後白河天皇 単語

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ゴシラカワテンノウ

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白河ごしらかわ天皇1127〜1192)とは、日本の第77代天皇である。諱は仁。

平安時代末期天皇で、の争いの中で平清盛源頼朝などと対等以上に渡り合い、院政を行った天皇の中では特にその名が知られている。歴史教科書では、後白河法皇の名で記されることが多い。

概要

鳥羽天皇の第四皇子で、藤原子(待賢門院)。崇徳天皇の同かもしれないが…で、近衛天皇の異。子は二条天皇式子内親王、以仁王高倉天皇など。

子が晩年に鳥羽院から疎まれ、崇徳天皇が譲位されると藤原得子(美福門院)が生んだ近衛天皇が即位するなど、仁と称された若い頃の彼は不遇を託っていた。もっとも彼自身、皇位継承権をめぐる争いに加わる気はなかったらしく、当時流行していた今様七五調で歌われる、平安時代当時の歌謡曲)に中になってばかりであった。今様いとまで呼ばれていた変わり者の仁に対して、鳥羽院崇徳院は「天皇の器量にあらず」「文にも武にもあらず、もなく芸もなし」と彼をさんざんにこき下ろし、仁のの夫であり彼の第一の側近である信西すらも「和の間、類少きの暗」と評している。

ところが、近衛天皇が眼病のために若くして病すると状況は一変、院政によって復権を願う崇徳院が子の重仁王を次の天皇に推したが、鳥羽院や美福門院はこれを警し、新たな補を考えていた。美福門院は、彼の子であると同時に自分の養子にした守仁王(二条天皇)を即位させようとしたが、まだ幼少であった。仁のの夫である信西は、守仁が成長するまでの間仁を中継ぎとして即位させることを進言、こうして1155年に当時29歳の仁が即位、後白河帝誕生の間である。しかし、この時もあくまで彼は中継ぎに過ぎず、まだもが彼に期待していなかったことが分かる。恐らく後白河帝自身も自分が長年にわたり治の君として君臨するとは思ってもみなかったであろう。

翌年、鳥羽法皇が崩御するとすぐに権力奪還を狙う崇徳上皇藤原頼長保元の乱を起こす。摂関武士団を二分したこの戦いは後白河天皇方の勝利に終わり、その2年後には約束通り、子の守仁王に譲位。わずか3年の在位だった。だが、後白河上皇と二条天皇子の対立が発生し、その余波は天皇院政に及んだ。そんな中で、後白河院の元で辣腕を振るう信西に反発する後白河上皇の寵臣・藤原信頼は、二条天皇藤原経宗・藤原惟方と手を組み、信西を急襲して自害に追い込む。平治の乱の勃発である。後白河上皇はこのクーデター閉されるが、信頼と仲違いして帰順した経宗らによって脱出し、平清盛の六波羅に避難した。清盛は信頼や源義朝を滅ぼし、ここに平家繁栄の足かがりを築いた。

平治の乱と同年には美福門院が、その5年後には二条天皇が亡くなり、朝廷内の敵がいなくなった後白河上皇は院政を本格的に始め、平清盛とはお互いに利用しながら藤原摂関や寺社勢力を牽制しつつ、政権をじわじわと握していった。1169年には、前年に重病から回復して出した清盛に続き、院自身も出法皇となった。

だが、平清盛との二人体制も、法皇が寵する女院・建門院滋子(平清盛の妻・時子高倉天皇の生)の病により行きが怪しくなる。平家の勢力拡大を懸念した法皇は、院近臣である西藤原・俊寛らと共に密かに平家討伐の密談を行うが、多田行綱の裏切りにより露見(鹿ヶ谷の陰謀)。法皇自身は罰せられずに済んだものの、西など多くの側近を失い、手足や両をもがれる形となった。法皇清盛の間で仲介役を果たしてきた清盛の嫡男・平重盛が亡くなると、鹿復讐とばかりに重盛や清盛の亡き・盛子の知行地を収、盛子が後見人となっていた近衛基通をさしおいて、殿下乗合事件で平家と因縁のある殿基房とその子でわずか8歳の師を引き立てた。この法皇のあからさまな挑発に清盛激怒。重盛亡き今、彼を止める者もなく、清盛クーデターによって法皇鳥羽殿閉され、院政も止められてしまった。世に言う治承三年の政変である。

