回答(3件)

これは結構むずかしい話なんではないかな、とか思います。 単純に考えれば、ご質問にもある、AI回答にもある「地形が険しく困難さがある」という言い方は確かに出来ます。 ただ、「歴史」で考えるなら「本当にそうかな?」という疑問はかなりあります。 ご存じかと思いますが、日本史で古代から最も継続的に整備されている街道は「中山道」です。 後に整備が進み、現代では大動脈になっている「東海道」は、江戸時代になっても「船を使う部分」があったりしてかなり不便な道でした。 だから、有名な話ですが、幕末の「和宮降嫁」は中山道が選ばれた、これは政治的、保安上の問題があったとも言われていますが、例え口実だったとはいえ、「東海道は荒れた道だから」みたいに明言しています、こういう言い方が出来る要素はあったってことです。 それと、戦国時代の記録とか読んだことがあるなら、「え、そんなとこ通るの?!」とビックリするようなコースを通っています。 例えば「武田信玄の小田原攻め」とか見ると、今日の常識では考えられないコース、特に、当時は今日大都市が発達する海沿いは多くが低湿地で通過困難なんで、わざわざ山側、極端山の中を通路に選んでいます。 実は、信長から家康は、そういう時代に海沿いの領国を治めることで、徹底的に「渡河地点」などを調べ上げて、その有効利用で勝利している、みたいな話が多い、信長がうつけ扱いされたのは、そういうのを徹底的に調べていたからで、単純なレベルでは無く、どのくらいまで増水しても渡れる、みたいなものだったとされています。 つまりは、海沿い、平野部はそれだけ「通行が難しかった」と言うことです。 実際、1582年に始まる、織田家による「甲州征伐」では、「先鋒」「本隊」は、中山道の木曽谷と並行した伊那谷を進んでいますね。 確かに、「険しい地形に囲まれた地域」でもあり、防衛の第一線だったことは確かで、この地域を抜かれた武田家の戦意は一気に落ちた、とも言われています。 そういう意味では、信濃~甲斐が比較的高原地形なのに対して「険しい」とも言えなくはない訳ですが、ただ、実は日本の古来の街道の仕組みから言うと、このエリアは江戸時代に「甲州街道」が整備されるまでは「間道」レベルしか存在しない、だから「甲斐国」ってのは「東海道」に属していた訳です。 逆に海沿いの「武蔵国」は、古代には「東山道」に分類されていた、中山道を通って行く国だったからです。 これらの史実から考えるなら、この設問は結構難しい、素人っぽく言えば「確かに険しい」訳ですが、それを「難しい」と言えるのかは少し違う気がします。

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1570年代に美濃から信濃への進軍は、地理的に困難な要素が多く含まれています。信濃は広大で、複数の谷筋に分かれ、険しい山々が多いため、移動が難しい地域です。さらに、信濃は歴史的に多くの勢力が入り乱れる地域であり、統一が難しい状況でした。これにより、進軍は戦力の分散を招き、地理的にも不利な状況を生む可能性があります。

AIアイコンClaude(Anthropic)

1570年代の美濃から信濃への侵攻は、地理的に確かに難しい面がありました。主な理由は以下の通りです。 ・美濃と信濃の間には木曽山脈が横たわり、険しい山岳地帯が天然の障壁となっていました ・主要な峠道(中山道など)は狭く、大軍の移動には不向きでした ・木曽川沿いのルートも急峻な地形で、軍勢の通行が制限されました ・山間部では補給線の維持が困難で、長期戦になると不利でした ・信濃側の武将たちは地の利を活かした防衛戦を展開できました このような地理的障壁があったため、織田信長も武田信玄も、美濃-信濃間の直接侵攻よりも、しばしば迂回路を選んだり、同盟関係を利用したりする戦略をとりました。

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