武田信義(?~?)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
源頼朝と東国の清和源氏の覇を競った存在。ただし、義光流源氏はそれぞれの独立性が強く、彼が甲斐源氏の惣領だったとするのはほぼ間違いである。
一般的には『吾妻鏡』の文治2年(1186年)3月9日の記事にある、この日59歳で亡くなったという記載をもとに、大治3年(1128年)に生まれているということになっていた。しかし、正直に言ってしまえば、その後も『吾妻鏡』に普通に出てきていることから、五味文彦によって、武田有義逐電時の正治2年(1200年)が没年(正が文と間違われた)であり、この年で死んでいるという推測がされた(あくまでも推測)。
一方、そのことに関しては、金澤正大によって、59歳でこの年に死んだのであれば、世代的におかしいという話がされ、やはり文治2年に死んだと反論されている。
この点は、後に西川広平に、文治2年が59歳なのであって、正治2年に73歳で死んだのでは、とも言われており、正直に言ってしまえば、彼が生まれた年、死んだ年については、全く定説になっておらず、ぶっちゃけ分からんとしか言いようがない。
清和源氏の内、源義家の弟・源義光の子孫である。この源義光は、源義国らと争いながら常陸国に土着していき、その息子・武田義清は、常陸平氏を姻族とした存在である。
ところが、大治5年(1130年)に、その息子・武田清光の乱行が朝廷に報告され、程無く武田義清・武田清光父子は、甲斐に移された。これが甲斐源氏の成立である。なお、武田義清は、甲斐国衙の厩別当であった市川氏(市河氏)の娘婿となったなど、在地の武士と縁戚を結んでいった模様である。
かくして、武田義清の子孫は、在庁官人の三枝氏が拠点としていた甲府盆地の中央部を避け、盆地の周辺部を当初の基盤とし、それから国衙周辺に進出した。これが、信濃国諏訪郡・佐久郡と甲斐国を結ぶ街道沿いを拠点とした武田信義、甲斐国と駿河国安倍郡を結ぶ街道沿いを拠点とした加賀美遠光、甲斐国と武蔵国秩父郡を結ぶ街道沿いを拠点とした安田義定の3流に分かれたということである。なお、安田義定は『尊卑分脈』では武田清光の子、『吾妻鏡』では武田義清の子とされており、世代は若干不明。
この武田信義は、『尊卑分脈』によれば、長子・逸見光長の双子の弟とされるが、史実かは不明であり、実際に以後逸見氏の影は全くといっていいほど薄い。
やがて、保元の乱・平治の乱で源為義・源義朝と義家直系の一族が没落していく一方で、東国では義国流、義光流の源氏が引き続き勢力を伸ばしていった。この点は、武田信義の息子・武田有義が平徳子や平重盛に、加賀美遠光の息子・秋山光朝・小笠原長清兄弟が平知盛にそれぞれ出仕し、在京活動を担うなど、おおよそこの時代の武士団の典型的な存在ではあったようである。
ところが、以仁王が平氏追討を呼びかけ、対抗して平氏が東国に兵を送る。この際、源頼朝と時を同じくして、安田義定は工藤景光・工藤行光父子や、市川行房らとともに挙兵し、俣野景久・橘遠茂らと交戦していく。一方武田信義・一条忠頼父子は、菅冠者を滅ぼし、諏訪大社に所領を寄進している。
この辺の経緯はよくわからないが、甲斐国は一貫して院近臣の知行国だったため、後白河院の意向だったかもしれない。
やがて、武田信義・一条忠頼は、『吾妻鏡』によると北条時政、ついで土屋宗遠を迎え、駿河国への侵攻を開始した。そして、安田義定とともに源頼朝と合流し、富士川で平維盛・平忠度・平知度・伊東忠清らの軍勢に奇襲を試み、水鳥の羽音で平氏の軍勢が撤退した、というのが『吾妻鏡』の筋書きである。
一方、同時代史料の中山忠親の『山塊記』によると、源頼朝が伊豆、武田信義が甲斐を占拠したこと、武田信義の弟・平井清隆らが平氏方となり討ち死にしたことなどがわかり、武田信義もまた一族内の紛争を征してこれにあたったようである。また、九条兼実の『玉葉』には、武田方を主体とした軍勢と平維盛があたることとなり、結局戦う前に混乱状態のまま退いたこと、その後源頼朝・武田信義を追討する宣旨が発せられたこと、がわかる。
つまり、富士川の戦いは、『吾妻鏡』と異なり、甲斐源氏が主体的にあたった、のが実情に近いようだ。
その後、甲斐源氏は、近江の柏木義兼と連携したり、三河・尾張・美濃へ勢力拡大するなど、東海道に沿って西方に進出した。この結果、武田有義の妻子は殺され、平氏政権は、藤原秀衡・城助永らと連携して封じ込めを計った結果、源義仲に反撃されたというのが源義仲勢力拡大のきっかけである。なお、この横田河原の戦いも、源義仲ら木曽党、平賀氏ら佐久党、そして諏訪大社も含めた甲斐源氏の連合軍であったようで、この結果源義仲政権に安田義定が参画している。
ところが、治承5年(1181年)3月、武田信義が源頼朝追討を命じられたとする院庁下文が発給された風聞が立ち、この釈明に武田信義が求められたあたりから、雲行きが怪しくなる。独自の政権を打ち立てた安田義定に比べると、武田信義の陰はだんだん薄くなり、いわゆる十月宣旨で東海道・東山道は源頼朝の版図に組み込まれる。
しかし、この頃もまだ、安田義定と武田信義の息子・一条忠頼は、源義仲滅亡や、一の谷の戦いで中心的な役割を担っていた。また、同じく武田信義の息子・板垣兼信が「御門葉」の地位を主張するなど、他の御家人と異なる立場に位置付けようとしていたのである。
ところが、元暦元年(1184年)6月に一条忠頼が謀殺され、建久元年(1190年)には板垣兼信が隠岐に配流、建久4年(1193年)の安田義定の息子・安田義資殺害、および建久5年(1194年)の安田義定殺害と順次甲斐源氏の勢力は解体され、最終的に正治2年(1200年)の弟・伊沢信光から梶原景時に与同したと訴えられた武田有義の逃亡をもって、甲斐源氏は武田信光・小笠原長清両名の子孫が、御家人として存続していった。
こういうわけで、五味文彦・西川広平の説に従えば、この段階で寂しく亡くなったということなのだが、そもそもここで死んだ証拠は全くないため、あくまでも、ここまでで死んだ、ということで筆を置きたい。
掲示板
1 ななしのよっしん
2022/02/22(火) 12:18:50 ID: FnqPaAalX0
源頼朝と源氏の棟梁を競った男
ぶっちゃけ従兄弟の木曽義仲より頼朝にとっては厄介な相手だったと思われる
2 ななしのよっしん
2022/08/18(木) 08:19:51 ID: T86JGuKeBx
本文の「源頼朝と東国の清和源氏の覇を競った」ならよいが、「源氏の棟梁を競った」と言っちゃうと間違い
「源氏の棟梁」なんていうイスは頼朝が作らなきゃ無いし、彼はあくまで甲斐源氏でしかないし甲斐源氏の躍進以上のことは起こせない
義仲にはなれても清盛や頼朝になるには足りない資質が多すぎる
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最終更新:2025/01/09(木) 07:00
最終更新:2025/01/09(木) 06:00
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