清和源氏とは、賜姓皇族のひとつであり、おそらく日本の氏族の中で一、二を争うほどの有名なものである。
要するに源頼朝や源義経など治承・寿永の乱でおなじみの彼らのことである。桓武平氏と並ぶ武家の棟梁として有名な存在であるが、そこに至るまでは決して平たんな道ではなく、また最終的には皮肉なことに嫡流は絶えてしまった彼らの末路をご存知の方も多いだろう。分家の中には室町時代を代表する足利氏や新田氏、守護大名としておなじみの細川氏、山名氏、斯波氏、畠山氏、一色氏、今川氏、最上氏、大崎氏、佐竹氏、武田氏、小笠原氏といった人々もこの子孫にあたり、戦国時代ファンにも割と親しい存在である。
しかし改めて考えてみると彼らはどのような道をたどってきたかを答えられる人はそういないかもしれない。そこで少し長々となってしまうかもしれないが、順に彼らの歩みを見ていきたいと思う。
清和天皇 | ||||||||||||||||
│ | ||||||||||||||||
│ | ||||||||||||||||
│ | ||||||||||||||||
├ | ─ | ─ | ─ | ┐ | ||||||||||||
│ | │ | |||||||||||||||
陽成天皇 | 貞純親王 | |||||||||||||||
│ | │ | |||||||||||||||
│ | ? | |||||||||||||||
│ | ||||||||||||||||
元平親王 | ||||||||||||||||
│ | ||||||||||||||||
? | ||||||||||||||||
源経基 | ||||||||||||||||
│ | ||||||||||||||||
├ | ─ | ┬ | ─ | ┬ | ─ | ┐ | ||||||||||
│ | │ | │ | │ | |||||||||||||
源満仲 | 源満政 | 源満季 | 源満快 | |||||||||||||
│ | ||||||||||||||||
├ | ─ | ┬ | ─ | ┬ | ─ | ┬ | ─ | ┐ | ||||||||
<摂津源氏> | <大和源氏> | <河内源氏> | │ | │ | ||||||||||||
源頼光 | 源頼親 | 源頼信 | 源頼平 | 源頼範 | ||||||||||||
│ | ||||||||||||||||
│ | ||||||||||||||||
┌ | ─ | ─ | ─ | + | ─ | ┬ | ─ | ┬ | ─ | ┐ | ||||||
│ | │ | │ | │ | │ | ||||||||||||
源頼義 | 源頼清 | 源頼季 | 源頼任 | 源義政 | ||||||||||||
│ | ||||||||||||||||
├ | ─ | ─ | ─ | ┬ | ─ | ┐ | ||||||||||
│ | │ | │ | ||||||||||||||
源義家 | 源義綱 | 源義光 | ||||||||||||||
│ | ||||||||||||||||
├ | ─ | ┬ | ─ | ┬ | ─ | ┬ | ─ | ┬ | ─ | ┬ | ─ | ┐ | ||||
│ | │ | │ | │ | │ | │ | │ | ||||||||||
源義宗 | 源義親 | 源義国 | 源義忠 | ? | 源義時 | 源義隆 | ||||||||||
│ | ||||||||||||||||
? | ||||||||||||||||
源為義 | ||||||||||||||||
│ | ||||||||||||||||
┌ | ─ | ┸ | ─ | ─ | ┬ | ~ | ||||||||||
│ | │ | |||||||||||||||
源義朝 | 源義賢 | |||||||||||||||
│ | │ | |||||||||||||||
├ | ~ | ┬ | ~ | ┐ | ├ | ─ | ┐ | |||||||||
