(3)トキワ荘マンガミュージアム
- 2020/08/30
- 10:16
紅一点・水野英子の部屋。7ヵ月暮らした。上京したのは、石ノ森章太郎と赤塚不二夫と「U・マイア」名義で合作マンガを描くためだった。
柳行李のスーツケースひとつで上京し、机や布団は編集者の丸山昭や赤塚不二夫の母親がそろえてくれたという。
壁のカウボーイの絵は、その上手さに他のマンガ家たちも関心したそうだ。今回、再現するにあたり、水野が特別に描き下ろしたとか。
ふすまの絵も、今回、水野が描き下ろしたものだ。
合作マンガの制作は、廊下を挟んで向かい側の石ノ森の部屋で行われ、ちゃぶ台を囲んで、3人で作業をした。
各部屋のカギは、開けたままになっていることが多く、石ノ森の部屋からは、クラシックやポピュラーの音楽がよく聞こえていた。
「漫画少年とトキワ荘」というチラシ。
トキワ荘が解体されたのは、1982年12月。
その目前の11月30日に池袋警察署記者クラブに集い、事件取材を担当する通称「五方面記者クラブ」の新聞記者たちが、近くだからと訪れた、中華料理屋「松葉」の帰り道に解体の足場が組まれていることを知った。
「これは、大ニュースだ!」と急いで記者クラブに戻り、各社の記者たちが、手分けして、かつての住人である有名マンガ家たちに電話でコメントを取った。
マンガの神様・手塚治虫は不在だった。多くの連載を抱え、多忙を極める手塚の談話は困難かと思われた。
しばらくすると、記者クラブの電話が鳴り、「手塚です」となんと本人から直接、記者クラブに電話があり、「明日、トキワ荘を見に行きたい」と言ったという。
翌日、現地で待ち合わせをした記者たちの前に現れた手塚は、午後8時過ぎ、一人でやってきた。
屋内は解体中で、真っ暗、記者が手に持った懐中電灯の明かりを頼りに階段を2階に上がると、手塚は迷うことなく、かつて暮らした14号室へ向かった。
「この天井板を持ち帰りたい」と指さすと、「南側の窓際の仕事机の隣に電熱コンロを置き、魚を焙ったり、鍋を煮炊きした」と言う。
「その天井板には、煙や匂い、思い出が染みこんでいるんです」と語ったととか。
取り外した数枚の天井板のうちの一枚に、NHKの記者が「記念に何か描いてもらえませんか?」とフェルトペンを手渡すと、「僕がここにいたときに書いたんだ」と言って、『リボンの騎士』のサファイアをためらうことなく、一筆書きのように描き、「僕も」と汗をかいているペンを握る自画像も描き加えて、記者たちに贈った。
宛名は「五方面クラブさんへ」。「五方面って何ですか」と聞く手塚に「若手記者が切磋琢磨して育つ場所です」と伝えると、「トキワ荘のようなものですね」とにこやかに笑ったという。
この天井板は、池袋警察署の記者クラブの看板として受け継がれていたが、「トキワ荘マンガミュージアム」の計画を知った署長と副署長が当時の「五方面クラブ」の記者たちに連絡を取り、2020年2月、記者たちから豊島区へ寄贈することに決まった。
マンガの聖地・トキワ荘の当時の建物に関する現物の資料は少なく、手塚の居室の思い出が残る貴重な資料だ。
「柱にナイフで切りつけたキズがあるでしょう。創作で悩むと、クソっとね」と手塚は語った。
トキワ荘は、1935年(昭和28年)に手塚の入居に始まり、1961年(昭和36年)年の出居で終わる。
足かけ9年間のことにすぎないが、清貧なマンガ家生活をスタートした人達の多くが、30年を過ぎた今もなお、日本のマンガ界のトップにいる。
トキワ荘には、多いときには7〜8人のマンガ家が住んでいた。トキワ荘ーーそれは日本のマンガ、そして、アニメの原点だ。
マンガ家たちの“生活・文化圏”マップ。
エデンは音楽喫茶で、冷蔵設備があり、石ノ森や赤塚、水野らが打ち合わせや原稿書きに足繁く通ったという。
片岡菊家堂というパン屋は、フランスパンにコロッケやメンチカツを挟んで食べるのがマンガ家たちの定番だった。
マップには、いまもある伝説の中華料理屋・松葉も載っている。
鈴木伸一、森安なおや、よこたとくおが次々に使った部屋。
現在は、よこたとくおが使った部屋が再現されている、奥の白黒テレビには、チキンラーメンのCMが映っている。
場面が切り替わり、大相撲が映し出された。
貧乏暮らしには、似合わないステレオ。
栄養ドリンクの乗った食器棚と靴箱。靴箱には、下駄がある。
よこたの『みんないっちゃった』の原稿が机にある。
「トキワ荘のくらし」。当時の食事の世話は、上京していた藤子・F・不二雄の母親がしていたが、藤子たちは正月休みの帰省中に仕事に穴を開けてしまい、仕事が減って、生活は決して楽ではなかった。
当時の勤労世帯の平均支出と比べると、食費や洋服代、銭湯代を節約する代わりに、仲間との交際費や映画、書籍、娯楽は惜しまなかったことがわかる。
マンガ家たちは映画や音楽が大好きで、池袋や新宿の映画館で、月平均20本の映画を観たり、高額な8ミリカメラやステレオ、レコードなどを購入している。
彼らにとって、マンガを描くことが生活のすべてであり、映画や読書、仲間との遊びやスポーツ、旅行などの娯楽は、すべて創作活動の“栄養源”だった。
見上げてみると、天井には模様がある。じつは、復元されたトキワ荘では、木目をプリントしたベニヤ板が使われている。これも、美術チームのこだわりだ。
室内の道具の一つ一つにも、使い込まれた跡を表現するなど、細かい部分にも、手を抜かない。
廊下を挟んで両側に部屋が並んでいたトキワ荘。マンガ家たちは、壁をたたいて、隣の部屋の仲間と食事の時間を伝えたという。
窓には仕掛けがあり、夕方になると、明かりが順番につくようになっている。マンガ家たちが夜遅くまで、仕事をしている雰囲気を出している。
1956年(昭和31年)の物価。コーヒーは20円、そばは35円、ラーメンは40円、氷イチゴは20円、玉子丼は60円、牛乳は14円、卵一個は15円、キャベツは20円、トリスウイスキーは120円、銭湯は15円、床屋散髪代は100円、バスは15円、国電は40円、映画は150円、東京新聞は7円、LPレコードは2100円、『週刊朝日』は30円だった。
赤塚不二夫が使っていた部屋は、コロナ対策のため、しばらく写真撮影ができないようになっていた。
正面玄関の上の2階の部屋にだけ、ベランダがあったいう。この部屋は他の部屋よりも広く、マンガ家ではなく、一般の家族が住んでいたとか。