ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2011年11月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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食べ過ぎてはいけないが、少食過ぎてもいけない

人の運命は、食で全てが決まると江戸時代の高名な観想家の水野南北が言ったが、それは、簡単に言えば、「食が多ければ不運で不幸、食が少なければ、幸運で幸福」である。
水野南北は、命がけで学び、実践で磨き上げた観想で、ほとんどの運命の鑑定に成功したが、どうしても百発百中の的中とならなかった。そのため、荒行を敢行したのだが、その際、豊宇気毘売(トヨウケビメ)から、「食が全て」との啓示を受け、以降、食の多少で鑑定したところ、万に1つの失敗もなくなり、やがては、観想すら行わなくなったともいう。

また、南北は、食の慎みと共に、美食を厳しく戒め、自らも、米を全く食べずに麦を食べ、極めて質素な食事をした。酒は大好きであったが、1日1合(約180mL)と定めた。

だが、高徳な僧の中には、肉食をしたり、酒を飲む者もいる。一休や親鸞などの偉大な僧にすら、そんな者があった。
これについても、南北は明快に、「あまりに高潔であっては、教えを説くべき庶民が近寄れないので、あえてそのようなことをするのである」と言った。

ところで、もう1つ、あまりに清浄でいるべきでない理由がある。
それは、食欲や性欲といったものを、あまりに滅してしまうと、聖人にはなれるかもしれないが、世俗で生きていけなくなる。世俗の生活には、現実的には力がいる。当時も今も、その力とは、金やモノである。あまりに汚れ無き存在となれば、現実に対応できなくなるのである。
南北も、食は厳しく慎んだが、女好きは治らず、妻は8人いたという。だが、ことごとく悪妻だったにも関わらず、妾ではなく全て正妻とし、生涯、大切にした。また、南北は、人にも、食の慎みは説いたが、女に関してはおおらかで、それどころか、大いに食を慎みつつ、大いに女遊びをしろと教えたという話もある。ただ、あくまで、男の誠意を通せる範囲であることが必要とは思う。
また、南北は、食には厳しくとも、慈愛のある人情家であったと思われる。
南北の弟子で、非常な無骨者の弟子がいた。観想の方はいまひとつだったが、誠実だったその弟子に、家一軒を若い娘付きで与えたこともあった。「女中にするも良し、女房にするも良し」ということだったが、その弟子は、娘を妻にし、大事にしたという。

現代は、当時と比べても、世の中は更に汚れていると言える。江戸時代の日本というのは、実は、なかなか素晴らしい社会であったという研究者もおり、私も、いくらかの証拠から、そうに違いないと思う。
現代に生きる我々も、もちろん、食を慎み、また、性欲を煽って儲けようとする連中のカモになってはいけないが、あまりに清浄になると、やはり世間に対抗できなくなる。
私も、1日1食で、完全な菜食主義であるが、会食の際には、肉は食べないながら、魚介類やケーキの類は大いに食べるし、普段でも、黒砂糖や羊羹くらいまでなら食べて良いこととしている。また、適度であれば、萌えもありとしている。
『バガヴァッド・ギーター』でも、至高神クリシュナは「食べ過ぎてはいけない。しかし、少食過ぎてもいけない」と教えていた。

何事もほどほどに。
孔子も徳川家康も、それが何よりと考えていた。
仏教の教えもまた、中道であり、極端に偏ってはならないとする。
どのくらいが程よく、バランスがとれ適度であるか?それを自分で正しく定め、なおかつ実践できる者のみを大人と言うのだ。
成功も悟りも、まず、大人であることがスタートの条件である。
最終的には聖人や仙人になるも良いが、まずは世間を打ち負かそうではないか?それはたやすいことである。そのためには、やはり食を慎むのが、最も簡単で確実な方法である。









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地動説よりも重要なこと

私は最近まで、朝、腕振り運動をする時は、東に向かってやっていたが、数日前から、方向にこだわらないことにした。
これは、1つの意識の変革だ。
東を向くというのは、太陽を拝むとか、あるいは、日の神である天照大神を拝礼するという意味があるのではと思う。だが、太陽、および、天照大神への敬愛や思慕と、方向にこだわることは別だろうと思う。
阿弥陀如来を崇拝する者には、西には決して背を向けないという人がいるらしい。西には、阿弥陀如来の国である西方極楽浄土があるからだ。ところが、阿弥陀如来の信者の中に、西を向くのは恐れ多いからという理由で東を向くなどという者もいるのではないだろうか?

