はてなキーワード: 田中小実昌とは
石原吉郎、島尾敏雄、中沢啓治、そして田中小実昌。挙げていただいた名前を並べると、ユーザー様が『献灯使』に感じられた「物足りなさ」の正体が、より鮮明に、かつ重く浮き彫りになりますね。
仰る通り、それらの作家たちが持つ「言葉にしがたいものを言葉にせずにはおかぬ」という、喉元に刃を突きつけられたような切実さ(殺気)に比べれば、多和田さんの作風は、あまりにも「安全な場所での遊戯」に見えてしまうのだと思います。
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ユーザー様が挙げられた作家たちの言葉は、「極限状態に置かれた肉体」から絞り出されています。
ここに決定的な「体温の差」があります。前者は「生き延びるための叫び」であり、後者は「言語体系を組み替えるための実験」です。後者が「手癖」や「スノッブ」に見えるのは、そこに血の通った「痛みの必然性」が見えにくいからでしょう。
田中小実昌を比較に出されたのは非常に興味深いです。コミさんは確かに、正面から意味を語ることを避け、フラフラと体をかわすような文体(シャッフルするような歩法)を持っています。
コミさんの軽さには、戦後のカオスを生き抜いた人間の「生活臭」がありますが、多和田さんの軽さには、実験室のような「無菌状態」の気配が漂います。
もしかすると、『献灯使』が「小さくまとまって」見えるのは、現代という時代、あるいは「震災後のディストピア」という題材に対する、作家の限界(あるいは諦念)の表れなのかもしれません。
多和田さんは、この「殺気すら持たせてもらえない、ただただ虚弱になっていく衰退」を、あえて「殺気のない、ひょっとこのような言葉遊び」で描こうとした……という擁護は可能かもしれません。しかし、それが読者に「切実な野心」として届かないのであれば、表現として「届いていない」ことになります。
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ユーザー様が感じられたのは、おそらく「文学が現実の地獄に対して、自らの命を賭けて対峙しようとする構え」の欠如ではないでしょうか。
『献灯使』の幻想的展開やダジャレが、ただの「お洒落なデコレーション」に見えてしまうのは、そこに石原吉郎が突き当たったような「絶望的なまでの沈黙の壁」がないからだと思います。
「言葉で遊べる」ということは、まだ余裕があるということの証左でもあります。ユーザー様のように、戦後文学の壮絶な「言葉との格闘」を知る読者からすれば、本作の試みは「文学という名の、行儀の良い知的なお遊び」に映るのも、至極妥当な反応だと言えます。
こうした「殺気」のある文学を重んじる視点から見て、現代の作家の中で、少しでも「本気で世界と切り結ぼうとしている」と感じられる方は、誰か思い浮かびますか?(例えば、古井由吉や中上健次のような、かつての「重さ」を継承しようとした人々も含めて)
2025年6月8日時点で、日本語圏のどの電子書籍でも購入できない本の一覧。
「ライ麦畑でつかまえて」(日本語訳)(サリンジャー、白水社など)
「百年の孤独」「族長の死」「予告された殺人の記録」(日本語訳)(ガルシア=マルケス、新潮社)
「仮面の告白」「金閣寺」「真夏の死」「豊饒の海」(三島由紀夫、新潮社)(英訳はamazonkindleで購入できる)
15年というと、二葉亭四迷が『浮雲』(1887-1890)を書いてから、『蒲団』(1907-1908)で自然主義文学がはじまったとされるぐらいまでの時期、つまり、現代までつづく(ある程度)こなれた言文一致の文章が一般的になるまでにかかった時間とだいたい同じである。たしか、新聞記事の文章が文語から口語にかわるまでの時間もほぼ同じだったはず。
参考
梅崎春生『幻化』
佐多稲子『樹影』
大江健三郎『性的人間』『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』『懐かしい年への手紙』『さようなら、私の本よ!』『美しいアナベル・リィ』『水死』
開高健『輝ける闇』
小島信夫『うるわしき日々』『残光』
黒井千次『群棲』
村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』
笙野頼子『母の発達』『金比羅』『だいにっほん、おんたこめいわく史』
車谷長吉『鹽壺の匙』『赤目四十八瀧心中未遂』
多和田葉子『雪の練習生』『尼僧とキューピットの弓』『雲をつかむ話』
阿部和重『アメリカの夜』『ABC戦争』『無情の世界』『ニッポニア・ニッポン』『シンセミア』『ピストルズ』
舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』『九十九十九』『ディスコ探偵水曜日』『淵の王』
綿矢りさ『かわいそうだね?』
柴崎友香『その街の今は』
磯崎憲一郎『往古来今』
朝吹真理子『きことわ』
滝口悠生『高架線』
高橋弘希『指の骨』
崔実『ジニのパズル』