この世界が、3次元映像に過ぎないとするホログラム宇宙論は、なかなか実感し難いが、現実も夢と変わらない実体のないものだと言えば、分かり易いと思う。
つまり、夢も現実も何の違いもないということで、むしろ、夢の方が本当の世界に近いという者もいる。
しかし、ほとんどの人は、現実は夢より確かなもの、値打ちがあるものと思っているが、そう思う理由はただ1つだろう。
それは、現実には継続性があるが、夢には継続性がないということだ。
現実は、自分が生まれた時から、ずっと同じ世界が続いており、4歳頃以降の一貫した記憶や、写真や映像の記録もあるが、夢は1回1回が違う世界である。
だが、現実に継続性があるというのは、ただの思い込みで、過去の記憶は全部捏造である・・・と言っても、普通は誰も信じない。
しかし、夢だって、お城に住んでいるとしても、今、急にお城に住んでいるとは思わず、お城に住むことに何の不自然さも感じていない。つまり、ずっとお城に住んでいると感じていると思う。

目覚めている現実世界も、一瞬一瞬、新しい世界が創られているのに、世界は「俺はずっと前からいるよ」といった顔で嘘をついているのである。
こんなことを言うと、頭がおかしいと言われるかもしれない。
だが、「じゃあ、証拠を見せろ」とか「俺が納得出来るように言え」などと言われたら可笑しくなる。
それは、溺れている人に、「俺が溺れているって証拠を見せろ」「俺が溺れていることを俺に納得させろ」と言われるのと何の違いもないからだ。

時には、「この手のひらの上に金貨を出現させて見せろ。そうしたら信じてやる」と言う者がいるかもしれない。
だが、金貨が出現しない世界を瞬間瞬間に生成しているのは自分なのだ。
私は、これも作り物の記憶なのだろうが、7歳くらいの時に、世界が瞬間瞬間に生まれるものであることが直接的に分かってしまった。

旧約聖書の出エジプト記の中で、神がモーセに、自分が何者であるかを語る、聖書最大の見せ場がある。
神は、「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」と名乗ったと、ヘブライ語原典に書かれている。
この言葉を、16世紀にイギリスで「I AM THAT I AM」と訳したことから、それが標準になってしまい、日本語では「私は在りて在る者である」だの、「私は、私は在るというものだ」という妙ちくりんな訳が定着してしまった。
そんな日本語ない(笑)。
その言葉は、出来るだけ正しく言えば、おそらく、「私は常に生成する者である」となり、上で説明した通りのことが起こる理由である。
つまり、自分が神なのだ。
だが、我々は神の自覚がないので、一段下げて訳するなら、「私はなるようになるだろう」となる。

「私はなるようになるだろう」の方がまだ分かり易いはずだ。
こう唱えると、無自覚ながら神である自分が、好ましいようにしてくれる。つまり、良い世界を作ってくれる。
「私は常に生成する者である」と唱えると、神である自覚が芽生えてきて、自覚的に好ましい世界を作るだろう。
出来るだけ何も考えず、ソフトタッチ(穏やかな態度)で、これらの言葉を唱えると、世界は意のままである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)投影された宇宙 ホログラフィック・ユニヴァースへの招待(マイケル・タルボット)
(2)大きく考えるための小さな本~思いや考えは物質化する~(フレッド・アラン・ウルフ)
(3)人類史上最大の発見(ジョセフ・マーフィー)
(4)量子力学の多世界解釈~なぜあなたは無数に存在するのか~(和田純夫)

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