「国民にも戦争責任があった」 酷すぎる見方に欠けている視点

東条英機(前列左から3人目)内閣の閣僚ら。有権者が選んだ衆院議員は一人もいない。発足約2カ月後に太平洋戦争が始まった=1941年11月16日
東条英機(前列左から3人目)内閣の閣僚ら。有権者が選んだ衆院議員は一人もいない。発足約2カ月後に太平洋戦争が始まった=1941年11月16日

 大手メディアが8月に力を入れる戦争報道を、私は一年中続けている。物珍しいのか、夏以外にもしばしば講演やトークイベントに招かれる。

 取り上げるテーマの一つが、大日本帝国の戦争と「国民の戦争責任」だ。

 1945年8月15日も含めれば80回目となる「敗戦の日」を前に、この問題を考えてみたい。

 なお、先回りして言えば、新聞の戦争責任は非常に重い。稿を改めて論じたい。

「補償」の言葉を嫌う政府

 30年前の94年12月1日。

 衆院厚生委員会で「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律案」と「原子爆弾被爆者援護法案」について議論が交わされていた。

 焦点は被爆者に対する補償だ。

 原爆に限らず、政府は戦争被害者に対する「補償」という言葉を嫌う。国の不当な行為が国民に被害をもたらした事実を認めたくないからだ。

 代わりに前面に出すのが「慰謝」。つまりなぐさめだ。

 質疑の中で与党・自民党の熊代昭彦議員が述べた。

 「戦争に走った指導者を許してしまった、そういう国民の結果的な責任ではございますけれども、そういうものがあるということで、ひとしく受忍すべきであるというのも一つの考え方であります」

 ここで言う「受忍」とは、「戦争では国民全体が何らかの被害を負った。だから、それぞれが耐え忍ばなければならない」という理屈(戦争被害受忍論)であり、被害者への戦後補償を拒む政府やそれを追認する裁判所が繰り返してきた「法理」だ。

選べなかった「指導者」

 熊代議員の主張は、戦争について「当時の政治家を選んだ国民にも責任がある」という主張に連なっている。

 しかし、私はこの主張にくみしない。

 大日本帝国の…

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