再び、尾田栄一郎『ONE PIECE』

 『ONE PIECE』について書いたらSBMやコメントがどっときた。こ、これが炎上というやつですか。お前ら、ホント『ONE PIECE』好きなのなw

 このブログのコメントもSBMのコメントも、あとツイッターでのコメントもいろいろ見させてもらった。まあ、もうあんまし何度もエントリを重ねるつもりはないけど、もう1回だけ考えたことを書いておこうか。

「バトルマンガ」である以上、バトルをなぜスポーツとして描ききらないかという疑問

 もともとぼくが海賊冒険のマンガ『ONE PIECE』に違和感をもったのは、このマンガの主要な側面を「戦闘(バトル)マンガ」だととらえたからだ。バトルとは勝敗という形での優劣の決定だから、本質的にスポーツであり、スポーツである以上、勝つための努力があり、そうであれば科学的な努力というものが見せられて然るべきだという気持ちがぼくにはあったのだ。

ヒカルの碁 完全版 1 言うまでもなくスポーツマンガというのは少年マンガの巨大なジャンルで、ぼくが引き合いに出した『モンキーターン』なんかもモロに少年マンガかつスポーツマンガである。「ジャンプ」でいえば囲碁マンガである『ヒカルの碁』なんかも典型的なスポーツ(勝敗の決定をエートスとするもの)マンガで、ヒカルが自分の囲碁の技量の向上がそのままヒカルの成長となっていて、そこにある緊迫感がぼくは非常に好きだった*1。

『ヒカルの碁』 - 紙屋研究所http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/hikaru.html
『ヒカルの碁』再論 - 紙屋研究所
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/hikaru-sairon.html

 だから、無名の高校野球部が科学的な練習方針と戦略のもとでみるみる変貌をとげていく『おおきく振りかぶって』なんかはゾクゾクするのである。


 『ONE PIECE』がバトルマンガ=スポーツマンガである以上、そこに科学的な努力の痕跡があって然るべきだと思うのに、それがまったくない。これがとても不思議だったのである。
 コメントの中に、“『ONE PIECE』の主人公・ルフィはそもそも出立する前に修業してきたし、紙屋が言及したアラバスタ王国にたどり着く前にいろんな経験を積み重ねて成長してきているんだぞ”というむねの批判があったのだが、これはまったく合点がいかない。
 そこでルフィが自分の技量を科学的な努力によって向上させているような描写は皆無に等しいし(最近の連載で何かなされたようであるが)、読者であるぼくにはさっぱり伝わってこないからである。描写をすっとばしたところを想像で補えというのも無理筋すぎる要求だろう。
 そもそもアラバスタでの戦いにおいて、ルフィがクロコダイルに幾度も敗れるけども、その敗れた後に次に挑むまではまったく成長とか戦略の練り直しというものがなく、これでバトルのどんな面白さが描けるというのだろうかとぼくは憤然とした。
 クロコダイルの弱点(水分)を知ったから、というのが答なのかもしれないが、その解答を知る手続きも描かれないし、*2そもそもこの弱点描写が決定的だという印象も受けない。あと、水分を吸い尽くせるというクロコダイルの技はもっといろいろ使えるんじゃねーのという疑問がぷかっと浮いてきてしまう。なぜ最初には敗れたルフィが、最終的にクロコダイルに勝つのか。そこにはロジカルなつながりがなく、(空虚な)意志の力しかないように思えた。

 空虚な精神論かどうか、というとこの表現にひっかかっていろいろ反証が返ってきそうなので、こう言い直した方がいいかもしれない。「バトルがかなりの割合を占めるのに、バトル=スポーツマンガとしての要件(とくに精進)を欠きすぎているのではないか」ということだ。

 そういうマンガは他にいくらでもありそうじゃないか、という人もいるかもしれない。うん、ありそうだ。だから、ぼくが問いたかったのは、『ONE PIECE』に限らず、そういうタイプのバトルマンガって、何を面白さの構成要件としているのだろうか、ということなのかもしれない。