│ | │ | │ | │ | │ | ||||||||||||
源義平 | 源頼朝 | 源義経 | 源仲家 | 源義仲 | ||||||||||||
│ | ||||||||||||||||
├ | ─ | ┐ | ||||||||||||||
│ | │ | |||||||||||||||
源頼家 | 源実朝 |
清和天皇の皇子のうち長猷、長淵、長鑒および載子の4人が、貞観15年(873年)に源の姓を与えられたのがその始まりである。さらに清和天皇のほかの親王になっていた皇子の子、つまり皇孫たちも次第に源の姓を与えられて臣籍降下されていった。
ということで実はかなりの人数がいるのだが、はっきり言ってほとんどの系譜について特に語るべきことはない。この中で唯一語るべきことがあるとすれば貞純親王の6男、六孫王こと経基王の子孫のみである…のだがその前にちょっと待ってほしい。
実はこの経基王、もとい源経基、実は清和源氏じゃない確率が結構高い。それは20世紀に発見された、石清水八幡宮に奉納されていた子孫の源頼信(この後登場する)が書いた文が、自分の先祖を陽成天皇の子・元平親王としていたのである。ここで陽成天皇ときてピンと来た人もいるかもしれないが、荒々しい気性が災いして天皇の座から降ろされたとされるあの人物である。
近年の研究によって陽成天皇の流れが天皇位を続けていくと不都合だったために降ろされ、後付けで様々な伝説がつくられた、ということも言われるようになったが、とりあえず源頼信が生きていた平安時代中期~後期の時点ですでに天皇としての悪名は高かった。そんな天皇が先祖では困るのですり替えられたよ説、陽成天皇の系統が庇護を受けるために清和源氏の系統に養われていた説、などさまざまあるが、とりあえず長いこと清和源氏って言っていたので今更陽成源氏って言いづらいし…という至極もっともな理由で今もなお清和源氏と呼ばれているのである(ていうか陽成天皇自体清和天皇の息子なので清和天皇の子孫には変わりないし…)。
まあ、正直事の真相がはっきりすることは多分ないと思われるので、明日使える豆知識程度に軽く読み飛ばしていただきたい。
さて、この源経基であるが承平・天慶の乱、つまり平将門の乱と藤原純友の乱どちらにも関わったことで桓武平氏高望流、秀郷流藤原氏などと同様自らの氏族が軍事貴族としての歩みを始めたきっかけとなった人物である…のだが正直言って子孫に比べるとうーんこの、としか言いようのない残念な先祖である。
そもそも平将門の乱自体事の発端がこの源経基が都に反乱を伝えたものであるのだが、ぶっちゃけ地元の抗争の調停を平将門と経基の上司の興世王が行っているさなか、何を勘違いしたのか自分を攻めてくると思って勝手に臨戦態勢に入った挙句都に逃げ帰った、というのが真相である。ぶっちゃけ都の公家たちもハイハイ妄想乙、と言って済ませていたら全く別の理由で本当に将門が反乱を起こしてしまったために、棚ぼたでなんか功績者のひとりになってしまった、というわけなのだ。
そして藤原純友の乱も、ぶっちゃけ討伐者のひとりになってはいるものの乱の征討自体には何も関わっていない。やったこと自体は乱の終結後敵の武将の一人を捕らえただけである。
このようにどうもみみっちく頼りない一人の男であったのだが、とにもかくにもここからすべてが始まったのである。
さて時代は藤原氏が次第に興隆していく前期摂関時代に移っていく。そんなさなか蝦夷由来の武芸を家の芸とし、都の武を司るようになった軍事貴族が承平・天慶の乱の功績者の中から生まれてきた。その一人が源経基の息子・源満仲である。
彼が歴史の表舞台に出るのは、外戚として北家藤原氏と皇位をめぐって対立していた醍醐源氏の源高明が失脚するに至った安和の変である。その最初のきっかけである反乱を企てているという密告を行ったのが、藤原氏の武力となっていた源満仲であったのだ。
実はこれには裏があり、源高明の陣営には同じ軍事貴族の秀郷流藤原氏・藤原千晴がいたのである。つまり、安和の変は中央での栄達をめぐる軍事貴族同士の争いでもあったのだ。そしてその争いに見事勝利した清和源氏は、摂関家となっていく北家藤原氏の隆盛と連動して都の武を一手に引き受けていくのである。