だが後白河法皇は決して諦めていなかった。閉中に子の以仁王平家打倒の旨を掲げ、反平家の気運が高まる中、清盛導による福原への遷都とその反発による平安京への還都、そして高倉上皇の急逝によって法皇閉を解かれ、再び政治の表舞台に返り咲く。翌年に清盛が熱病に倒れて亡くなると、大柱を失って地位が揺らいできた平家討伐を法皇から操るようになる。木曾義仲の入によって平家一門は安徳天皇を連れて都落ちするが、法皇は密かに比叡延暦寺に脱出。法皇逃げられたことが結果的には平家の立場を急に悪化させることとなり、わずか2年後の平家滅亡へとつながっていく。

安徳天皇平家に連れ去られたことによって三種の神器がないまま新たなの擁立が急務となると、安徳天皇の異・尊成王(後鳥羽天皇)を推す法皇と、以仁王の子・北陸宮を推す義仲は対立、義仲によって法皇はまたも閉されるが、宇治の戦いで義仲を破った源義経源範頼が入すると、法皇後鳥羽天皇の即位を断行した。そして、軍事力に優れているが政治には疎い義経源頼朝許可検非違使に任命し、頼朝義経兄弟の対立を論む。このに引っかかった義経を利用し、法皇頼朝討伐の院宣を出した。

だが、頼朝清盛に劣らぬ老練な政治家であり、平氏が壇ノに滅亡した1185年、北条時政を上させ、義経逮捕を名に守護・地頭の設置を強行させた。法皇はすぐさま討伐院宣の対頼朝から義経に切り替えて身の保全を図ったが、これにより源頼朝鎌倉幕府が事実完成する。法皇の力をもってしても、武朝廷からの独立を止めることはできなかった。

頼朝義経奥州藤原氏を滅ぼした翌年の1190年、後白河法皇は鎌倉から上してきた源頼朝とついに対面した。その2年後、法皇糖尿病が原因で66歳の波乱の生涯を閉じた。法皇頼朝征夷大将軍任命を頑なに拒み続け、法皇が亡くなったわずか4ヶ後に頼朝は念願の征夷大将軍に就任する。これらの一連の流れは、朝廷貴族による政治から、武による政権への移行を示す徴的な出来事と言えるだろう。

若い頃は無能の烙印を押されていた後白河天皇は、結果的に見れば武の台頭を止めることこそできなかったものの、長い戦乱の中で朝廷を長きにわたって支配し、清盛頼朝と並ぶ強大な権力者となった。何度も失脚の憂きに遭いながらもそのたびに不死鳥の如くったその姿からも、法皇大器晩成の人物だったことがえる。頼朝法皇を「日本国第一の大天狗」と言ったことは有名だが、この頼朝の人物評は単なる悪罵ではなく、権謀術数に長けて平清盛ら時の権力者を幾たびも苦しめた法皇への畏怖も込められているのかもしれない。近年の研究では、やっぱり行き当たりばったりの暗君説も再び有力視されているが・・・いずれにせよ確かなのは、法皇に振り回された武貴族にとっては大迷惑な存在だったことだけは間違いない。

今様と梁塵秘抄

後白河院を語る上で欠かせないのが彼が好んだ今様と、好きが高じて自ら編纂した歌謡集「梁秘抄」である。大河ドラマ平清盛」ですっかりメジャーになった「♪遊びをせんとや生まれけむ〜」など、後白河院は庶民が歌う七五調歌謡曲である今様を好んだ。政治とはまだ縁だった若い頃から今様愛した後白河院は、歌いすぎでたびたび喉を痛めてしまうほどのめり込んでいたという。

その反面、和歌はあまり好きではなかったようで、後白河院の治世時の歌壇界は若干停滞気味であった。和歌が再び盛を誇るのは、新古今和歌集の編纂を命じた後鳥羽院の時代になってからである。