“バトルはあんまり重要な要素じゃねーんだよ”という指摘

 ところが、コメントの中には、“『ONE PIECE』ってバトルマンガとしては三流”、“『ONE PIECE』ではバトルは実は主要な要素じゃない”、“そこは流せ”みたいな意見があって、これは瞠目すべきものであった。

 『ONE PIECE』においては、バトルっていうのはかなりの比重をもって描かれているように思われたので、それが二流、三流と言われたり、そこが主要な要素じゃないというむねのことを言われるとは考えてもみなかったのである。ファンとおぼしき人でさえそう認定するのか、というのは一つの発見であった。
 つまり、バトルなんかは『ONE PIECE』の全体のなかではクソちいせえ要素なんだから、そこにスポーツマンガとしての期待なんか乗せる方が無理なんだよ、と。そうすると、ますます「では『ONE PIECE』の何がやはり面白いのか」という問いに還り、いっそうその問いは深く濃くなっていくのである。

 こういうふうに言われて思い当たったことは、『ONE PIECE』を再読したとき「これってヤンキーマンガにそっくりだよなあ」という第一(?)印象だった。
 『ONE PIECE』と「任侠映画」の構造についてまとめられたTogetterがあるし、作者の尾田栄一郎自身が自分が任侠映画がものすごく好きだと言っているのだが(これについてふれているコメントもあった)、任侠映画をほとんど知らないぼくにとってはぼくが今から言おうとしていることと同じかどうかわからない。

Togetter - まとめ「『ONE PIECE』と任侠映画、そして「冒険」」
http://togetter.com/deco/12727

Togetter - まとめ「ひとつながりの秘宝! 〜 受け継がれる黄金の精神(ルビ: パターン)」
http://togetter.com/li/12197
尾田っちの初生声キタ!「鈴木敏夫×尾田栄一郎」ワンピースの作者がラジオで語った71分。 - ヨーグルトの蓋のウラのびみ
http://d.hatena.ne.jp/tkfire/20100216/1266325464

ヤンキーマンガにおける「バトル」

 ヤンキーマンガで、「バトル」というのは勝敗(力の優劣、上下関係)を決める決定的な要素なのに、そこにスポーツの科学的な要素や努力、戦略検討はみじんも入り込んでこない。*3

 ヤンキーマンガにおいて「バトル」というのは、「あらゆる社会的なしがらみ(コネとか)をすべて排して純粋に実力だけで上下を決める」という手続きであり、ケンカというバトルの後に仲が良くなったりするのは「暴力を通じて最も腹蔵のない関係を結んだ」という手続きでもある(あるいは瀕死の暴力を通じて仲間を守ったというセレモニー)。
 人間関係をとりむすぶ一種の「儀式」としてバトルがあるのだ。
 シュミットは『政治的なものの概念』で政治というのは敵と友の区別をつけることだというむねのことを述べているが、ヤンキーマンガではバトルを軸にして「敵」と「友」がつくられていく。昨日の敵がまさに今日の友、それも、誰よりも強い絆を持った友になったりする。
 ヤンキーマンガで描かれているのはまさに「政治」である。尾田が愛好しているという『次郎長三国志』はまさにそうした「政治」が描かれる。
 そしてその政治として「友」をつくりあげていく過程を描くことこそが、「友情」を描くという作業でもある。

 『ONE PIECE』はまさにこうしたヤンキーマンガの構造そのものである。

友情のためにバトルが奉仕する

 2010年6月30日付の「日経新聞」夕刊で竹内オサムが「マンガの時代」という連載で『ONE PIECE』をとりあげている。竹内は冒頭、

ジャンプが掲げる標語、「友情、努力、勝利」を地で行く作品。

と述べているけども、この「努力」はバトルに勝利するための努力ではなく、「友」を広げていき、「友」を守るための努力である。竹内が『ONE PIECE』について、

ルフィはさまざまな島や海域を旅しつつ友情を育む。そうした友達の連鎖が、そのままひとつにつながった財宝=ワンピースになりえているのだ。

とテーマの解説をしてみせているが、『ONE PIECE』では、バトル(勝利)は友情に奉仕するための下僕であろう。それはヤンキーマンガと同じ構造である。友情が主テーマであるならば、バトルは二の次の要素だ、という考えにはある意味で頷ける。竹内はさらに、

