花山天皇 単語

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カザンテンノウ

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花山天皇(9681008)とは、第65代の天皇である。

概要

なんかよくわからんけど部下に騙されて天皇辞めた人、なんかよくわからんけど部下に矢射かけられた人、などの古文で習ったエピソードで、平安時代天皇の中ではかなりの知名度を誇る存在。

ただし、実際に調べると実話と言えないものも多い。ぶっちゃけ、花山天皇の属す冷泉皇統ではなく、円融皇統とそれを盛り立てた藤原道長一門、という「神話」を作るため、固有の「キャラクター」を与えられたとも言われている。

なお、そもそもソースかめもしない上に臨床心理学の知識もないくせに、なんちゃって精神分析でレッテル貼ってるだけだよね?みたいな議論もあるので、その辺は特に触れずにおいておく。

誕生から即位まで

冷泉天皇藤原伊尹藤原懐子の間の第一皇子として、安和元年(968年)に誕生した。本名は師貞。父親である冷泉天皇円融天皇に皇統を譲り、この師貞がその皇太子になったまではよかったのだが、以後彼の不幸が始まる。

まず、5歳の時に、外戚だった藤原伊尹があっけなく亡くなる。おまけ母親藤原懐子や、藤原伊尹息子のうち年長だった藤原挙賢、藤原義孝もこのあと数年のうちに一気に失った(藤原挙賢・藤原義孝に至っては忌日は同日)。

九条流となる藤原息子の中では長だった藤原伊尹は、当然嫡子である。つまり、生きていれば王の嫡男と藤原氏の嫡男の盤石な体制になったはずだった。しかし、これらの死により、一気にこの師貞は、九条藤原氏にとっては縁もゆかりもない人になってしまったのである。

しかし、後継者ではあったので、なんやかんやで即位した。なお、『小右記』としては即位式で玉冠が重すぎて脱ぎ掛けた話が事実としてあった。だが、12世紀に成立した『江談抄』や13世紀の『古事談』では、即位式の間に女を犯していたエピソードが生やされていたりする。ただし、これは既に一条天皇子孫の天皇藤原道長子孫の摂関覇権確立して100年以上経ったころのものであり、既にそういうことになっている時期に成立したお話であることに注意は必要である。

とはいえ、この花山天皇即位後は、既に後継者も円融天皇息子、つまりいとこの懐仁(一条天皇)となっており、既に自分から皇統がいったん離れるのは既定路線となっていた。

当然といえば当然なのだが、ぶっちゃけこの花山天皇には、藤原伊尹の四男で28歳の藤原義懐くらいしか支援者がいなかったのである。なお、やや遅れて成立した歴史物語の『栄花物語』や『大』では、この藤原義懐に加え、名流藤原氏という摂関にとってはかなり遠縁の藤原惟成の2名が、一の花山天皇だったとされる。

しかし、藤原義懐は、花山天皇の即位によってようやく卿の末席についたペーペーの若手であり、政を差配する「定」に加われたのも1年くらい経ってからである。藤原惟成に至っては、五位蔵人、つまり公家ではなく諸大夫層であり、彼らが政権を担えたとは思われない。

花山天皇の結婚関係

そので本当に公家トップにいたのは、ここまで出てきた九条流ではなく、小野宮流の藤原頼忠である。小野宮流とは、本来九条流より系だったのだが、外戚になるのに失敗し、権勢が衰えていたところ、九条流の後継者争いで摂関の座を急にぶん投げられたという、あの一門である。

当然、藤原頼忠は前代の円融天皇とも、今代の花山天皇とも縁もゆかりもなかった。ただし、円融天皇べると花山天皇とはしっくりいかなかったことが、『卿補任』からすら読み取れるレベルである。この2人がしっくりいかなかったのは、実際のところどちらに要因があるか議論はある。

とはいえ、少なくとも花山天皇が提携相手として選んだのは、この藤原頼忠ではなかった。それこそ、九条流の庶であった法性寺流の大納言・藤原であった。

この藤原藤原の九男であり、醍醐天皇子内王を母親とする、かなりの庶子である。また、この藤原の妻である、藤原伊尹ポイントとなる。彼女母親は、『尊卑分脈』に記載はないのだが、藤原伊尹からスムーズ一条第を継承していることから、藤原懐子・藤原義懐と同じ醍醐天皇孫の恵子女王と推定されている。

加えて、花山天皇を支える藤原義懐の正室は、この藤原となった。つまり、孤立気味の花山天皇・藤原義懐営と、たちのように摂関になれるわけでもないがチャンスさえあれば期待できそうな藤原営の、双方のメリットから姻族化して提携したと思われる。

かくして、花山天皇は、この藤原藤原子と結ばれた。この理由も『栄花物語』だと藤原子の顔だが、上記経緯からかなり政治的な判断だったとも想定できる。とはいえ、さらに相次いで河流の藤原藤原姚子、小野宮流の藤原頼忠の藤原諟子が入内した。

しかし、最初に入内したのは当然、関白藤原頼忠のではなく、藤原子であった。しかも、彼女を清殿に最も近い殿に入れた。おまけに花山天皇は藤原頼忠のに対しては、他よりもそこまで配慮を見せなかった。こうしたところからも、花山天皇に現職関白との関係をアピールする政治的なパフォーマンスをする意思がなかったとみなされ、両者の関係が疎遠になったと思われる。

ただ、この摂関の中ではを選ばなかったことが尾を引いた。確かに当時の代表的な史料である『小右記』は、関白藤原頼忠の甥・藤原実資日記のため身内びいきは差し引く必要はある。とはいえ、この『小右記』において、花山天皇との連携をアピールしようと藤原藤原必死だった様子が皮られている。

