志田義広 単語

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シダヨシヒロ

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志田義広1144?1184)とは、平安時代末期に活躍した武将である。

概要

源為義の三男。は六条大夫重俊の。通称志田三郎先生。本名は義範だが後に義広を称す。

『保元物語』の一部の本によれば保元の乱源為義方として参戦したと書かれているが、他の諸本や貴族日記には見いだせない。『尊卑分脈』によれば土佐に配流され、『平家物語』によれば源義朝の養子になったと書かれているので、為義方とされながらも参戦自体はしていないのではないかといわれている。

その後義賢も就任した、東宮の護衛官、帯先生を名乗っているが、在時代のことは不明で、1158年に河内長野荘で藤原藤原兄弟兵士を献上しているのが見て取れるのみである。

その後八条院常陸志田の預かりどころとなり、志田三郎先生と名乗るようになる。

11804月源行家から以仁王旨が届けられ、11月源頼朝による佐竹秀義攻めの直後、行とともに頼朝のもとに参上している。しかし次第に独自に勢力を形成し、頼朝と対立。1183年に常陸平氏足利忠綱の支援で反頼朝の兵を挙げる。ところが野木宮の戦いで小山朝政源範頼に敗れ、逃走する。

その彼が頼ったのが源義仲であり、源頼朝と義仲の関係を悪化させる原因となった。彼は北陸道から上する義仲軍に従い、西平家と戦っていった。その後も安田義定源行家らが離反していく中、法住寺の戦いでも義仲に協力。美濃守に任じられる。

しかし1184年に源義経の軍勢に突破され、敗走。最後は波多野盛通、大井山内首藤経俊大内惟義らの人に討ち取られたとも、自害したとも伝わる。近江源氏山本義広も同時期に亡くなっているため、余計混乱に拍をかけている。

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最終更新:2024/12/23(月) 09:00

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