河内源氏5代棟梁とされるが、河内守には任ぜられていない。 一般的には源義朝や源為朝、源行家らの父として知られる。
源義家の後を継いだ源義忠が志半ばで斃れると、14歳にして左衛門少尉に任ぜられるなど白河院から河内源氏の後継として期待される。
しかし自身や郎党に問題行動が多かった事で信頼を失うと藤原忠実・頼長親子に近づき、摂関家の武力としての立場を得ることに成功するも、今度は妻の実家である熱田大宮司家のパイプから鳥羽院に近づいた長男・義朝と対立する。
父子で骨肉の争いを繰り広げる事となり、保元の乱では忠実・頼長の武力として崇徳上皇側に付くも敗北。義朝の懸命な助命活動も虚しく、息子の手で斬首された。
自らの行動が京都における河内源氏凋落の要因の一つになってしまったこともあり、特に同い年であり後の平氏の栄華の礎を築いた平忠盛とは悪い意味で比較されることが多い。
非常な子沢山に恵まれたことで知られており、男女合わせて40人以上の子供が居たとされる。
永長元年(1096年)に八幡太郎・源義家の子で「悪対馬守」で知られる源義親の四男として産まれたとされるが、資料によっては義家の子という説もある。(※後述)
嘉承元年(1106年)に義家が亡くなると、その三男・義忠が後継となるもわずか3年後に暗殺されてしまう。物的証拠などから義家の弟で賀茂二郎・源義綱の一族が疑われる事になるも、無実を訴える義綱一族は抗議のために甲賀山に立て籠もってしまった。
追討使として抜擢された為義は新羅三郎・義光の協力もあって義綱を捕縛する事に成功する。この功により為義は左衛門少尉に任ぜられる。なお義綱の子は全員自害している。
しかしこの事件の黒幕は義光であり、義綱に罪を着せるように証拠を仕込んだとされる。これは義光が義忠・義綱といった実力者を排して自身が河内源氏の棟梁を望んだが故での行動と見られている。しかし陰謀が露見したため義光は本拠から出ることが出来なくなった…とされている。
正確なところはハッキリしていないが、この時期に河内源氏内での勢力争いがあり、その結果義家亡き後の短期間に義忠・義綱・義光といった実力者が一気に歴史の表舞台から去った事は事実であるようだ。この一族いつも内輪揉めしてんな?
「為義が義親の四男である」というのは室町時代に成立した尊卑分脈の記述であるのだが、平安時代の資料には義家の四男とも書かれて居るため、どちらが正解かはハッキリしていない。
尊卑分脈を尊重して「義親は義家の嫡男であったが、素行不良のため後継を外されて急遽義忠が後を継いだ」という説に基づく場合は、義親の四男と捉える方が妥当と見える。しかし為義を義親の子にした場合、義親の他の兄弟達の名乗りなどから為義は正室の子ではないと考えられるため、なぜ庶子で四男の為義が後継になったかに対する明確な答えが必要と思われる。
一方で「義家存命中から嫡男は義忠に決まっており、義親はハナから後継争いからは外されていた」のであれば義家の子である方が自然である。なお義忠の一つ下の弟義国も義親同様に素行不良で知られているため、ここも後継からは外されていた可能性が高い。
なお、当記事では通説である義親四男説を取る。
ここに同い年で1年前に13歳で左衛門少尉に任ぜられた平忠盛が現れる。忠盛は白河院の絶大な信頼の元に20年の間に次々と昇進を重ね受領を歴任し従四位下まで上り詰めた。
その一方為義は20年で検非違使になる事は出来たもののそれ以上は望めず、官位も正六位上に留まり昇進することは出来なかった。
これは摂関家と縁の深い河内源氏の勢力を叩き、対抗勢力として伊勢平氏の武力に期待するいう白河院の政治的要因もあるのだが、それ以上に遥かに大きい要因となってしまったのが本人及び郎党たちの行動である。
というのも中右記や長秋記といった当時の貴族たちの日記に「犯人逮捕に派遣させたら容疑者を匿う」「犯人逮捕に派遣させたら逆に殺人事件を起こす」「郎党の暴力・略奪」「同僚と揉める」といったものが十回近く記録されており、鳥羽上皇にいたっては「為義を海賊追討に派遣するのはその国を自ら滅ぼすようなもの(意訳)」とまで発言した記録が残っているなど、相当に厄介な扱いをされている事がわかる。
同時代に書かれた資料にここまで記録されているのは、相当珍しいことである。おそらく記録に残っていないものも含めればこれでも氷山の一角である事は容易に想像できる。
それでも為義はなんとか首を繋いでいたが、保延2年(1136年)ついに左衛門少尉を辞任に追い込まれ無官となってしまった。なおこの頃の父の苦境を見た事がきっかけかどうかは分からないが、この間に少年期の義朝は京を離れ東国へと移住している。
