「おおかみこどもの雨と雪」

おおかみこどもの雨と雪 (角川文庫) 帰省中に娘が寝た後、つれあいといっしょに映画「おおかみこどもの雨と雪」を観に行った。人間であり狼である狼男と結婚した、大学生・花(ハナ)が狼男の子どもである雪(ユキ)と雨(アメ)を生み育てる物語である。


 以下はネタバレをする。結末がわかってもいいという人だけ読んでほしい。


ハナの視点で観る

 つれあいもぼくも、この映画をハナの視点で観た。
 子どもたちが生まれるとほどなく狼男は事故で死んでしまい、ハナはシングルマザーとして苦労しながら2人の子どもたちを育てる。「おおかみこども」であることを人々に気取られないようにするので、母子はほとんど社会と隔絶して生きねばならない。医療も社会支援も一切得られない都会のアパートで生活し、ビクビクしながら時たま外を散歩するというほどである。
 ぼくらは小さな子どもを持つ親として、働き手である夫を失い、自身は幼子を抱えて働きにも出られない、まさにハナの子育ての苦労に強く感情移入しながらこの映画を観たのである。

子育てのリアリズムがあびせる厳しいツッコミ

 しかし、そういう角度で見始めたつれあいは、どうにもそのリアルな視線が、物語に厳しいツッコミを入れてしまうのである。
 つれあいが「口がアングリとなった」というその最大のものは、物語の結末である。人間として生きることを決めたユキにたいし、狼として生きることを決めたアメが10歳にして山に入って二度と帰ってこなくなるシーンで、それを笑って受け入れ、「がんばって!」などとエールを送るところにびっくり仰天だったという。


 10歳で自分の子どもを手放すなど、ありえない。しかもいかに「信条」とはいえ(ハナはつらいときも笑うのが信条である)、哀しいはずのその別れを笑いで受け入れるなど、人非人のすることではないか——というつれあいに対し、いや、10歳というのは狼として成熟した年齢なんだからさ、とぼくがたしなめると、アメの父親である狼男は都会のミゾにハマって死ぬという無様にも程がある死に方をしたではないか、あの程度の運動能力の狼なのになんで安心して手放せるのか理解に苦しむ、と批判の手を緩めない。


 つれあいのツッコミは随所に及ぶ。
 都会暮らしを離れ、クソ田舎の自治体の紹介で、山間の廃屋で暮らすことになったときも、あのボロ屋をいったいどうやって、女手ひとつで修繕したのかわからない。サラリと描きすぎだよ。屋根の上に修理するシーンとか出てくるけど、途方もない時間と技術が必要になるんじゃないのか。
 そして、田舎で農作業をして食料を得るまでの間、少なくともどうやって生活していたのか。なるほど学生時代の労働や夫の労働によって一定の貯金はあるようだが、そんなに保つものなのか。
 だいたい、あれほど苛酷な状況にあって、ハナがいつまでも女学生のままの格好とメンタリティでいるのが気持ち悪い……など言いたい放題である。いい加減にしろ。たぶんアレだと思う、ぼくが「面白かった」と言ったので、ムキになっているんだろう。ほとんど小学生である。


 というか、ハナの子育てをリアリズムや現実の観点からとらえて、そこに違和感を抱くという感想はネット上でも少なくない。

『おおかみこどもの雨と雪』根底に流れる絶望について - 俺の邪悪なメモ 『おおかみこどもの雨と雪』根底に流れる絶望について - 俺の邪悪なメモ

『おおかみこどもの雨と雪』におけるヒロインの怖さ at 愛書婦人会 『おおかみこどもの雨と雪』におけるヒロインの怖さ at 愛書婦人会

映画『おおかみこどもの雨と雪』の母性信仰/子育ては1人では出来ません - デマこいてんじゃねえ! 映画『おおかみこどもの雨と雪』の母性信仰/子育ては1人では出来ません - デマこいてんじゃねえ!


