鈴木大介『最貧困女子』


 九州の地方都市住まいのぼく。
家の近くにある公園が、階上にあるぼくの家から見える。
 つれあいによれば、その公衆トイレの前で深夜に20代くらいの女性が立って、男性といっしょにトイレに入り、一定時間たつとまた別の男性とトイレに入っていくのが見えた。
 あれは買売春の現場ではなかろうか。

本書に出てくる「最貧困女子」とは、裏表紙にその定義が簡潔に書いてある。

働く単身女性の3分の1が年収114万円未満。中でも10〜20代女性を特に「貧困女子」と呼んでいる。しかし、さらに目も当てられないような地獄でもがき苦しむ女性たちがいる。それが、家族・地域・制度(社会保障制度(という三つの縁をなくし、セックスワーク(売春や性風俗)で日銭を稼ぐしかない「最貧困女子」だ。

ロジカルなルポ

最貧困女子 (幻冬舎新書) 読んで思ったことは二つ。
 一つは、とてもロジカルなルポだということ。どういう意味か。
 この本はとても「自己責任」論を強く意識している。最貧困に落ちてしまう女性たちを「結局努力しないお前が悪い」という非難がいたるところで待ち受けているからだ。


 「貧困女子と最貧困女子の違いは?」という節が本書にあるが、誰もが即時救済すべき対象だとみる女性と、「売春」や「離婚によるシングル化」という属性がつくことで「自己責任でそうなった人」という扱いをうける女性とが比較される。後者は不可視化される。つまり貧困議論からはずされ、見えなくさせられるというわけだ。


 たとえば、月10万円で生活する「プア充」女子の生活。
 彼女は、地元の友だちのネットワークをたくみにいかし、「シェア」をする。そして、自身の周囲にとりまいている「デフレ包囲網」、安くて節約しまくれる商品やサービスを知っているし、友だちの情報網の中からやはり探し出してくる。そういう自分のまわりのつながりや資源をフル活用できる地元=地方都市で充実ともいうべき生活を送っている。こうしたつながりのない都会に出ていくことのほうが「負け」なのである。
 お金はなくともそのようなネットーワークや資源をもっている人たちが「貧困」ではない、と頭では知っていたし、うすうす実例も知っていたが、鈴木の本書はそれを活写している。
 ガストじゃなくて、ホームセンターのフードコートこそ、安く粘れる! と自慢げに話す女性の細部をリアルに描き出すことで、「プア充」の生活力が生き生きと伝わってくる。これぞルポの醍醐味である。
 プア充と最貧困女子を比較し、プア充のようなネットワークや資源を利用できない人が貧困に陥るのだが、それが見えない(可視化されていない)と、貧困に陥った側は「努力が足りない」とたたかれる。とくに、月10万でしっかりやっている人にこそたたかれるのである。
 しかし、このようなプア充と最貧困女子の比較はまだ予想がついた。

 
 性産業に入っていく女性の中での階層化にはまったく頭がまわらなかった。
 ぼくは左翼であるが、性産業そのものを体験したことがないし、そのなかでどんな女性たちがいて、階層化されているのかについては、まったくイメージできない。
 そうなると、まず、都会に飛び出してきて性産業に入る入口でいかに家出少女たちにとって、魅惑的な私的セーフティネットが用意されているか、ということに想像がいかない。そして、左翼であるぼくが提起しているような行政や制度の用意するセーフティネットが、性産業の用意する私的セーフティネットにくらべていかに使い勝手が悪く、しゃくし定規で、実情に合っていないかもなかなか想起できない。いや…少しは想像していた。制度の利用が悪いもん。
 最近でこそようやく生活保護にはつなげるようになってきたし、この制度も前は本当に現役世代や若い世代には障壁が大きかったが、運動の成果もあって比較的使いやすい制度になってきた。*1
 しかし、それ以外の制度は本当に使いづらいし、わかりにくい。


 さらに、性産業に入ってくる女性たちを3つに分類することによって、いっしょくたに論じてしまいがちな議論を腑わけしている。この行為がとても分析的でロジカルなのだ。
 「地方週一デリヘル嬢」というカテゴリーの風俗嬢たちは、まさに週1回、バイトのように収入の余裕をもたせるために風俗に入ってくる。彼女たちはいつまでも「素人」のように「みずみずしく」(これはぼくの表現)、いわゆる「美人」も多い。そして技術も高い。
 そうなると、知的な障害をかかえていたり、やむにやまれず体を売っているような最貧困女子のような、プロ意識に欠けた、そしてまさにただ肉を売っているだけのずさんな女性(とみなされている人たち)は、性産業の中心部からも排除され、だれも相手にしないような性産業の底辺へと押し込められていく。
 「性技テクも磨かない、生活も工夫しない、自堕落な女」として性産業の別階層からもいっそう激しい「自己責任」論をつきつけられ、不可視化されていく。
 こんな細やかな分析は、ぼくにはできない。性産業のすぐそばにいて、この区分けを感じていなければ、とてもわからないことだ。こうした区分けがない場合、性産業に入っていく女性のイメージがぼくの話すものと、相手の話すものとでまったく違ったものになっている可能性が高い。「地方週一デリヘル嬢」のような女性をイメージした場合、それが自覚的につかみとられた職業であるという印象が強く、また、「貧困」イメージとしても食い違いすぎるので、まったくかみ合わない。そして、性産業のことを大して知りもしないぼくが議論すれば、現実に存在するそのような「地方週一デリヘル嬢」的女性について持ち出されて「別に問題ないのでは?」と言われて終わりそうな気がするのだ。


