2024-12

2022・1・22(土)広上淳一指揮群馬交響楽団

       高崎芸術劇場大劇場  4時

 このホールの2階席正面に初めて座る。この位置からは、1階席で聴いた時のような各パートの明晰な分離はあまり聴かれず、オーケストラ全体がひとつのマッスのような形になって聞こえる。
 しかし、そのマッスの強大さは物凄く、群響がこんなに猛烈な重量感を出すのかと、改めて驚いたり、感心したり。それには、広上淳一がオーケストラから引き出す音楽自体の力と、空間性豊かなこの新ホールの音響も作用しているだろう。もちろん、席の位置も関係しているかもしれない。

 広上のブルックナーはこれまで「6番」を聴いたのみ(2021年6月12日)だが、今後は次第に重要なレパートリーとして行くようである。
 今日の「8番」を聴く限りでは、基本的にはストレートなアプローチで、音楽自体のエネルギー性を重視した重厚壮大指向のブルックナーという印象だ。

 だが、例えば第3楽章の、ふつうの演奏なら平静を取り戻して沈潜に向かう過程を示すような個所を、異常なほどの強いアクセントを伴っての、怒りにも似た激しさで演奏するという瞬間もあって、これには少々驚かされた。
 終演後に楽屋でマエストロにそのわけを尋ねたが、「あれは実は個人的なもろもろの感情をこめたわけで」という返事が戻って来た。

 そういうことを含めて今日の演奏をもう一度振り返ってみると、広上のブルックナーは、重厚壮大とはいえ、音の高貴さや神聖さや威容といったものを追求する姿勢とは違い、演奏全体が何か強烈な激情のようなものでつらぬかれているようにも思われる。
 ただし、それに伴い、指揮中の彼の癖である吐息だか溜息だかもいよいよ激しくなるという具合で、━━広上淳一のファンを以って自認する私でさえも、正直言ってこの音にはひどく辟易させられるのだ。今日はそれが一段と騒々しかった。

 群響(コンサートマスターは伊藤文乃)の演奏は、掛け値なしに充実そのものといえよう。音楽の情感、量感、技術、集中性、すべてに満足が行く出来であった。
 ひとつだけ注文をつければだが、トランペットがもう少し強力に吹いてくれないかな、と。━━というのは、例えば第4楽章の大詰め、主題群が同時に鳴り響いて大団円を告げるべき個所で、トランペットが明確に浮き出ないと、主題の一つが欠けてしまうことになるからである(残念なことに、日本のオーケストラはここでよくそういう状態に陥ってしまう)。故・朝比奈隆氏が口惜しがっておられた例の一つである。

 5時30分過ぎ終演。それほど遅いテンポでもなかったのに、意外に演奏時間が延びていた。高崎駅6時39分発の「とき」と、東京駅7時51分発の「のぞみ」とを乗り継いで京都へ向かう。揺れない上越・北陸・東北新幹線から東海道新幹線に乗り換えると、途端に細かいガタガタという細かい振動が激しく感じられて来る。大津駅前の「ホテルテトラ大津・京都」に投宿。雪はないが、おそろしく冷える。

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例の問題

あの例の音は癖と言えば癖だとしても、ほとんど指揮行為の一部になってしまっている感があり。あの音も含めた指示によって、あの独特の流麗な演奏が成り立っていることも確か。但し、練習では奏者向けのガイダンスとしてあってよいにしても、本番では止めるか必要最小限にするべきでは。練習と本番の区別がどこか曖昧になっているのか知らぬ。舞台近くの席では特に邪魔。楽曲演奏鑑賞と口三味線(喉三味線)鑑賞が並行し閉口する。奏者やスタッフの誰も本番では止めてくれと進言しないのが又不可解。あれではどんな名演でもCD制作も不可能。コバ〇ンの唸り事故CDより酷いものになろう。理想の楽音をつくるために楽音汚染の騒音を出してしまっているという倒錯。これは指揮者というもののお山の大将問題の一つでもありや。そのうち棒で床を叩いて指揮する時代に戻るのかも知れぬ。

私は寧ろ本番で音を出すタイプの指揮者の演奏の方が好きです。これは再現芸術の根幹に関わる問題なので本格的な研究が必要でしょうが、広上さんの実演も小林研一郎さんのCDも、ベンヤミンやジョン・ケージ、黛敏郎などが存命なら絶賛するのではないでしょうか。

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