 ブログ「俺の邪悪なメモ」では、「野暮」なツッコミだと断りつつ、「おおかみこども」を、障害をかかえた子どもと見なして「おおかみこども」のまま受け入れようとしない作品の社会と、その社会のありようを受容してしまっている登場人物たちの態度を批判する。

中盤、花は子どもを「ちゃんと育てる」ために豊かな自然のある田舎に引っ越します。それは、子どもが将来 "人" か "オオカミ" か選べるようにです。この二者択一が自立だとこの物語は示しています。"おおかみこども" であることを尊重されて社会に受け入れられるという選択肢はないのです。

http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20120809/p1


 ブログ「 デマこいてんじゃねえ!」では、ハナは結局子育てそのものについては、誰にも相談することができず、「生まれつきそなわっていた」母親の母性で困難を乗り越えるという「母は強し」的な母性信仰を煽り立てる物語なってしまっていることを批判する。


この映画に登場する“メンター”は、頑固じじいの韮崎さんだ。しかし韮崎さんが教えてくれるのは「農業」や「田舎暮らし」であって、「母親らしさ」を教えるわけではない。ヒロインは子供たちを身ごもった瞬間に、すでに母親らしさを身につけているのだ。


女は生まれながらに母性を発揮し、子供ができたら自動的に母親になる——この映画の根底に流れているのは、そういう母性信仰だ。薄っぺらな神話だ。序盤にヒロインを追い詰めた社会の無理解やシングルマザーの問題も、結局は母性信仰を描くための道具に過ぎなかった。そう気づいて、ぐったりと脱力した。社会派だと思ったのは私の勘違いだったのねん……。

http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20120723/1343052351


 ブログ「愛書婦人会」は、ハナの子育てが一種の過激エコロジスト的な教育方針になっているように見えてしまい、もしそうであれば、本来ものすごいストレスや強圧をもつ存在なのに、無垢でナイーブな存在として描かれているのが怖い、と言っている。


つまり、花はおおかみこどもを世間の目から隠すために仕方なく自宅出産して田舎に移住したというより、もともとそういうことがしたかった人なんじゃなかろうか。自然の中で自給自足子育て。そう、『北の国から』の五郎だ。もしかしたらその目的を果たすために、あえてマイノリティと交接したのかもしれない。『北の国から』の純は普通の子供だったから、都会の生活が恋しくて当初さんざん反発してましたよね。でもマイノリティとの子供なら、「お前の正体が世間にバレたらひどい目にあうのだぞ」と言い含めておくことで、アーリマンに毒された他人から隔離しつつ自分の好きなように文明を排除した子育てができる…。

http://inspirace.expressweb.jp/wp/?p=104

 ハナの子育てに強く着目した人たちは、子育てがかかえる現実やリアリズムに足をとられてしまう。ファンタジーを現実が侵し始めてしまうといってもいい。どこまでがおとぎ話の比喩なのか、リアリズムの細部なのか、浸食され、区別がつかなくなって、「細かいこと」が気になり出すのである。これらのブログが、映画全体を評価しつつ、こういうツッコミを入れているのも、こうした理由からだろう。


 たとえば「おおかみこどもであることを誰かにいえない」という設定を、作品設定における不可侵のタブーとみるのか、「あれは誰かに相談すればよかったんじゃないか…」という思いをかかえるのとでは、気になり方が全然違う。
 上記にあげたブログはそこが気になってしまった。
 そして、気になってしまうものなのである。
 子育てという強力な現実に感情を移入させて物語を観ていると、現実の側がものすごい圧力で虚構を食い破っていってしまう。その境目が曖昧になる。
 つれあいが「ジブリの作品ではそういうことがほとんど気にならない」と述べていた。たとえば「天空の城ラピュタ」でムスカとパズーについて、自分のパートナーにするんだったらどちらがいいか、という問いをすることがあるけど、それは物語世界が堅牢に出来上がっていることを前提に楽しまれる問いであって、物語世界が壊れかけて溢れ出てくる疑問というものとはワケが違うというのはその通りだろう。

結婚するなら絶対ムスカ - workingmanisdeadの日記 結婚するなら絶対ムスカ - workingmanisdeadの日記




 おそらく、子育てという、厳しいほどのリアリズムの感情移入を前提とする視点から物語を観させてしまうと、これは多少脚本を直したくらいでは現実の虚構への侵入は防ぐことはできないのかもしれない。


 では、お前はこの映画をどう見たのか、と問われるだろう。

ある種の子育ての心象風景としての本作

 ぼくは冒頭に述べた通り、やはりハナの子育ての物語として、ハナへの感情移入をしながら観たのであるが、要所要所での心のツッコミが、物語鑑賞の妨げにならなかったということは、どこかで距離をとっていたということかもしれない。
 非常にぶっちゃけていえば、これを「あるシングルマザーの心象風景、そのデフォルメ」のようにして観た、ということだ。*1


 かつてぼくは、すえのぶけいこ『ライフ』について、これをいじめを受けているものから見たデフォルメの世界であり、そこからの解放は、(つながる友達は出てくるものの)基本的に個人が強く変身することだ、というメッセージをもっているが、それが一概に「政治的に正しくないから面白くない」ということにはならない、ということを書いた。そのことに似ている。