この作品は、少年マンガ本来のロマンが色濃い。リアリズム一辺倒に落ち込まないところが貴重だ。

とのべているが、そういうことからいえば、バトルというスポーツにおける科学や戦略を描くなどという「リアリズム」はまったく余計なものでしかないのだろう。

 こういうふうに自分なりに整理したとしても、なおも疑問は残る。
 ぼくはヤンキーマンガ全般にあまりのめり込めない。すべてをつぎ込んで暴力の優劣を争うはずのバトルそのものが科学的に描かれない以上、どうしてもそこに「真剣さ」が足りないのではないか、という思いが残ってしまうのである(ヤンキーマンガがなかなかのめり込めないのは他にも理由があるが)。
 『モンキーターン』や『ヒカルの碁』のようなスポーツマンガの場合、主人公たちは勝利にむけて科学的な精進を重ねる。負けるのも勝つのもきわめてロジカルだ。そのロジカルさを窮めるなかでライバルへの友情も芽生える、という構造を持っている。
 ぼくにはどうしてもそれが自然のように思えてしまうのだが、ヤンキーマンガや『ONE PIECE』が好きな人たちは、なぜあまり突き詰められてもいないバトルを介しての友情にそんなに感動できるのか、ぼくには依然不思議なのである。

全巻読んでいないことについて

 ところで、27巻までしか読んでねーよ、と断ったことへの批判も一定あった。
 前のエントリを書く数か月前に、友人たちが「最近『ONE PIECE』、また凄い展開になってる! 鬼気迫るものがあるよな!」と盛り上がっているのを聞いていた。「俺は弱い!」と叫んだという最近のルフィのセリフにキャラクターとしての奥行きを感じた、という友人のツイートも見ていた。最近の、というか今出されているところまで読まずに『ONE PIECE』を論じるのがいかに無謀か、というのもこういう事情一つでわかる。

 もともとネットが発達する前、紙媒体や論壇などでは、相手を批評する場合は、相手の著作をひととおり踏まえておくのは礼儀だった。できうれば、相手の著作に影響を与えたものや、その著作についての他人の主な批評をおさえておくというのが基本。まあ学問研究の文化や気風というのがそういうものだからね。たしか筒井康隆だったと思うけど、自分を批評した相手が自分の著作をまったく読んでいないであろうことに怒っていたのを読んだ記憶がある。そういう流れでいえば、批評対象の著作さえ読み切らずに批評するなどというのは初歩の初歩を忘れたマナー違反ということになる。

 まあ、こういう批判は、甘んじるより他ない。
 正面から問われれば、そのとおりだからだ。

 ただ、ネットが発達して、こうした批評行為に大規模に人が参入してきた時代でこういう基準が今でも有効なのかは検討の余地がある。そういうことを言いだせば、ネットで批評行為なんかできなくなってしまう。そして、厳しい基準をクリアしていないことが文化に否定的な影響を与えるかというとそうでもない。ちょろっと読んだだけの人がうける印象や感想がネットで流れることも明らかに文化的に好影響を及ぼすと思うからだ。

*1:余談だけど、少年マンガの作家たちを描いた『バクマン。』も「マンガ誌における人気1位」をめざす一種のスポーツマンガである。1位を獲得するために練られる主人公たちと編集者の共同の戦略は、スポーツの醍醐味そのものだ。ただそこには「成長」のドラマはあんましない。大場つぐみという人は『デスノート』でもそうだったが、「人間の内面」には興味がないように思われる。『デスノート』でも人間の心理の機微を描いているように見えて、実はお互いの戦略を探り合いしているだけであり、完全な「ゲーム」であった。『バクマン。』も主人公たちは少年らしく成長するのではなく、1位のためのゲームを演じているだけである。http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/death-note.html

*2:指摘アリ。この表現は確かに不正確

*3:数少ない例外の一つが、ひよわだった主人公がストリートの裏世界でのしあがっていく『ホーリーランド』で、あれはヤンキーマンガのなかで一番好きで、スポーツとしてのバトルに非常に馴染むのであるが、あれを「ヤンキーマンガ」に数える人はなかなかいないかもしれないw http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/WORST&HOLYLAND.html