2022・1・21(金)小菅優ピアノ・リサイタル
東京オペラシティ コンサートホール 7時
前半にフランクの「プレリュード、コラールとフーガ」、武満徹の「雨の樹 素描」、ドビュッシーの「野を渡る風」「西風の見たもの」「沈める寺」「霧」「花火」。後半にベートーヴェンの「悲愴ソナタ」と、シューベルトの「さすらい人幻想曲」。
今日は何故か客を1階席のみに集めて、上階席はすべてクローズしての公演。小菅優の演奏会なら、もっと大勢聴きに来るかと思っていたのだが━━。今日は、ネットでの同時ライン配信も行なわれていたはずである。
一昨日のそれと違って、今日はピアノも朗々と鳴って、演奏も伸びやかで、快い。作品ごとにアプローチはさまざまに変えられてはいるものの、演奏にはやはりある種の詩情といったものが一貫して流れているだろう。
「悲愴ソナタ」では、彼女自身が配布プログラムの解説に、第1楽章の個所で「激しい感情の嵐を想像させるアレグロの主部・・・・グラーヴェのテーマが最後に繰り返されると、その嘆きは耐え切れない痛みのように・・・・」と書いているのが興味深い。
とはいえ実際の演奏では、序奏を含め、グラーヴェのテンポが極度に遅く採られていて、その中の長い休止符の個所での緊迫度が少々希薄に感じられた点が気になった。つまり、楽曲構築上の━━アレグロとグラーヴェとのバランス感にも些か疑問を残したわけで、言い換えればそのグラーヴェのテンポが誇張されていたのではないか、という印象を与えたのも事実なのである。
素晴らしかったのは武満とドビュッシー。この両者を並べたというプログラム構成からして見事だったし、すべてがまさに玲瓏たる響きで、詩的な雰囲気を溢れさせていたのだった。
そして更に見事だったのは「さすらい人幻想曲」での演奏である。情感の昂揚と楽曲の構成がぴたりと合って、この曲の良さを余すところなく再現してくれていただろう。曲の終結について彼女自身が解説の中で「これは虚偽の明るさでしょうか?・・・・苦境の山を全力で乗り越えようとするかのような葛藤が最後まで続きます」と記しているのが興味深く、昂揚が野放図のものにならずに適正な均整を保っていたのは、彼女のそうした解釈が演奏に反映していたからかもしれない。
前半にフランクの「プレリュード、コラールとフーガ」、武満徹の「雨の樹 素描」、ドビュッシーの「野を渡る風」「西風の見たもの」「沈める寺」「霧」「花火」。後半にベートーヴェンの「悲愴ソナタ」と、シューベルトの「さすらい人幻想曲」。
今日は何故か客を1階席のみに集めて、上階席はすべてクローズしての公演。小菅優の演奏会なら、もっと大勢聴きに来るかと思っていたのだが━━。今日は、ネットでの同時ライン配信も行なわれていたはずである。
一昨日のそれと違って、今日はピアノも朗々と鳴って、演奏も伸びやかで、快い。作品ごとにアプローチはさまざまに変えられてはいるものの、演奏にはやはりある種の詩情といったものが一貫して流れているだろう。
「悲愴ソナタ」では、彼女自身が配布プログラムの解説に、第1楽章の個所で「激しい感情の嵐を想像させるアレグロの主部・・・・グラーヴェのテーマが最後に繰り返されると、その嘆きは耐え切れない痛みのように・・・・」と書いているのが興味深い。
とはいえ実際の演奏では、序奏を含め、グラーヴェのテンポが極度に遅く採られていて、その中の長い休止符の個所での緊迫度が少々希薄に感じられた点が気になった。つまり、楽曲構築上の━━アレグロとグラーヴェとのバランス感にも些か疑問を残したわけで、言い換えればそのグラーヴェのテンポが誇張されていたのではないか、という印象を与えたのも事実なのである。
素晴らしかったのは武満とドビュッシー。この両者を並べたというプログラム構成からして見事だったし、すべてがまさに玲瓏たる響きで、詩的な雰囲気を溢れさせていたのだった。
そして更に見事だったのは「さすらい人幻想曲」での演奏である。情感の昂揚と楽曲の構成がぴたりと合って、この曲の良さを余すところなく再現してくれていただろう。曲の終結について彼女自身が解説の中で「これは虚偽の明るさでしょうか?・・・・苦境の山を全力で乗り越えようとするかのような葛藤が最後まで続きます」と記しているのが興味深く、昂揚が野放図のものにならずに適正な均整を保っていたのは、彼女のそうした解釈が演奏に反映していたからかもしれない。
ピアノの指使いがよく見えるところで聞きましたがダイナミックな部分と静かなところの対比が見事で幽玄ささえ湛えていて、さすがです。アンコールはグリーグ抒情小曲集op54-4という渋い曲。秋山/センチュリ響のサポートも見事でした。