 しかし、貧困に陥る人たち、あるいは低所得層の周辺をじっくりと見て腑わけをしなければ、分析的に見ることはできず、たちまち「自己責任」論にやられてしまうことになる。
 この本はそのことにとても敏感に、そして説得的につくられている。

どんな支援が可能か

 本書を読んで思ったことのもう一つは、ではどのような支援が可能か、という問題である。
 著者の鈴木は、第5章でこうした実態に接してきたライターなりの提言をしている。
 そのうちうなずけるものもあるし、首肯し難いものもある。
 ただ、さっきものべたように、行政が用意する救済策の使い勝手の悪さは絶望的だということ。


 一つ例にあげてみると、鈴木は子ども時代の対策を論じていて、ひとり親世帯への経済支援の強化の後に、小学生の子どもの居場所対策をあげている。そして、現行の学童保育のしゃくし定規さを批判している。満員という問題以外に、質の問題。家出少女たちは「学童ってウザいんだもん」と言う。

なぜウザいのかを聞けばごもっともで、学童で出欠確認や連絡帳の提出があったり、放課後に行くはずになっていた学童に行かないと何をしていたのか詰問されるのが嫌だったのだという。あと「ゲームがない」。高学年にもなれば、本の読み聞かせなど、「ガキっぽいことに付き合ってらんない」という気持ちもあるし、同級生たちと遊びたくても常に低学年の子が邪魔をしてくるし、同級生も塾に通う余裕のある家庭の子は学童から遠のく。結局馬鹿馬鹿しくなって行かなくなってしまったと、この少女は言うのだ。(本書p.180)

 どんな学童がよかったかと聞けば、小学校が終わったらゲームやテレビもふくめてすごせて、遅くても親が迎えにきてくれればそれでもいいし、食事も出て、親が荒れているときには夜遅く行っても泊めてくれるような場所だという。
 もっともなところがある。
 そして、これは行政がやるには大変だな、と思わざるをえない。
 同様に、少女がセックスワークに取り込まれた後や家出後のシェルターのあり方も、考えさせられる。「少女の独立」という選択肢がなく、親元に知らせるというふうになっていたり、「余計な指導・詮索」を受けたりする。「少女の側が利用したくなる施設」にしてはどうかと鈴木は提案する。


 いずれにせよ、地元の不良グループや性産業が用意するような私的なセーフティネットに負けない、貧困の淵にいる子どもたちの居場所をつくることが必要だということ。そういう居心地のいい場所をつくって、自然に介入できるような空間にするということだ。
 これは確かに民間にしかできない。
 民間の施設を、行政が変な責任を問われない形で支援することだろう。たとえば行政が校区の自治団体に補助金を出し、その自治団体がさらに補助金の形でこうした民間組織を支えるようにして、行政とは一定の距離をおいておくようなしくみだ。まあ、補助金のロンダリングみたいなもんだが。

 シェルターについては、いまのぼくには想像もつかないが、「使い勝手のいい学童保育にする」ということは、問題提起や実現に何らかふみだせるかもしれない。じっさいに民間学童をやっている人たちにこうした問題をぶつけてみることで、実際にできるものかどうか、次のステップにすることとしたい。

あしたが見えない 〜深刻化する“若年女性”の貧困〜 - NHK クローズアップ現代 あしたが見えない 〜深刻化する“若年女性”の貧困〜 - NHK クローズアップ現代

 ここではコメンテーターが行政の支援と性産業が用意する私的セーフティネットを比較して、

現在、生活全般にわたって、支援が縦割りになっているわけなんですけれども、この性産業というのが、実際、職と共に、住宅であるとか、夜間や病児の保育も含めた保育にまで、しっかりとしたセーフティーネットになってしまっていて、じゃあ実際それが公的なところで、こんなに包括的なサービスが受けられるかといわれると、そうではないというのがかなり、現実なんじゃないかなというふうに思っていて、これ、社会保障の敗北といいますか、性産業のほうが、しっかりと彼女たちを支えられているという現実だと思いますね。

とのべている。
 また、この記事でも、

アイドルになりたい少女や「関係性の貧困」で孤立する女子高生を狙うJKビジネス=売春目的の人身売買 (1/2) アイドルになりたい少女や「関係性の貧困」で孤立する女子高生を狙うJKビジネス=売春目的の人身売買 (1/2)

「裏社会の大人たちとJKビジネスがセーフティーネットになってしまっている」という仁藤夢乃(『女子高生の裏社会――「関係性の貧困」に生きる少女たち』の著者)の指摘を紹介したうえで、性産業に女子高生たちを誘い込むスカウトたちの必死さについてふれられ、仁藤の次の言葉を紹介する。

