
- (1)トキワ荘マンガミュージアム
- ラーメン大好き小池さん!
- (4)森光子の放浪記の作者・林芙美子記念館
- 明日は、トキワ荘マンガミュージアム!
- (3)森光子の放浪記の作者・林芙美子記念館
- (2)森光子の放浪記の作者・林芙美子記念館
- (1)森光子の放浪記の作者・林芙美子記念館
- (4)東京都庭園美術館で、お土産を買う。
- 池波正太郎が愛したとんかつ屋さん
- (3)東京都庭園美術館で、おいしいケーキをいただく。
- (2)東京都庭園美術館で、アールデコを鑑賞する。
- (1)東京都庭園美術館で、アールデコを鑑賞する。