満仲の弟・源満政も各国の国司を歴任し、安和の変の時は検非違使として兄を助けた。八島を号した彼の子孫は美濃、飛騨、尾張、三河などに移り住み、朝廷の武力として活躍した山田氏や足助氏などが知られる。
さらにその弟である源満季は近江を拠点にし、代々朝廷の中堅、下級官僚や御家人の職に就いた。とはいえ小椋景房と河曲頼行の二人の勇将以外はぱっとせず、近世以降は旗本クラスに4家ほどいる程度である。
さらにその弟である源満快は信濃で繁栄した。子孫はあまり出世の機会に恵まれず、鎌倉時代には泉親衡が北条氏の排斥を狙い失敗している。
近世以降は大名家では安倍氏、諏訪氏、片桐氏が子孫を名乗っている。
さらに時代は花山天皇が排斥され、一条天皇が即位、藤原氏も数度にわたる後継者争いの末についに藤原道長の一門が繁栄を謳歌した後期摂関時代に移る。依然として各国の国司を歴任しつつ、都では摂関家の爪牙として活躍していた清和源氏は、藤原道長の系統に属することで同じく繁栄を享受するのである。
その時代に生きたのが源満仲の息子たち、四天王でおなじみ源頼光、清少納言の兄・清原致信の殺害を成功させ道長から殺人上手と褒められた源頼親、そして、多くの武家源氏の祖となる源頼信の三兄弟である。
特に源頼信は、かつて主従関係を結んだ平忠常の乱の鎮圧に桓武平氏である平直方らが手間取っている中、かねての縁もあってあっけなく彼を降伏させ、これに感服した直方が自身の娘と頼信の息子・源頼義の婚姻と鎌倉の地を差し出すといったほど、その名をとどろかせたのである(ちなみにこの直方の子孫が北条氏らしいが…)。
この三兄弟は次第に役割を分化させていき、源頼光の子孫・摂津源氏、源頼親の子孫・大和源氏、源頼信の子孫・河内源氏となっていくのである。
各国に進出し勢力を拡大していった河内源氏に比べると、中央の武力として代々続いていった摂津源氏はいまいちパッとしない。清和源氏としては嫡流であったのだが鹿ケ谷事件でおなじみの多田行綱は一の谷の戦いなどでの活躍があったものの、源義経とまとめて失脚してしまった。
また分家では源頼政が有名ではあるが、彼の子孫も様々な政争に巻き込まれて次第に消えていってしまった。
一方地方に進出した一門では美濃源氏の源国房の系統がおり、これが土岐氏として室町時代に繁栄を謳歌することになる。
このように清和源氏としては河内源氏に次ぐネームバリューのため近世以降子孫を名乗るものも多く、大河内氏、太田氏、植村氏、土井氏、池田氏、中川氏、仙谷氏、浅野氏など多数存在する。
大和と聞いた時点で嫌な予感がした人は相当な歴史オタクだろう。進出して早々興福寺との争いに敗れ、没落する。
それでも保元の乱で上皇方となった信実や、豊島氏、宇野氏、大野氏、朝日氏、福原氏、石川氏などが子孫として知られる。
今まで全く名前を出さなかったが、源満仲の4男である。特に目立った活躍はせず、しかも兄・源頼光の猶子になったことから摂津源氏と混同されることもしばしばある。そのため子孫もぱっとせず特に触れることはない。
さらにその下の弟である。子孫は蔵人の事務担当である勾当を名乗り朝廷の文を担当していったようだ。しかし承久の乱での朝廷の敗北によって活動は途絶えてしまった。
さて、ここからは河内源氏の活躍を述べていこう。少し前倒しに出てきてしまったが頼信の嫡子が源頼義である。彼は受領として各地の国司を歴任し、また父親の功績で平直方の娘婿になるなど、若いころから期待のホープとして名をあげていた。父親である源頼信が上司である藤原頼通に、あいつには武の才能があるのでそっちの仕事を回してくださいと言ったほどである。
その彼を代表する出来事が前九年の役である。陸奥守の任についた彼は現地で反乱を起こしていた安倍頼良(最近では俘囚の長というわけでもなく現地豪族安倍氏の子孫という微妙に違う扱いらしい)対策のために向かうが、頼良は名前が同じではいけないと安倍頼時に名前を変えるほどの低姿勢で恭順し、また藤原彰子の病気平癒祈願の恩赦もあって普通に陸奥守ライフをエンジョイすることになった。