拠り所を失った為義は康治期(1142年~)になると藤原忠実・頼長親子に接近し、摂関家の武力としての活動が見られるようになる。忠実は為義を高く評価しており、久安2年(1146年)には10年ぶりに中央政府に復帰すると左衛門大尉に栄転・検非違使として返り咲くこととなる。
なお藤原忠実は、一族の有力者達が次々にこの世を去り若くして一族を背負う事になるも、その若年から来る経験不足によって失敗を繰り返して対抗勢力に辛酸を嘗めさせられる、という為義と似た青年期を過ごしており、このあたりに為義とシンパシーを感じた事が高く評価した事のキッカケだったかもしれない。
藤原忠実によって為義が中央に復帰するのとほぼ同じ時期に、関東から息子・義朝が京に戻ってくる。義朝は源氏の御曹司として立場を活かして関東の武士達と抗争を繰り広げて勢力拡大を続けた結果、自身の武士団を築き上げ南関東の覇権を握る事に成功しており、その武名を利用して中央へと進出してきたのであった。
これは従来では為義の指示によって関東の武士団を組織化する事が目的だったとされているが、近年では義朝は為義の嫡男から外れておりむしろ父への対抗を目的とした地盤作りであったと見られている。そして京に進出した義朝は、正妻・由良御前の実家である熱田大宮司家が院近臣である事を利用して鳥羽院に取り入ることに成功する。
これにより摂関家側の為義派と院近臣側の義朝派で勢力が分かれ、京での政権争いと連動する形で対立が激化する事になる。
仁平3年(1153年)に義朝は河内源氏としては50年ぶりに受領に任ぜられ、従五位下へと昇進した。これは検非違使である父を超越した大抜擢であった。一方為義は翌久寿元年(1154年)に八男・為朝の乱行を理由に解官の憂いに合う。これは院近臣勢力による摂関家勢力の追い落としの側面が大きいと見られている。
翌久寿2年(1155年)、南関東に勢力を持つ義朝への対抗策として北関東で勢力を伸ばしていた次男・義賢が、義朝の長男・義平によって討たれる事件が発生する(大蔵合戦)。この軍事行動を院近臣である武蔵国・藤原信頼が黙認したため、義平の行動は問題視されず処罰されなかった。これを恨んだ為義の四男・頼賢が兄の仇を取るべく挙兵したため、義朝が頼賢追討に関東に出向く事態に発展している。このときの衝突は直前で回避されているが、両派の対立は修復不可能に陥った。
なお大蔵合戦でわずか2歳で父・義賢を無くし斉藤実盛の手によって中原兼遠の元に送られたのが駒王丸…後の木曽義仲である。
為義と義朝がここまで対立する事になった直接の原因は分かっていないが、義朝の勢力圏の多くが鳥羽院の知行国であったために東国での勢力の維持のためには鳥羽院との連携が必要であり、摂関家と距離を取らざるをえない立場であった事が義朝が父との距離を取る理由になった可能性がある。
鳥羽法皇の崩御により院近臣と摂関家の政治対立の最後のストッパーが失われてしまった事で、保元元年(1156年)、保元の乱が勃発する。
当然ながら為義は忠通・頼長親子が属する崇徳上皇方として武士団を率いて参陣することになったため、後白河天皇方についた義朝とは敵対することとなった。
義朝・清盛の夜襲をきっかけに乱は天皇方の勝利に終わり、為義は義朝の元に出頭する。義朝は自身の功と替えてでも父や弟達の助命を訴えたものの聞き入れられず、最期は義朝の手によって処刑された。
なお郎党の狼藉行為の多さは前述の通りだが、息子達にも狼藉行為が多かったようで、後継であった次男・義賢も殺人犯に加担した事で帯刀先生の役職を解任され、その後仕えた藤原頼長の知行国・能登国で預所の任に就くも年貢未納でこれも解任させられ、頼長の男色の相手にされたとされている。
八男・為朝は、為義にすら手に負えないほどの荒くれ者であったためにわずか13歳で九州に放逐されるも、今度は九州で大暴れを繰り広げてわずか三年の間に九州の豪族たちをまとめ上げてしまった。
なお長男・義朝であっても南関東をまとめ上げるのに抗争を繰り広げた結果、伊勢神宮領である大庭御厨に攻め入り狼藉行為を働く事件を起こしているなど、とかく自身・周りを含めて気性の荒いエピソードが多い。
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最終更新:2024/12/23(月) 09:00
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