一般的には藤原定子と藤原彰子の夫、以上で済まされる感のある天皇。
ただし、生まれてから死ぬまで、北家藤原氏の後宮政策に翻弄され、天皇自身も自分の役割をきちんと認識し、死ぬまでそこから逸脱しなかったという、模範的な偶像を演じた存在である。
当時2つあった冷泉皇統と円融皇統のうち、円融天皇と藤原兼家娘の藤原詮子の子供・懐仁として生まれた。というか、円融天皇の唯一の実子となった。
この、円融天皇の唯一の子供というのが、大きな問題となる。というのも、まず、円融天皇は藤原兼通(藤原兼家の兄)の娘・藤原媓子を中宮としていたのだが、彼女の死後に懐仁の母親である藤原詮子と小野宮流の藤原遵子の、どちらをその後釜にするかが問題となった。そして、中宮となったのは、子供を設けていた藤原詮子ではなく、藤原遵子の方だったのである。
『栄花物語』や『大鏡』といった、やや遅れて成立した歴史物語では、この決定はかなり批判を浴びたとされている。実際に『円融院御集』では円融天皇が藤原詮子本人から、「なきにおとりて(子供の無い藤原遵子よりも劣って)」という節がある和歌が送られている。『栄花物語』では以後、藤原兼家一門がサボタージュする姿が描かれている。
しかし、結局他に子供がいなかったので、円融天皇は懐仁を皇太子とし、関係が修復された。が、当時としては冷泉皇統との両統迭立状態にあったので、先に即位したのは花山天皇であった。のだが、藤原兼家の陰謀かどうかはともかく、花山天皇は「寛和の変」で1年ちょっとであっけなく退位した。
ということで、7歳で一条天皇となり、藤原詮子も皇太夫人を経ずに皇太后となり、「東三条院」として日本史上最初の女院となった。
ということで、それまで長老格にあった小野宮流の藤原頼忠に代わり、九条流としては三男の藤原兼家が、外戚として摂政となった。しかし、当時はまだ兄の流れで嫡流扱いされていた冷泉皇統が存在し、皇太子にも冷泉天皇の息子・居貞親王(後の三条天皇)が据えられた。というか、上述の通り円融皇統はこの当時、この一条天皇本人しかいなかったのである。
ぶっちゃけ『栄花物語』では藤原兼家は、居貞親王もかなりバックアップしており、実際はそうはならなかったのだが、一条天皇は中継ぎになる可能性も大いにあった。
一方、この即位後に起きた政治的な事件として、新制十三箇条、及び五箇条の発布と、かの有名な藤原元命排斥を訴える「尾張国郡司百姓等解文」である。後者の藤原元命は花山天皇派閥として排斥されたという説はともかく、こうした経験が成人後の一条天皇の治世に反映された指摘があるようだ。
ということで、永祚2年(990年)、11歳で元服し、藤原兼家の孫・藤原道隆の娘である、藤原定子と結ばれた。前述の通り、円融皇統には一条天皇以外誰もおらず、一条天皇本人も自らの外戚となった後の「中関白家」を安心させるためのパフォーマンスなども行ったのだが、この2人の間に全く子供が生まれる気配がなかった。そうこうしているうちに、藤原道隆が病で関白を降りようとしたのである。
藤原道隆本人的には、自分に代わるのはその息子の藤原伊周としていたのだが、この藤原道隆の意志を周囲が抑えるという状況にあった。特に大きかったのが、一条天皇の母親である藤原詮子の意志で、『大鏡』の描写はともかく、少なくとも藤原伊周の相続だけは避けたいというのは事実ではあったようだ。
そして、藤原道隆が死に、後を継いだ弟の藤原道兼も10日程度で死ぬと、藤原詮子の意向もありさらに弟の藤原道長にポストが回る。おまけに「長徳の変」という、藤原道隆の息子である藤原伊周・藤原隆家のやらかしに対し、藤原道長は厳罰を求める。藤原伊周は太宰府に流されながらも、藤原定子が懐妊していたことに希望を寄せるが、生まれたのは皇女である脩子内親王だった。
藤原定子はこの騒動のショックで出家に近い身の上になっていたものの、一条天皇の寵愛は薄れず、宮中に再度戻り、『小右記』で藤原実資に非難されている。かくして、長徳3年(997年)にはあっけなく藤原伊周らは戻ってきた。
ということで、藤原定子が、一条天皇の愛を受け続けるのと、それはそれとして権力基盤が不安定になったのとで、かなり面倒な事態になった。当時まだ、後に一条天皇に嫁ぐ藤原彰子は幼児であり、間隙を縫う形で藤原元子(藤原兼通孫)と藤原尊子(藤原道兼娘)が入内された。なお、この当時一条天皇にまだ皇子は一人もおらず、早い話誰が一番最初に皇子を産むかが、一番の問題となりつつあった。
この争いに、長保元年(999年)についに藤原彰子が加わる。つまり、藤原道長一門が一条天皇の外戚に加わったのである。しかし、当たり前と言えば当たり前なのだが、20歳の男性が12歳の女性に愛情を抱くのはかなり無理がある。『栄花物語』の描写では、一条天皇は同世代の藤原定子や藤原元子らと夜の生活を送ったとされており、正直両者の間に皇子が生まれる可能性はまだほぼなかったといっていい。
