源頼政 単語

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源頼政11041180)とは、平安時代末期に活躍した武将である。

源頼政の生涯

摂津源氏の傍流である仲政と藤原友実のとの間に誕生した。・仲政は摂津源氏嫡流の多田源氏が摂関に仕えていたのに対し、白河院に接近し、下総守、下野守と二カの受領に就任した。しかし官位は従五位上で止まり、院近臣化することなく終わったのである。

こうして源頼政は、将来を約束された存在ではない状態から官歴をスタートさせた。まず白河院判官代から始まり1136年には崇徳天皇の蔵人に任官し、同年には従五位下に叙された。1143年には美福門院の昇殿を許され、1155年には兵庫頭に補任された。

そしてこの翌年、1156年に起こったのが保元の乱である。源頼政は美福門院の招集で後白河天皇方に加わる。平清盛源義朝義康らとべれば、渡辺党傍流を中心とした小規模な軍勢であり、崇徳院方だった同族の多田らを打ち破ることもできず、乱後特に恩賞にあずかることはなかった。

しかし1158年には院昇殿を許され、1159年には従五位上に昇っている。またこのころには内裏を警護する大内守護に任じられていたようだ。同年の平治の乱でも活躍したものの、こちらでも特に恩賞はなかった。

だが、1166年に正五位下になった上、ついに内昇殿を許され、1167年には従四位下に叙される。この時期には息子仲綱が伊豆守であったことから、伊豆知行国にもなっていたようだ。そして1170年に右京権大夫に任官し、1171年には内裏の失火を渡辺与と防いだ賞によって正四位下になった。

1178年に源頼政は従三位に叙され、武源氏としては初めての卿になったのである。このことは平清盛の奏請によるもので周囲の驚きを招き、藤原兼実九条兼実)などは「第一の事」と評しているものの、からも非難されることなく好意を持って迎えられたようだ。

しかしそこから一年にも満たない1179年に病がちで、平清盛による治承三年の政変などの混乱もあり、出に踏み切った。

ところが彼の70年以上にわたる生涯はそれで終わらなかった。美福門院のである八条院護されていた以仁王が挙兵を企てたのである。源頼政は美福門院・八条院の二代にわたって仕えた武者であり、王が園寺に逃亡するとこの追討軍に加えられるも、その翌日に自宅を焼き園寺の以仁王と合流したのである。

そして南都に向かう途中の平等院平家闘の末、頼政、子息・仲綱、養子・兼綱、義賢の子息で源義仲)、郎党の唱、副、加、勧、安房太郎らは討ち取られた。他にも下河辺らも参戦していたようだが、この戦いを脱出し、源頼朝軍に加わった。

源頼政は平家との関係は悪くなく、息子仲綱への平宗盛の侮辱も『平家物語』の創作である。しかし八条院に仕えた彼は、その関係から以仁王を支え、最期の時を迎えたのであった。

源頼政流のその後

源頼政の子である仲綱の子・有綱は伊豆平家方の追及にあい、州に逃亡した。その後彼は源義経婿として行動を共にし、討ち取られている。

源頼政の庶子で仲綱の養子になっていた広綱と仲綱の頼兼は、鎌倉幕府で重んじられ、広綱は駿河守に、頼兼は大内守護に任じられている。しかし源実朝後の混乱期に頼兼の子・頼茂は後鳥羽院に追討され、広綱の系統も次第に落していった。広綱の子孫が太田道灌らを輩出する太田氏らしい。

頼政と鵺退治

源頼政といえば祖先の源頼光同様に化物退治の逸話でも有名である。それこそがなのだ。

平家物語』によると仁平年間(11511154)と応保年間(11611163)に源頼政は近衛天皇二条天皇を悩ませたを二度にわたって退治している。これは内裏を警護する大内守護としての役が寓話化されたものとして、彼の実際の仕事と関わっていると研究では言われている。

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