無論、天照大神や阿弥陀如来への深い信仰や愛から、自然に、太陽の方向、あるいは、西方を臨むというのであれば良いことである。
そして、イエスやラーマクリシュナが言うように、人にとって最も大切なことは、自分や世間をはるかに超えた至高の英知を愛することで、それを、宗教や信仰では、神を愛するという言葉でシンプルに言い表せるのであるから、やはり、非常に良く、悪いことではない。
しかし、多くの場合、東に礼拝すれば、あるいは、西を拝めばご利益があるという気持ちからであると思う。

黒住宗忠は、天照大神の開運を祈ったという。これは、神への愛からの行いである。だが、ご利益を求めてこれを真似する者が多いかもしれない。
宗忠の礼拝は美しいが、醜い意味での東への礼拝をするくらいなら、まずは自分の心を今一度、よく見るべきだろう。
元々、形は重要ではない。
宗忠が信仰した天照大神は、古事記に登場する女神というだけの意味ではなく、宇宙の根本神という意味があったはずだ。ただ、人は何らかの象徴がないと、心を向けることが難しく、神は、天照大神の姿を示したのだろう。
阿弥陀如来も同様で、別に、大仏様のような姿が、阿弥陀如来の本当の姿ではない。阿弥陀如来は、宇宙全てを照らす知恵と力と慈悲の大光明だ。しかし、仏像や仏画の阿弥陀如来の姿を、阿弥陀如来そのものと思っても、もちろん構わないのだ。
そして、天照大神といい、阿弥陀如来といい、それは、宇宙のあらゆる場所に遍満する存在で、実際は、時間も空間も超え、我々の思考や感覚でどうにも捉えられるものではない。
敢えて言えば、神仏への正しいアクセス経路は、自分の心の奥深くに向かうことである。
だが、こう言えば、「必ず方角は無視しなければいけないのか」と言いだす極端な心を持つ者もいる。一番に捨て去るべきは、このような極端論で、仏教ではそのために、中道ということを教えるのだろう。
本当に重要なことでなければ、どうでも良いのである。
ある地域では、天動説を信じている者も地動説を信じている者もいるが、両者が仲良く暮らしているそうである。昔は、それぞれを主張する者どうしが争い、殺しあいまでしたらしい。重要なことは仲良くすることだ。それが出来れば、天が動こうが、地が動こうが、どうでも良いことだ。科学的にすら、どちらとも言えない。単に重力のバランスの中で、軽い方が重い方の周りを回っているように見えるだけのことである。
カート・ヴォネガットは、「私が知っている、地球上で唯一の規則は、人に優しくすることだ」と言ったが、この重要なことを除けば、後は大抵、どうでもいいことだろう。









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至高者と1つになる方法

神、あるいは、万物と一体化した神秘体験は、様々な言い方がされてきた。
作家のロマン・ロランは「大洋感情」と言い、心理学者のマズローは「至高体験」と言う。
夏目漱石は「天賓」、岡本太郎は「爆発」だ。
エマーソンは、「自分の魂の中に、神の魂が流れ込んでくる瞬間」と哲学者で詩人らしい、素晴らしい表現をした。
ドストエフスキーは直接には表現せず、「その5分と引き換えに人生を差し出しても良い」とまで言う。
バーナード・ショー、エリオットらも、作品の中で美しく描いているようだ。

どれもきっと同じ体験であるが、シンプルだが、最も的確な表現をしたのは、アイルランドの詩聖W.B.イェイツではないかと思う。
それは、「エクスタシー」だ。エクスタシーとは、忘我という意味で、無我と同じだが、万物の中に自己が溶け込んで消滅した様子がよく分かる。イェイツは、芸術の目的はエクスタシだと言った。