が、彼が陸奥からもうすぐ立ち去ろうというとき、それまで頼義の庇護の下にあった在庁官人の暴走などから安倍氏が頼義を狙っているという騒動に発展し、前九年の役が勃発することになったのである。
安倍頼時の娘婿である平永衡をうっかり殺してしまった結果、同じく娘婿であった藤原経清の離反を招き、安倍頼時は討ち取ったものの、跡を継いだ安倍貞任に黄海の戦いで大敗北をしてしまう。そんなこんなでだいぶ不利な状況に追い込まれた源頼義であったが、出羽の清原光頼(こちらも俘囚の長とかそういうわけではなく、中央から下った清原氏の一門が土着したという扱いになってきたようだ)の大軍勢の援軍で、衣川関の戦いや厨川柵の戦いを経て無事平定に成功したのである。
この功績で正四位下伊予守という公家一歩手前レベルの大恩賞を与えられたが、晩年は仏道に励んだことが説話などに見られる
父親である源頼信が上司である藤原頼通に、あいつには文の才能があるのでそっちの仕事を回してくださいと言った次男である。この頼清も各地の国司を歴任するのだが、孫の源惟清の刀傷沙汰で一時的に没落してしまう。しかし信濃に進出し、村上氏となった彼らは以後も信濃最大の国人として名をとどろかせていくのである。
父親である源頼信が上司である藤原頼通に、あいつは無能なので何も任せないで下さいといった三男である。その後兄と同じく信濃に進出し、井上党となったようだ。
特に何も言われなかった四男である。先祖代々の河内を号していた。滝口の侍、さらには各地の国司として一時的に栄えたが、没落して消えてしまったようだ。
特に何も言われなかった五男である。関東の常陸に進出し常葉を号していた。常陸にそのまま土着し、のちに佐竹氏の下に入った国井氏が子孫とされる。
さて、物語は源頼信と平直方の娘との間に生まれた八幡太郎源義家、賀茂次郎源義綱、新羅三郎源義光の三兄弟の時代に移る。彼らは父親が築いた地位を継承し、このまま何もなければ特に問題なく栄華は続くはずだった。
しかし時代は摂関家が衰え、院政が始まる。彼らの主君であった摂関家の権勢に陰りが見え始めたのである。しかも源義家は清原氏の跡目争いにほぼ私的に介入、後三年の役の勃発である。朝廷からのたびたびの催促を無視しただけではなく、戦いは泥沼化した一方、中央に残った義綱は都で次第に権力を増し、応援に駆け付けた義光も太平洋沿いに独自の勢力圏を築きたいのが見え見えであった。
後三年の役を何とか収束させた後も源義親、源義国といった彼の息子たちもまた、自分の勢力圏を築こうとあちこちでほかの一族と衝突を繰り返す。八幡太郎という武家の棟梁の象徴である彼であったが、河内源氏は次第に空中分解をはじめ、そんなさなか彼は亡くなったのだ…。
上にあげたとおり源義家が泥沼の戦いの中にいるさなか中央で栄達し、次第に地盤を固めていった。しかし経緯は後述するが内紛によって彼の系統は粛清され、ごく一部を除いて族滅されてしまった。
経緯は後述するが源氏内の内紛の種。常陸に地盤を築き長男は常陸源氏佐竹氏や近江源氏山本氏、騒動を起こし甲斐に流罪になった次男は甲斐源氏武田氏や小笠原氏、南部氏に、三男は信濃源氏平賀氏に、といった具合に有名人だらけの分家その1。
当然近世に入ってからも多くの子孫が大名となる一方、承久の乱で院方についた平賀氏の分家・大内氏(室町時代のあの人とは違う)が堂上公家の竹内氏として清和源氏唯一の公家となっている。
源義家が亡くなった後まず起こったのは彼の次男で配流されていたはずの源義親の乱であった。そしてそれを討伐したのが、これまで伊勢で延々と内紛を繰り返していたはずが、それを解消し院に接近して院近臣になっていた伊勢平氏の平正盛だったのである。
