夢の中で、こんな場面を見た。
労働者風の中年の男が、誰のものか分からないが、自分の持ち物と一緒になってしまったものを、自分のものと、そうでないものに分別していた。
男は、自分のものを右、そうでないものを左に置いていった。
そして、男は、サイフを取り上げると、少し見て、左(自分のものでないものの置き場)に置いた。全く、さりげなく、自然に。
私は、非常にほっとした。
落とした財布が、そのまま帰ってくる世界・・・誰もが、そんな、当たり前の世界に住みたいのである。
ドアを開けっぱなしにして、机の上に財布を置きっぱなしにしても、何の心配もない世界である。
ある村では、誰も家に鍵をかけないのだという。
村人は皆、お互いを知っているし、困っている時は助け合うので、盗んだり、騙したりする動機が起こらないのだ。
だが、そんな村でも、村の因習(しきたり。風習)に従わない者を仲間外れにしたり、あるいは、積極的に排除しようとするかもしれない。
もちろん、従うべきルールはあるだろう。物質界に居る限り、利害関係は発生するからだ。
そして、新参者が知らずにルールを犯した時、古参の者達は、表面上は笑顔で寛大な態度を見せても、その目に、見下す色が混じっていれば、不和が起こる。いや、そんな場所では、隠されているかもしれないが、すでに不和は存在しているのである。
会社の中で、上司が部下に、「もっと俺を信用してくれよ」と言っているのを見たことがあるし、私も昔、上司に言われたことがある。
私は上司を全く信用していなかったし、私でなくても、そんなことを言われる者は、信用していた人に裏切られて痛い目に遭ったことがあるのかもしれない。
だが、こんな場面も見たことがある。
社長が常務に、「(この常務の部下の)部長に、あの件について配慮してやれ」と言う。
すると常務は、「部長は私を全く信用していません」と拒否する。
だが、社長は、「うん。そうだろうな。でも、配慮してやれ」と言う。命じるのではなく、頼んでいるのだった。
しかし、常務は、「だけど、それは、部長が会社を信用していないということです」と、反発した。
だが、社長が、ちょっと困った顔をしながら、「それでも配慮してやれ。俺も信用されてないんだ」と言うと、さすがに、常務は渋々従った。
理想社会とは、皆が家族と同じである社会だ。もちろん、普通に仲の良い家族だ。
誰も家族の財布なんて盗まないし、家族であれば、その者のためになることなら、面倒なことでもしてあげるだろう。
だが、今は、家族の財布は盗まないまでも、「なんで私が、あいつのために、そんな面倒なことをしなくてはならないのだ?」と言うのが普通になってしまっているかもしれない。
そして、体裁さえ整えば、事実上、財布を盗むに等しいようなこともするかもしれない。
あるいは、本当に家族に対する面倒見の良い者だって、自分の主義主張に反することを言ったりしたりした者には、家族であっても冷たいかもしれない。
アメリカ合衆国の公式標語は、「In God We trust(我々は神を信用する)」である。
つまり、こんな標語を作らないと、神を信用しない者が多いのだろう。確かに、神は、試練なのかもしれないが、自分を辛い目に遭わせることもあるように思うからね。
だが、イエスは、「神は、お前達に良いものを与えようとしている」と断言した。
それで、神をどう信用するかで、難しい哲学が生まれてしまった。
聖書の詩篇23に、「あなた(神)の杖と鞭が私の慰めです」という、不可解な、あるいは、嫌な言葉がある。
しかし、崖に向かう羊を、羊飼いが杖や鞭で打っても、羊は、なぜ自分が打たれたのかが分からない。
人間も同じだ。
神がなぜ打ったのかは分からない。
しかし、この上ない配慮によって打ったのだ。
昔、打たれたことであれば、分かると思う。
労働者風の中年の男が、誰のものか分からないが、自分の持ち物と一緒になってしまったものを、自分のものと、そうでないものに分別していた。
男は、自分のものを右、そうでないものを左に置いていった。
そして、男は、サイフを取り上げると、少し見て、左(自分のものでないものの置き場)に置いた。全く、さりげなく、自然に。
私は、非常にほっとした。
落とした財布が、そのまま帰ってくる世界・・・誰もが、そんな、当たり前の世界に住みたいのである。
ドアを開けっぱなしにして、机の上に財布を置きっぱなしにしても、何の心配もない世界である。
ある村では、誰も家に鍵をかけないのだという。
村人は皆、お互いを知っているし、困っている時は助け合うので、盗んだり、騙したりする動機が起こらないのだ。
だが、そんな村でも、村の因習(しきたり。風習)に従わない者を仲間外れにしたり、あるいは、積極的に排除しようとするかもしれない。
もちろん、従うべきルールはあるだろう。物質界に居る限り、利害関係は発生するからだ。
そして、新参者が知らずにルールを犯した時、古参の者達は、表面上は笑顔で寛大な態度を見せても、その目に、見下す色が混じっていれば、不和が起こる。いや、そんな場所では、隠されているかもしれないが、すでに不和は存在しているのである。
会社の中で、上司が部下に、「もっと俺を信用してくれよ」と言っているのを見たことがあるし、私も昔、上司に言われたことがある。
私は上司を全く信用していなかったし、私でなくても、そんなことを言われる者は、信用していた人に裏切られて痛い目に遭ったことがあるのかもしれない。
だが、こんな場面も見たことがある。
社長が常務に、「(この常務の部下の)部長に、あの件について配慮してやれ」と言う。
すると常務は、「部長は私を全く信用していません」と拒否する。
だが、社長は、「うん。そうだろうな。でも、配慮してやれ」と言う。命じるのではなく、頼んでいるのだった。
しかし、常務は、「だけど、それは、部長が会社を信用していないということです」と、反発した。
だが、社長が、ちょっと困った顔をしながら、「それでも配慮してやれ。俺も信用されてないんだ」と言うと、さすがに、常務は渋々従った。
理想社会とは、皆が家族と同じである社会だ。もちろん、普通に仲の良い家族だ。
誰も家族の財布なんて盗まないし、家族であれば、その者のためになることなら、面倒なことでもしてあげるだろう。
だが、今は、家族の財布は盗まないまでも、「なんで私が、あいつのために、そんな面倒なことをしなくてはならないのだ?」と言うのが普通になってしまっているかもしれない。
そして、体裁さえ整えば、事実上、財布を盗むに等しいようなこともするかもしれない。
あるいは、本当に家族に対する面倒見の良い者だって、自分の主義主張に反することを言ったりしたりした者には、家族であっても冷たいかもしれない。
アメリカ合衆国の公式標語は、「In God We trust(我々は神を信用する)」である。
つまり、こんな標語を作らないと、神を信用しない者が多いのだろう。確かに、神は、試練なのかもしれないが、自分を辛い目に遭わせることもあるように思うからね。
だが、イエスは、「神は、お前達に良いものを与えようとしている」と断言した。
それで、神をどう信用するかで、難しい哲学が生まれてしまった。
聖書の詩篇23に、「あなた(神)の杖と鞭が私の慰めです」という、不可解な、あるいは、嫌な言葉がある。
しかし、崖に向かう羊を、羊飼いが杖や鞭で打っても、羊は、なぜ自分が打たれたのかが分からない。
人間も同じだ。
神がなぜ打ったのかは分からない。
しかし、この上ない配慮によって打ったのだ。
昔、打たれたことであれば、分かると思う。