ところが、藤原子は身ごもったままあっけなく死ぬ。その1か前には藤原の妻も亡くなり、後々のことを考えると、このタイミング藤原で活躍をあきらめ、藤原兼家営についたと思われる。

寛和の変での退位

こうして、花山天皇には、支援者は再度藤原義懐くらいしかいなくなった。ただし、藤原子の死後村上源氏から婉子女王を新たに迎え、特に藤原子の死に落ち込むことはなく、1年近くが過ぎた。しかし、30にも満たない若造である藤原義懐には、他の卿に当然リーダーシップを発揮できるはずもなく、じりじりと回りする日々が続いた。

そこに持ち掛けられたのが、『大』や『栄花物語』で描かれる、寛和2年(986年)6月の、藤原兼家息子藤原道兼にだまし討ちに近い形で出させられた、「寛和の変」である。他に史料がないので引用するが、藤原子の悲しみから厭世観にさいなまれていた花山天皇に、藤原道兼が一緒に出しようと持ち掛ける。こうして花山天皇はこっそり宮中から誘い出されて出させられたのだが、誘った肝心の藤原道兼は特に何もしなかった。こうして花山天皇の位だけが決まり、仕方なく山一である藤原義懐、藤原惟成も出したという話である。

ここまでの物語事実かどうかは別として、事実として、花山天皇・藤原義懐・藤原惟成は出という形で政権から退場させられた。

これを転機として、確かに一条天皇藤原兼家一門の権勢という形でその後の歴史が進む。しかし、おそらく当時の藤原兼家の関心としてはむしろ、冷泉天皇と自分の藤原子の間に生まれた居貞王(三条天皇)の確保もあったと思われる。つまり、既に一の皇子が皇太子として天皇になることが決まっている円融皇統だけでなく、念のために冷泉皇統も自分の外孫が継承できるようにし、当時まだ息子もいなかった花山天皇は脱落という形で決着させたかった、と考えられる。

なお、じゃあ花山天皇は、何でこれに乗ったかは本当に不明。『日本紀略』や『百錬抄』に上記3人が延暦寺で受した話は残るので、『大』や『栄花物語』と違って、すぐにちゃんと出したのだろう。実際『大』や『栄花物語』で描かれたように、あまりに素藤原兼家営の謀略で出する気もなかったのにだまし討ちされた可性も十分想定できる。が、何もないのでここに関しては憶測でしかものが言えない。

退位後の花山天皇

退位後は一条天皇の政権に全く発言権はなく、全に暇を持て余して子作りや修行文化的な公家との交流くらいしかやっていない。なお、性像を描かせた話や、熊野詣をした話は、史実性はかなり怪しく、『小右記』に花山法皇が前々から熊野行きたかったから貸せと藤原実資に言い、すぐ一条天皇たちにばれてやめさせられた話くらいしかない。

その花山天皇が久々に大きな事件を呼んだのが、藤原道長系で本来嫡流とも言えた中関白落につながる、「長徳の変」である。

『小右記』の逸文である『野略抄』によると、既に亡くなった藤原で、花山法皇と藤原道長の甥である藤原周・藤原隆家兄弟乱闘になり、花山法皇の童子2人が殺された、までは確実な事実である。ただし、痴情のもつれというのは、『栄花物語』などに描かれる創作であり、これまたどこまで事実かはわからない。

ただし、この結果、一条天皇の政権で中関白全に閉塞し、藤原道長覇権確立する。とはいえ、実はこの件に正直花山天皇はほぼ関係なく、ぶっちゃけの巻き添えである。

また、長徳3年(997年)に、『小右記』によると、花山法皇の院が、一条天皇の政権の代表的な人物である藤原公任藤原斉信に乱暴する事件が、実際に起きた。この事件は、実際は翌日に藤原道長が追補を行い、翌々日には花山法皇も犯人を差し出して一件落着した。のだが、『大』ではかつての花山天皇の乱暴ぶりという、事実かどうか不明な事件に対する俊賢のコメント伏線として、やっぱり山はダメだなという作者感想が急に出てくる。

つまり、『栄花物語』や『大』は、例えば藤原兼家兄弟3人に肝試しをさせるといった創作エピソードと、実際にあった事件を織り交ぜて、物語に仕立て上げているので注意が必要というわけである。

というわけで、和歌を読んだり京都修行に励んだり、位前は一人もいなかった皇子を作ったりいろいろしていたのだが、寛5年(1008年)に亡くなった。花山天皇が亡くなった当時は、まだ一条天皇即位時で、冷泉院も後の三条天皇もいたのだが、冷泉皇統から在位経験のある男児が一人減った。

それもあってか、花山天皇の息子冷泉院の子ということにされ、昭登王と清仁王になった。なお、この皇子は『栄花物語』では之の・中務とそのまされてそれぞれ産んだことになっているが、史実かは不明。一次史料としては、藤原行成の『権記』の寛8年9月10条に出てくる、御匣殿の補足説明として後世書き加えられた箇所という、またややこしいものくらいしかなく、倉本も判断を保留している。ちなみに、清仁王の子孫は白川伯王になっている。

また、花山天皇のこそ、かの有名な盗賊に殺されて死体に食われた皇女である。『小右記』によると、藤原周の息子藤原道雅が裏で暗躍していたともされるが、事実かは不明。というか、同じく『小右記』によると、結局この件はうやむやになった模様。

なお、『栄花物語』では、4人の皇女がいて、花山天皇が死ぬ時に他の3人は花山天皇に呪い殺されたと書かれているが、他のは確認されておらず、史実かは不明。

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