さらに悲劇は続く。早世した義宗、討伐された義親、北関東に進出し叔父・源義光とトラブルを延々と続けていた源義国と上三人が候補から消え、その下に続き源氏を継ぐはずだった弟の源義忠が暗殺され、おまけにどさくさ紛れに叔父の源義綱の一族も族滅されたのである。その背後には源義光がいたとされる…。
こうして後を継いだのは、まだ幼い義親の息子(弟という説もある)源為義であった。経験不足の彼に一族を統制する能力はなく、分家連中どころか家人たちまで勝手気ままに行動するようになってしまったのである。白河院はチャンスを与えてはみたものの、その能力に欠けるとみなされ、かつての武家の棟梁たる源氏の居場所は次第に失われていった。後継者候補であった源義賢でさえも都に残ることはできなかったのである。
一方そんなさなか、関東に拠点を移し勢力を拡大させていた庶長子の源義朝(ここら辺学会の東西で対立しているデリケートな部分だからあんま触れないように)は藤原信頼ら院近臣に接近し父親や弟たちとたもとを分かつ。都を追われ秩父平氏と結んで北関東に勢力を拡大しようとした源義賢を、義朝の息子の源義平が殺したことは完全に手切れの合図であった。
そしてとうとう保元の乱が始まる。摂関家の武力として動員された源為義一門は崇徳上皇側につき敗北、後白河天皇側についた源義朝、源義康らの一門が彼らに代わって次第に勢力を回復させていく…はずだった。
京都を追われ早くから関東にのがれ、後継者候補からは外されていた源義親の弟。下野・上野を開拓し在京活動担当の足利氏と在地活動担当の新田氏が分流し、細川、仁木、畠山、桃井、吉良、今川、斯波、渋川、石塔、一色、大崎、最上、山名、里見もろもろの祖である、といった具合に有名人だらけの分家その2。ここまで書けば室町時代史勉強しての一言でいいよね?
松平氏が新田氏の子孫を自称しているので近世以降も徳川・松平一門がここの系統を称する一方、関東公方の喜連川家や高家・交代寄合に生き残っている。
前述した暗殺された本来の嫡流。そのため嫡流意識が高く、河内や稲沢を号したものもいるが、源のまま代々続いていった一族も存在する。
そのさらに弟。保元の乱で族滅に近い状態になるが子孫は一部信濃を拠点に残った。
そのさらに弟。官途に恵まれずパッとしない存在だったが、平治の乱の際源義朝に従い壮絶な討ち死にを遂げた。
保元の乱に勝ち上がりようやく出世のコースを登り始めた源義朝であったが、はじめから院近臣で高位についていた平清盛との差は歴然であった。また源義国の息子でのちの足利氏の祖である源義康とお互いに熱田大宮司家から妻を迎えて義兄弟となり、都の軍事貴族のナンバーツーとナンバースリーで協力していこうとするも、その義康は早くに亡くなってしまう。
一方摂関家の勢力がごっそり抜けた後をふさいだのは、院近臣の中でも新参だった信西と平清盛であった。これに白河院以来の旧来の院近臣が反発し同盟を結び彼らの排除をもくろむ。平治の乱の始まりであった。源義朝一門は藤原信頼のパイプでこれに協力するも、信西の殺害に成功した後は後白河上皇派と二条天皇派に分裂、そこを清盛に利用されて藤原信頼たちは敗北したのであった。
源義朝は逃走するが道中で殺され、庶長子の源義平と源朝長も戦死、嫡子であった源頼朝は平氏のうち池家の助命で伊豆に流される。残りの息子たちも配流か仏門に入れられ、河内源氏の勢力は佐竹秀義、武田信義、加賀美遠光、平賀義信、新田義重、志田義広、新宮行家といった具合に地方にはだいぶ残ってはいたものの、中央からはほとんど排除されたはず…だった。
無官だった源義朝とは異なり東宮の親衛隊である帯刀先生にあったことから、彼が嫡流として後継者候補にあったのではないかといわれる。しかし失策によって都を追われ、北関東を秩父平氏と協力して席巻しようとするも、房総平氏や三浦党・鎌倉党といった相模武士たちと協力して南関東をしめていた源義朝と対立し、大蔵合戦で殺されてしまった。
長男の源仲家が源頼政の養子だった関係から子孫は八条院の勢力につき、仲家が以仁王の乱でともに滅ぼされると、その弟の源義仲は以仁王の子息・北陸宮を旗印に各地の軍事貴族と連合軍を結成し平家の都落ちを実現するが…って説明いる?
