安倍氏とは、日本の東北地方(陸奥国)に勢力をおいた豪族のひとつ、およびその子孫と言われる一族である。
安倍氏のルーツは定かではないが、蝦夷の制圧後の平安時代中期において、東北地方の豪族として大きな勢力を持っていた。
安倍頼良の頃に朝廷への朝貢を怠ったことで、陸奥国の国司による討伐が行われたが、安倍氏の勝利に終わった。
その後に国司として源頼義が就いて討伐を計画するが、朝廷による大赦によって討伐は中止された。このときに頼良は頼時に改名した。
しかし1056年に阿久利川事件が起き、安倍氏と朝廷側との関係が険悪になった。国司であった頼義の召喚に頼時が応じなかったことで、再び朝廷は安倍氏の討伐を始める。
まず、1057年に安倍氏の配下にあった津軽の俘囚を調略し、味方に引き入れた。これに慌てた頼時が説得をしようと津軽に向かうも、逆に暗殺されてしまう。後を嫡男の貞任が就いた。
さらに頼義は追撃を試みるのに対し、貞任は黄海(現在の一関市藤沢町黄海)で迎え撃つ。冬場になって大きく疲弊した頼義軍は猛攻を行えず、逆に7騎を残してほぼ全滅してしまった。
1062年に頼義は再び国司に任命されると、関東の軍勢に加え、出羽国の豪族であった清原氏を迎え入れ、息子の源義家ととに1万人の軍勢を率いて再び攻めに入る。
形勢の逆転した状況で、安倍氏はなすすべもなく大敗、貞任は戦死し、弟の宗任は伊予国、その後筑前国に配流された。
宗任の一族は九州で勢力を持つようになる。三男の季任は松浦氏の娘婿となり、松浦党という水軍を率いるようになる。
しかし松浦高俊の代になって治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦) で、現在の山口県長門市油谷に流罪となった。その中で高俊の娘が平氏に嫁いだことによる源氏からの迫害を逃れるため、かつての姓である安倍に戻した。
この一族の末裔が、内閣総理大臣となった安倍晋三といわれている。
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最終更新:2024/12/23(月) 09:00
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