おまけに、一条天皇はついに、藤原定子との間に皇子を生んだ。というか、藤原彰子が後宮に入ったまさにその日に、後の敦康親王が誕生した。『権記』によるとやっとの皇子誕生もあって天皇は喜んでいたのだが、藤原道長の日記である『御堂関白記』ではその日に藤原彰子のもとをちゃんと訪れ、政治的に配慮している。というか、藤原定子の子供誕生に、わざわざ藤原彰子の後宮入りをぶつけてきた指摘もあり、この皇子誕生は、九条流藤原氏内の派閥抗争で一つのターニングポイントとなる予定だった。
しかし、ここで藤原道長が行ったテコ入れが、かの有名な「一帝二后」である。つまり、わざわざ役職の名前をこしらえて、藤原彰子を藤原定子と同格の后にするということである。『権記』によると、藤原道長派の世尊寺流の藤原行成が、藤原定子は出家してるんだから神事できないじゃん、というアシストパスすら行ったようだ。
とはいえ、一条天皇はついに藤原道長を自分の皇統の庇護者とする決心をし、この決定を飲んだ。この直後にたまたま母・藤原詮子が死に、ついに円融皇統である一条天皇一門を支える藤原道長という構図が、ここで誕生したのである。
ところが(本当にところが)、あっけなく藤原定子が死んだ。第三子である媄子内親王の出産時に胎盤が下りず、翌日に死んでしまったのである。一条天皇は藤原定子を忘れられなかったのか、敦康親王の御在所にいた藤原定子の妹・御匣殿をさらっと妊娠させているが、出産もしないうちに御匣殿は亡くなり、特に問題とならなかった。
かくして、寛弘3年(1006年)にようやく一条天皇と藤原彰子の間にそういうのが始まったようで、以後第二皇子・敦成(後一条天皇)、第三皇子・敦良(後朱雀天皇)が生まれる。一方で、何かあった時のスペアとして藤原彰子の下に残されていた、藤原定子との息子・敦康には、藤原彰子も肩入れしていたようなのだが、結局藤原道長の正室・源倫子などの主導もあり、ほぼ敦康の立太子は詰みかけていた。
そして、寛弘8年(1011年)に一条天皇は病に伏せるが、藤原道長は一条天皇に相談もなく勝手に譲位の話を進めた。『権記』によると、一条天皇は側近に対し敦康の即位の目がないか探るが、藤原行成は後見人もいないのでやめた方がいいと進言する。ということで、死まで1か月切った段階で、藤原彰子の実子・敦成の立太子が命じられた。
以後、一条天皇は出家の線も合わせて探っており、辞世の句とされる「露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき」は遁世用に用意していた歌とも言われている。
『権記』、『御堂関白記』のどちらも、この「君」は藤原定子だとしており、当時の人は藤原定子を愛していた歌と理解した。ただし、遁世用の歌とすると、この「君」は藤原彰子の方が蓋然性が高く、1000年以上決着のつかないままである。
とはいえ、この歌を詠んだ次の日、一条天皇は死んだ。
触れる機会がなかったのだが、一条天皇の時代と言えば、鎌倉時代に「四納言」と『十訓抄』などで称された、文人貴族の重用や文書主義の隆盛である。この四納言とは、源俊賢(醍醐源氏)・藤原公任(小野宮流)・藤原斉信(法性寺流)・藤原行成(世尊寺流)の、4人の貴族である。
のだが、実は源俊賢は、要するに藤原道長の側室の外戚である。それ以外の3人も、藤原兼家との派閥抗争で敗れた北家藤原氏の他の家(というか冷泉皇統派)の次世代であり、反主流派になりかけたのを藤原道長との連携で権勢を保った存在と言ってもよい。
つまり、この4人とはほぼ藤原道長派といってもよく、実際上述の通り藤原道長の手足となって一条天皇に進言したりもしている。
ちなみに、もっと上のポストは、トップを藤原道長、ナンバーツーに、藤原兼家に敗れた藤原兼通の息子であり、『小右記』では年配者なだけで無能扱いされている堀河流の藤原顕光、ナンバースリーに、完全に藤原道長シンパの閑院流の藤原公季と、藤原道長派にお飾りが挟まれている。
また、両者の間の大納言クラスには、公卿の中では長老格だが南家藤原氏という姻族としては全く成立しない藤原懐忠や、藤原道長の兄とは言えこれまた『小右記』で馬鹿扱いされている藤原道綱、実務能力は高く、ほどほどに藤原道長から距離は置いていたものの、別に表立って何かするほど愚かでもない小野宮流の藤原実資といったメンバーである。
つまり、最上位層と実際に仕事する3番目くらいの層を藤原道長派が掌握し、後は名誉職という構成になっており、人事権を握るとどうなるかが見て取れなくもなかったりする。
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