 突然パートナーがいなくなり、頼るべき係累もなく、徹底した孤立のなかで子育てに苦闘する様は、それを当否だけでみるなら「ぼくだったら、こんなふうにしないのに」ということになるのだが、ある種の親にとっては、世界はこんなふうに誰も頼れるものがいない、心を強くしていなければくじけてしまう風景として映っているのかもしれない、と想像してみれば妙に納得がいくものである。


 児童虐待や孤独死の報道に接すると、「どうしてそんなふうになるまで手を打てなかったんだ」という気持ちがわき上がってきてしまうのは、しばしば抑え難いものである。「ぼくならきっと○○したのに」とか「あそこでこういう相談もできるのでは」などと、報道の向こう側でぼくらは批評することができる。
 しかし、当事者の心のなかでは、もうそうする以外には他に選択肢がないかのように映っているのだ。
 ハナの理不尽なまでの孤立は、そういう心の風景の拡大辞ではないのか。


 やがて、ハナは、田舎の共同体に受け入れられる。
 農業生産という、生きる根本において、地元の古老のぶっきらぼうな指南に救われる。それを契機に、冷蔵庫のような生活用具を譲り受けたり、食料を交換したり、「ママ友」ができたり、職を紹介してもらったりする。
 孤立は終わり、共同体の助け合いのなかにハナ一家は生きていくのである。


 孤立が解消され、共同体のなかで生きる自由を得た親子の喜びは、雪の山林を疾走するシークエンスによく表されており、この映画の白眉である。
 狼になったアメとユキとともに、ハナも同じハイスピードで、複雑な木立をするするとすりぬけて疾駆する様、そしてありえないほど長く急な雪の斜面を楽しげに転がっていく様は、およそ現実ではない。しかし、解放感を十全に映し出すリアルな虚構である。


 前述のブログでは、ハナは肝心の子育てを誰にも相談できないではないか、というとらえ方をしているが、ぼくはそうは思わなかった。
 アメやユキが狼にかわるとき、それを見た村人は、犬を飼っているのだと勘違いするシーンがある。あれは、「狼になることを知られると困る」という問題がほとんど解体してしまい、孤立が終わったことを意味するのだとぼくは受け取った。
 そして、小学校に上がってからのアメとユキにとって、「おおかみになる」ということは、まったく別の問題として設定されているのである。
 すなわち、ユキが転校生の男子・草平に「おまえケモノくさい」と言われて、草平を避けるようになり、追い回されたあげく、ついに「おおかみ」になってしまうのは、制御できずに、他人に害を与えてしまう暴力(獣性)の発露として描かれている。
 自分の中にひそむ暴力性を制御できなかったユキが同級生を傷つけ、車のなかで、これでもう平和な生活がすべて失われてしまうのだと大げさに泣くシーンは、学校共同体のなかでとてつもないトラブルを起こしてしまった子どもの姿そのものである。ぼくは親として子どものその姿を受けとめる。


 他方で、アメが狼となって山へ行ってしまうという進路を選ぶときの「おおかみ」とは、子どもが自分にはとうてい理解できない存在になってしまったときの比喩だといえる。新興宗教の一員になってアフリカの奥地で一生何か奉仕活動をして、一年に一回だけ手紙が届く、とかそういう感じ。


 「それを相談できる相手がいれば、どちらも荷は軽いよね」というのは、たしかに正論なのだが、ある種の親にとって、ユキの「おおかみ」も、アメの「おおかみ」も、親がその「おおかみ」にむきあって、乗り越えた、と感じられるのではないだろうか。はっきりいえば、子育ての困難を、私は頑張って乗り越えた、という誇りである。その困難を、一人で抱えて乗り越える姿には、確かに不当に「強い個人」を強調する偏りを感じないわけではない。貞本義行によって描かれたこの映画のポスターでは、ハナがアメとユキを抱いて草原のなかで屹立している。誰かに支えられて私たちはそこに立っているのではなく、自分の力でこの独立を勝ち取った、という誇りに満ちている。



 しかし、そうやって子どもを巣立たせたときの親が、美しい爽快感を持つのも事実であって、それをぼくは政治的な正しさから一概に批判する気にはなれなかった。それが他人への説教に転化した時不当なものに変わってしまうが、ある種の親の心象風景だと思ってそれを眺めれば、この物語はあやうい美しさに満ちているともいえる。


★参考

「コクリコ坂から」感想 - 紙屋研究所 「コクリコ坂から」感想 - 紙屋研究所

*1:シングルマザー一般ではなく、シングルマザーの中にはこういうふうな人もいるよね、的な。