人の上に立つ人・立ってわるい人

2004/06/28 (Mon)
NHK大河ドラマ「新撰組」の劇中セリフの中に「不幸は人の上に立ってはいけない人が人の上にたった時、もっと不幸なことは、ひとの上に立つべき者が人の上に立たないことだ」平易なことだが含蓄のあるセリフだと受けとめている。スポーツの世界でよく了解できる言葉だと思われるが、かつて米沢商業高校は「体操競技部門」で県内屈指の高校で知られ、米沢工業高校は「駅伝高校」として全国的に知られた高校だった。が、伝統は断ち切れである。体操競技部門では、米沢一中に在職中の夫人に才能ある中学生を、亭主が指導している商業高校体操部に推薦してもらうという夫婦二人三脚での成果であった。
米工駅伝部員は指導者のもと、松川河川敷に早朝から集合し鍛練に余念がなかった賜だった。小生は朝4:30分になると愛犬4頭を連れて松川河川敷に運動に出掛けていたから、部員たちの練習風景を眺めていたものであった。
一転して両高校から名物クラブの活躍の模様が知られなくなった。スポーツに限らず、いつの時代も指導者の能力如何によって、生徒たちの力が引き出されるものなのである。
情操の世界では市街地のこども達よりは、町村のこども達の入選作品が多く見られるのは、のどかな環境の中にあるだけでなく、指導される先生達のなかには確かな色彩と豊かな構図が育てられているからに違いない。
いま、わが国に枯渇しているのは確かな指導者なのである。それは単に教育だけの問題に限らず、政治、経済全般にわたっていえることであろう。
行政事務の怠慢だというだけでなく、年金の支払いを怠っていた党首たちが声を枯らして「国民年金選挙」を闘っているおかしさ。彼ら一様に年金問題に無頓着であった党首たちである。
いまさらのように年金問題を重要な闘いの中心にするなどの破廉恥さはどうだろうか。
人の上に立つに相応しい人物像といえるだろうか。
新撰組餓雇の時代ならば、彼らに粛正されていた人物群であったろう。
さて、米沢市長の場合はどうだろう。市政のリーダーとしての資質のほどは如何に。

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Posted at 03:04:37 2015/04/25 by
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