彼の息子である源義高は誅殺されたはずなのだが、木曽氏が子孫を称していたりする。
やがて二条天皇派も排除され、残った院近臣勢力も鹿ケ谷事件と後白河法皇の幽閉で壊滅状態に陥り、その隙間は近衛家を梃子とした桓武平氏の平家一門に完全に掌握されることとなった。しかし八条院派が巻き返しを図り以仁王の挙兵、源頼政のそれへの協力が起きる。平家はこれを討伐するも、その結果関東で大きな勢力交代と頼政一門の討伐が始まったのだ。そこをほぼ政治的に死んだと思われて中央からは忘れ去られていた源頼朝に利用され…って説明いる?
というわけで従兄弟の源義仲の活躍とその最期、源義経の躍進や兄弟対決とその末の悲劇、鎌倉幕府の設立などでおなじみの治承・寿永の乱である。ただこの二人ばかり強調しても面白くないので頼朝の他の兄弟たちも併せて紹介しよう。
それまで協力関係にあった九条家を切り捨て村上源氏と手を結び、皇族に接近しようとした源頼朝だったがこの計画は失敗に終わる。そのまま落馬が原因で亡くなってしまった。
そして後を継いだのが源頼家である。吾妻鏡一辺倒の評価ではなく様々な資料の精査により、比企氏のパイプラインを用いた側近政治を行おうとした気配のあるこの人物だが、大豪族たちの反発によりあえなく失敗。比企氏の乱で息子の一幡を殺され、彼自身も誅殺されることとなった。
そして最後の河内源氏嫡流・源実朝である。こちらも従来に比べ政治意欲が高かったことが次第に主張されるようになるが、北条義時を殺そうとした源頼家の子・公暁に殺されることとなり、公暁もすぐに始末された。源頼朝の庶子・貞暁は将軍には決してなろうとはせず、源頼家のほかの子息たちもたびたび反旗の旗頭に持ち出されて栄実、禅暁は誅殺されて全滅、源頼茂や平賀朝雅、阿野時元や吉見義世といった有力一門の粛清・反乱も相次ぐがもはや時代は清和源氏を将軍とすることを否定するようになっていった。
こうして北条氏の時代が始まる。一方で門葉かつ大豪族だった足利氏が次第に源氏のUTSUWAとされていくのだがそれは遠い未来の話である…
清和源氏というのは武家にとってはステータスであり、徳川氏や島津氏に代表されるように自称清和源氏もちらほらいる(徳川はそもそも先祖が辿れない、島津は資料が惟宗氏って認めちゃってるから)。
掲示板
25 ななしのよっしん
2023/12/05(火) 11:27:39 ID: 0POZd13WTF
頼朝が作った鎌倉幕府を色々有って仕切ることになった北条は平氏から出ているけど骨肉の争いがやたら多いしな、子孫以外にも悪影響が…。
26 ななしのよっしん
2024/03/18(月) 21:41:58 ID: e/bHzd64BN
もうね後世になるほど詐称だらけで本物探す方が難しいですわ
27 ななしのよっしん
2024/09/22(日) 23:30:09 ID: IgeJf5THBD
どこの源氏でも臣籍降下した初代は天皇の子や孫ってことで朝廷で高い地位に就けて代が下っていく毎に中央での地位が低下して少しずつ地方に下っていくものなんだけど、
清和源氏の場合はその初代すら大して偉くなれなかったので早々に地方に下るしかなかったんだよね。だからこそ全国各地で武士としても発展したと言える。
逆に摂関家の養子に入ったことで一門扱いになって代が下っても中央で高い地位を維持し続けたのが村上源氏。
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/23(月) 05:00
最終更新:2024/12/23(月) 04:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。