さて、では、どうすれば、こんな神との一体化を体験できるのだろう?
だが、上にあげた天才達も、皆、分からないのだ。
マズローは、学者らしく、実験的にある程度の傾向は掴んだかもしれないし、彼と親交のあった英国の作家コリン・ウィルソンは、これがライフ・ワークなのだから、様々な方法を膨大な著書で述べている。しかし、IQ197の天才心理学者と、25歳で文壇の寵児になった世界的作家には悪いが、彼らもまた、よく分かっていないのだと思う。

イェイツもまた、分からないとしながらも、憎むのを止めた時に、それがよく起こると言った。
彼は、神との一体化を度々体験したと同時に、よく憎んだということだろう。こういった、決して聖人ではない、心に歪みや抑圧、あるいは、狂気を持つ芸術家の言うことは、案外に我々凡人にとって参考になる。
イェイツは言う。人は愛することは出来ない。なぜなら、愛とは神の領域だからだ。
その通りだ。我々が言う愛なんて、単なる、執着、欲望、エゴであろう。
だが、イェイツは、憎むことを止めることは出来るという。なぜなら、憎しみは人の領域だから、自分で支配できる可能性があるのだ。

萩尾望都さんが、わずか15ページの傑作漫画『半神』では、16歳の美しい少女が、妹をこの上なく愛すると同時に、この上なく憎んでいたことに気付いていた。
最大に憎んでいたからこそ、その憎しみが消えた時に、神のものであるはずの愛が現れたのかもしれない。

だが、人は、ただ1つ、愛することができるものがある。
イェイツにとっては、とんだパラドックスかもしれないが、人は、神を愛することだけは出来るのだ。
イェイツがなぜそれに気付かなかったかというと、おそらく、彼が、オスカー・ワイルドやニーチェの影響で、反キリスト思想を持っていたからだ。
イエスは、人にとって最も大切なことは神を愛することだと言ったのである。
ラーマクリシュナは、あらゆる宗教を学んだ末、全ての宗教は同じと悟った。そして、どんなやり方でもいいから、神を愛しさえすれば良いと言った。
ラーマクリシュナは、一切の聖典の類を重視しなかったというが、『バガヴァッド・ギーター』だけは神の本当の言葉だとして重んじたという。『バガヴァッド・ギーター』の中で、ラーマクリシュナがその名を借りたクリシュナの教えは、つまるところ、至高神である自分(クリシュナ)を愛せよということだ。
ラマナ・マハルシも、本で学ぶことには否定的なことを言うこともあったが、誰かが、「時々、バガヴァッド・ギーターを読むべきでしょうか?」と尋ねると、「いつもがよい」と答えている。
そして、浄土仏教の経典である『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』においては、釈迦は、最高の仏である阿弥陀如来を褒め称えよと説くが、これは即ち、至高者である阿弥陀如来を愛せよということに他ならない。
神と呼ぶか、仏と呼ぶか、あるいは、別の言い方をするかは自由であるが、至高者の存在を認識し、それを信頼し、自己を明け渡す時、即ち、真に愛する時、我々は、愛したそれと一体になる。それは、間違いのないことであると思う。









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易と神秘的感覚

あるお医者さんの入院患者の一人に男性の老人がいた。
ある夜、その老人が医者に、自分の杖をあげると言った。実は、その杖は、その老人のほとんど唯一と言える持ち物だった。
医者は少し躊躇したが、何かを感じて、杖をもらった。翌朝、老人は亡くなっていた。
この医者も、老人も、世間的な考え方を超えた感覚を使ったのだ。これを直観と呼ぼうが、超能力と呼ぼうが構わないが、人はそんな不思議な能力を持っている。
この医者は、患者が許可すればだが、易を立てて治療に使うことがあった。著名な精神科医であったC.G.ユングも易の威力に驚き、熱心に研究した。彼らが使ったのは、コインを使う方法で、ドイツ人の宣教師リヒアルト・ヴィルヘルムが、中国で学んできたものだった。
この医者が、神秘的感覚を持つのは、易に馴染んでいたことと関係するかもしれない。