たとえば、国が雇用労働政策として行っている若年者の就労支援事業には、困窮状態にあって生活が荒れているような若い女性はほぼ来ないといわれる。(中略)誰にも頼れず自分一人でどうにかしようとした結果、「JK産業」に取り込まれていくような少女は、行政や若者支援者が窓口を開いているだけでは自分からは来ないのだ。こうした少女たちに目を向けた支援は不足している。それを承知で、少女をグレーな世界に引きずりこもうとする大人たちは、お金や生活に困っていそうな少女を見つけて、日々声をかけ、出会って仕事を紹介している。(中略)一方、表社会は彼女たちへの声かけをほぼまったく行っていない。社会保障や支援に繋がれない少女たちに必要なのは、「そこに繋いでくれる大人との出会いや関係性」である。関係性の貧困が大きな背景にある中、つながりや判断基準を持っていない10代の少女たちには特にこれが重要だ。(中略)私は、表社会のスカウトに、子どもと社会をつなぐかけ橋になりたい。声を上げることのできないすべての子どもたちが「衣食住」と「関係性」を持ち、社会的に孤立しない社会が到来することを目指したい。


 いずれも、行政側の支援がこうしたところまで届くような柔軟性や規模をもっていないことを指摘している。

 ぼくら左翼陣営の生活相談に訪れるような人たちにも、こうした境遇の20代くらいの女性がいる場合もある。しかしぼくの実感ではそれほど多くはない。むしろこうした売春と悲惨な体験が一通り終わって、自分の体が売れなくなった後に、困窮しきってやってくるような、今までどうやって食べてきたのかよくわからない中年以上の女性である。
少女時代がとうに終わり、親が死んだり連絡がとれなくなったり暴力をふるうような力もなくなっていたり、もしくは自分自身がもう補導されたり逮捕されたりするようなこともなくなっている、つまり「自由や独立」にそれほどの意味がなくなっている、そういう歳になって、何かのつてを通じてやってくるような場合だ。
 性産業に入っていくエネルギーをもった若い貧困女性をあらかじめ捕捉しようとすれば、一つは性産業の私的セーフティネットに負けないほどの居心地のいい「居場所」を民間ベースで用意するということだろう。本書の著者である鈴木大介は、セックスワークを「正当な仕事」として評価するよう求めているが、そこまでふみこめなくても、セックスワークへの「評価をしない」居場所をつくることはできる。つまり、売春をしていても、性風俗店につとめていても、そのことについてうるさく言わない居場所。そのかわりに相談役や情報提供をする役目の人がいて、そこから抜け出せる手だてをいつでも用意しているということであろうか。


 もう一つは、そういう居場所が仮に用意できたとしたら、もしくはできないとしても、今ある制度でも利用可能なものや利用が求められているものもあるだろうから、そこへとつなぐ要員の配置である。街中へ出かけて行って、そういう支援があることを知らせる、知らせ続ける人が必要ではなかろうか。
 これは行政にもできるはずである。前にNHKスペシャル「ワーキングプア」でイギリスの行政職員が街頭に立って、社会的排除をうけた青年を片っ端から声をかけて探す映像を見たことがあるけど、「あっ、これってスカウトじゃん」と思ったものである。性産業のスカウトに負けないくらいの必死さをもったスカウトを行政が用意してほしい。事務所の机の奥でただ申請を待っているんじゃなくて。



 左翼陣営をみていて、たとえば共産党や民青がそういう居場所や情報提供をセットにしたコミュニティになっている場合があるのだが、それをもっとしっかり、自覚的にしたようなものだ。具体的には恒常的な場所が必要になるだろう。心理的・社会的な意味だけでなく、実際にふらっと寄れて、寝泊まりも、簡単な食事もできるような場所。そういうものを左翼の有志で立ち上げて、そこに相談役が顔を見せるようなスペースである。
 たぶん簡単に始められるものではないだろう。場所を確保するための努力がいるし、いつもその場所にいる要員も必要だし、うるさく容喙しないといっても放っておけば無法地帯になりかねないので、しっかりとした管理が必要だし。法的に重大な責任を負いかねないようなことも避けねばならない。3年ぐらいの時限で実験的に事業をやってみるとか…。すでにそうしたNPОはありそうだが。

 まあ、ぼくは左翼だから、何か実践に結び付けたいんだよね。
 ぼくが参加している無料塾は本当はこういう子どもたちも対象にしたかったんだけど、やってきている子どもたちは「手前」にいる子どもたちだよね。少なくとも「塾」に来るくらいの意欲は始めからもっているし、親たちとも良好な付き合いができている。どこからも支援がさしのべられない子どもたちは来ていない可能性が高い。
 そのあたりの子どもをどうにか接触できないか探るところから始めてみようか。

*1:生活保護は大改悪されているのに妙な話なのだが、派遣村によって現役世代・若い世代が受けられるようになった前進面のほうが大きい。また、その中で運動側のほうの理解も進んだといえる。