平賀義信(?~?)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
佐竹氏、武田氏とは同祖である、義光流河内源氏の平賀盛義の息子。信濃を拠点にした信濃源氏の一流である。平治の乱では源義朝の軍に加わっており活躍し、義朝の死後には逃走に成功し、以後20年近く記録からは姿を消す。
源義仲の挙兵の際信濃源氏として彼に従った可能性もあるが、次に出てくるのは源頼朝の旗下としてである。1184年に頼朝の推挙で武蔵守に任官し、河内源氏の長老格として門葉の筆頭となったのである。1185年には息子の大内惟義も相模守となり、父子そろって頼朝軍の重要拠点を任されることになった。さらには、源義朝の埋葬の際には、彼ら父子と毛利頼隆の3人のみが特別に遺骨に近侍することができたのである。
平賀義信は源頼家の乳母である比企尼の三女を妻としており、その関係もあって以後も重用されたのだが、1203年の比企能員の乱以降、源実朝の加冠の役を務めているため、バランス感覚には優れていたようだ。以後記録からは消えるが1207年の記述では故人として扱われているため、その間に亡くなったとされる。
また彼の武蔵守の仕事ぶりは見事なものであり、以後の国司も彼の治世を模範とするように源頼朝が称賛した記録が残っている。
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最終更新:2025/01/01(水) 08:00
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