禁断の男色関係

平安時代の男色と言えば「台記」を記した藤原頼長が有名だが、多くの寵らせた後白河院もまたなかなかの両使いだったらしい。彼の近臣の中でも藤原信頼と藤原は男色の仲だったという説もある。信西は後白河院の信頼への尋常ではない寵ぶりを長恨歌で妃に溺れてを傾けた玄宗に例えて諫めたが、後白河院はその謎かけに気づかなかったのか効果はかった(なお、成は例の頼長とも男色関係だったと言われる)。後述の大河ドラマ平清盛」では信頼との男色をめかすシーンもあったが、信頼役がドランクドラゴン塚地なので正直想像したくない。

また、先述の近衛基通も法皇となった晩年の後白河院から密かに寵を受けていたようで、九条兼実日記「玉葉」の中で「君臣合体の議、これを以て至極となすべきか」と記している。もっとも、兼実は基通と対立していたため、皮を込めてこう書き記したという説もあるが・・・

大河ドラマにおける後白河院

皇族というデリケートな地位のためか、後白河院がモノのドラマ映画に登場する回数は意外に多くない。大河ドラマで初めて源平合戦を扱った1966年の「源義経」では、原作小説では重要人物として何度も登場しているにもかかわらず、ドラマでは全く姿を見せていない。当時の時勢を表しているといえるだろう。1972年の「新・平家物語」では大河の創生期を支えた大御所滝沢修が重厚な演技を見せ、初めて大河ドラマに後白河院が登場する。1981年の「草燃える」では二代尾上1993年の「炎立つ」では中尾彬2005年の「義経」では幹二朗が演じており、いずれも最高権力者に相応しい重厚なキャラクターとなっている(幹二朗は、かつて民放ドラマでも演じた経験有り)。特に幹二朗の怪演は、院の寵丹後局を演じたマリと共にネットでも話題となった。いずれも、清盛役の俳優より年上の俳優が演じているのが特徴である(実際は清盛の方が9歳年上である)。

そんな中、2012年の「平清盛」では当時26歳の松田翔太が演じることとなり話題になった。若すぎる配役に不安のもあったが、蓋を開けてみるとそのあまりにも濃すぎるキャラクターも相まってはまり役となった。清盛とは対照的に若い頃から容姿が変わらず全く老けない。エキセントリックな性格であり、ことあるごとに特徴的な高笑いをあげる。ドSでありながらドM、あまのじゃくで厨二病かまってちゃん清盛に対して時々ツンデレになるなど、一も二もある人物に仕上がった。松田翔太は4年前の「篤姫」の徳川家茂役で実直な好青年を演じているが、全く正反対の役柄に衝撃を受けた人も多いのではないだろうか。

また、2022年の「鎌倉殿の13人」では西田敏行が満を持しての配役で登場。頼朝夢枕崇徳院直伝?の生霊となって現れたり、義経を取り込むためにまねをしてはいけない命がけの演技で大芝居を打ったり、死ぬまでやりたい放題だった。ちなみに、口を生やした後白河法皇はドラマ漫画でも滅多に見られないレアビジュアルだったりする。

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  • 80 ななしのよっしん

    2024/04/08(月) 01:48:53 ID: bJr3VJvHMw

    自身が治の君っていう権威を保持しつつ乱世を乗り切るっていう意味では無双なんだが
    自身の政治権力を取り戻すっていう意味ではガチ敗北者っていう後世の評価が割れるお方よね

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  • 81   

    2024/05/19(日) 18:00:51 ID: fpCyDWPKtq

    乱世生んだのがそもそも後白河平家討伐考えたせいだししかも清盛生存中はまるでダメ
    その後清盛死後に平家討伐したけど、当然関係性深かった平家と違って関り薄い頼朝相手だと上手く上に立てず関東ひいては武士の台頭許して守護地頭の設置まで許す
    義仲やら義経の使い方も誤って朝廷の味方減らしている
    清盛頼朝と互以上なんてとんでもないし短絡的な行動して不利益をぎりぎり他のに負わせて回避しただけで政治的な有能さが何も見えない

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  • 82 ななしのよっしん

    2024/08/18(日) 21:12:01 ID: ih+PEHUaPu

    勝利らしい勝利はしてないからな。
    ただ、とにかく後白河との戦いで勝つと破滅する。
    何をやらかそうが、どれだけ酷い負け方をしようが、何かの加護が発動して全部なしになる。

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