大海の中で針を探すという言葉をご存知と思う。
ほとんど可能性の無いことを大袈裟に表現したものだ。
だが、人類の歴史の中で、英雄たちは、「よし、その針を探してやろう」と言って、それを見つけたのだ。
どんな時、その針を探すべきなのだろう。それは、探すべき時だ。それが必要であるなら、我々は躊躇すべきでない。
我々の内なる感覚がGOと言うなら、結果については分からないが、やってみるべきなのだ。結果は、神のみぞ知るだ。
自分の直観、内なる声、閃き、予感といったものを、我々は信じなければならないし、無視してはならない。ただ、それを得るためには、個人の意思は宇宙の意志にひざまずき、従うことを決意しなければならない。それを形にすることが、聖書の詩篇23や91を毎日読んだり、南無阿弥陀仏の念仏を唱えることだ。そうやって、至高の英知と和らげば、それに素直に従うだけで、全ては簡単になり、あなたは幸福になるだろう。









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神に任せることと怠惰になることとは違う

このブログで、度々、「宇宙の英知、あるいは、神仏に全て任せろ」、「諦めれば願いは叶う」と書いており、それは正しく、真実であるが、私は別に、怠惰になれと言っている訳では決してない。神仏に任せるべきことや、諦めるようなことと言うのは、あくまで、自分ではどうにもならないことである。
自分で出来ることをやらずに諦めたら、神仏が力を貸してくれるはずがない。
このあたりは、サミュエル・スマイルズの有名な言葉の通り、「神は、自分を助ける人を助ける」のである。

あなたが男性であるとして、好きな女の子がいて、是非、良い関係になりたいと思うことは自然であり、良いことである。
ところが、「どうせ俺なんか」と諦めてはどうにもならないし、自分で何もしなければ、ただ憧れているうちに、他の男がさらっていくに違いない。
まずは、声をかけて話が出来るようにならないと先に進まない。黙って、献身的につくすという手でうまくいく場合もあるが、それではほとんどの場合、気味悪がられることになるのがおちだ。
話が出来るようになれば、ゲーテも強く勧めたように、親切にすることだ。プレイボーイだったゲーテは、それで大概うまくいくと請け負っている。70歳を過ぎて10代の恋人がいたゲーテの言ったことだ。間違いないだろう。
食事に誘えるようになれば、プレゼントを渡すことも自然にやれるはずだ。
あまり早い告白は駄目だが、遅いのは良くない。もしうまくいくなら、既に相手は期待しているものだ。女性を待たせるものではない。
そして、後は、神仏に任せるのである。結果は、あなたにどうすることが出来るものでもなく、そうするしかない。
そして、これで、大抵はうまくいくものだ。もし駄目な場合、きっと神様はもっと美人を用意してくれているものだ。

逞しい身体が欲しければ、自分で鍛えるしかない。
無理はいけないが、本当に強くなりたいなら、ある程度はがんばらないといけない。こんな願いで、諦めるだの、神仏に任せるだの、断ち物だのと言うのは馬鹿である。

だが、本当は、あらゆる願いに関して、こういうことが言える。
それは、著名な精神分析学者のC.G.ユングが好んだ話にある。ある雨乞い師が、干ばつに苦しむ村にやってきて、3日で奇跡的に雨を降らせたというものだ。
どうやったのかと尋ねる村人に対し、雨乞い師は、「何もしてない」と答えた。雨を降らせるなんてことを、人が出来るはずがない。だから、彼は、神に全て任せたのだ。実際、彼は何もしていない。
対して、それまで、村人達は、神に任せていなかった。
神に任せるとは、神の意思に従うことだ。村人達は、自分の考えや欲望に従い、神の意思を無視し続けてきたのだ。

目の前に、好みのタイプの女の子が現れるというのは、決して偶然ではない。それを得よという神の意思かもしれないし、女の子と口を利くのが苦手なら、練習しろという意味かもしれない。どんな神の意図があるにせよ、かすかな神の声を聞き(心を静めて閃きを感じ)、それに従うことだ。
そうすれば、結果がどうであれ、あなたは素晴らしい恵みを得ることになるだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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