2015・8・9(日)沼尻竜典作曲 歌劇「竹取物語」
滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 中ホール 2時
あの有名な「竹取物語」のオペラ化。作曲だけでなく、台本も沼尻竜典自身による。
かぐや姫を幸田浩子、竹取の翁を清水良一、媼を永井和子、帝を与那城敬、その他の歌手陣。沼尻竜典指揮の日本センチュリー交響楽団、びわ湖ホール声楽アンサンブルが演奏。演出を栗山昌良、装置を鈴木俊朗、照明を原中治美、衣装を岸井克己、振付を小井戸秀宅が担当している。
このオペラ、これまで部分的に聴いた範囲では、あまりよくわからなかったけれども、こうして舞台上演に接してみると、予想外に面白い。
作曲者・沼尻竜典は、所謂「ゲンダイオンガク」的ではない手法を採り、耳あたりの極めて良い、親しみやすい音楽のスタイルで90分強を押し通した。三善晃門下でもある彼の管弦楽法も、思いのほか━━と言っては失礼だが、なにしろこれまでは指揮者としての彼しか存じ上げなかったので━━なかなかに見事なものであった。
プログラム冊子に載っている彼のエッセイによれば、彼は「現代音楽調」でなく「帰りに口ずさめるオペラ」を狙ったという。「覚えたフシを子供が踊りながら歌っていた」と知らされた時には大喜びしたそうである。
そして作曲者は、「昭和の歌謡曲全盛時代に自分が親しんだ様々な種類の音楽と、古典のクラシック音楽のスタイルが混在する」と述べている。
それゆえこのオペラは、シリアスな要素およびウィット、ジョーク、パロディの要素を併せ持った音楽になるわけだが、実際には、いやもう、その洒落っ気たるや立派なものだ。クラシック音楽からミュージカル、歌謡曲、往年のコントなどの音楽のパロディまで出て来る。
阿倍御主人(宮本益光)が唐の国から仕入れた「火鼠の皮衣」が燃え上がる場面では、「ワルキューレ」の「魔の炎の音楽」の傑作なパロディが出現する。
また、大伴御行(晴雅彦)が、かぐや姫を生意気な女だと罵る歌は、多分あの植木等の「ハイそれまでヨ」のもじりかと思うが、この歌では、晴が派手にそれっぽく歌って観客を爆笑させていた。こういうところの晴の巧さは、抜群である。
その他、プッチーニの引用みたいなところもある。更にかぐや姫が自らについて語る場面の音楽には、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」の、冒頭場面の弦のモティーフが引用されていたようにも聞きとれたが、もしそうなら、メリザンドとかぐや姫の共通点━━つまり遠い謎の過去━━をいみじくも指摘したようなもので、面白い解釈だ。
もっともこのあたりは、作曲者ご本人に確かめたわけではない。こちらの思い込みかもしれないので━━たとえば、帝から姫への求愛があることを翁が媼に知らせる個所では、「君が代」的なフシが顔をのぞかせる。そのため、次の「帝のアリア」の最初の部分が昔の「天長節」(「今日の良き日は」)の出だしにそっくりだったのに、なるほどそう来たか、と感心して・・・・それをマエストロご本人に確認したら、意外にも「へえ、似てる?」と逆に訊き返されてしまった。
こういう沼尻の作曲について、プログラム冊子に、池辺晉一郎さんが、例のごとく面白いエッセイを載せている━━三善晃門下の後輩生としての沼尻のこの作品を「見事なエンタテインメントを構築してくれた」と評し、彼が自己の作品で矜持を保たなければならない「作曲家」でなかったことが幸いし、自由に飛翔できた、という意味のことを指摘している。
それは褒めているのか、皮肉を言っているのか、その両方なのかは判らないが、まあ、良かれ悪しかれ、その通りだろう。ここには、沼尻の良き人柄を感じさせるものがある。つまり、ジョークとアイロニーがしばしば一体化して顕在する、といった点だ(あの人は照れ症だからね、といった人もいた)。
一方、台本もなかなか凝ったつくりだ。ただ、最後に月の使者が現れるくだりは、迎え撃とうとする帝の軍隊が力を失って退散する個所を含め、やや唐突な進行にも思えるが?。
こういう洒落っ気のオペラを、演出の栗山昌良は、まさしくシリアスに仕上げてしまった。
大ベテラン、栗山の日本ものは、確かに良い。様式的に成功している例が多い。この舞台も、いつもの彼のスタイルにまとめられている。翁と媼は、前半ではまるで対のこけし人形のようで、これまたサマになっている。高所に配置された合唱が、仰々しく見台においた楽譜(?)をめくりながら歌ってみせるという、人形浄瑠璃か何かのパロディも良いだろう。
だが、一列に並んで客席を向き、直立不動に近い姿勢で歌う例のスタイルは━━これだけパロディを大量に含んだ音楽としてつくられているオペラとしては、この演出はあまりに真面目で、面白みがない。
それに、完璧に論理的かというと、そうでもない。最後に全員が富士山(不死の山)を讃え、日本の弥栄を讃える場面(あからさまで、照れ臭くなるが)で、姫を月に奪われて悲しみに沈んでいるはずの翁と媼も一緒に一列に並んで歌うなどというのは、ドラマとしては不自然だ。
歌手たちは、脇役に至るまでみんな良い。セリフも歌も、発音が明確であることは賞賛されていい。もっともこれは、沼尻のスコアの書き方の良さにも起因しているだろう。
今回は字幕も出たが、英語の字幕(Bamboo Princess)も追加されていた。これは、日本のオペラを在日・滞日外国人にも楽しんでもらおうという意味では、意義があるのではないか。ただし字幕制作にはカネがかかるので、特別な助成でもない限りは簡単にできるものではないのだが。
ともかくこの「竹取物語」、ゲンダイオンガクの大先生たちには褒められないだろうけれども、ムキにならなければ楽しめるオペラである。これは、びわ湖ホールの卓越した定番「沼尻竜典オペラセレクション」のシリーズの中の「インテルメッツォ」たる役割を果たすことだろう。
20分ほどの休憩時間を挟み、4時終演。
あの有名な「竹取物語」のオペラ化。作曲だけでなく、台本も沼尻竜典自身による。
かぐや姫を幸田浩子、竹取の翁を清水良一、媼を永井和子、帝を与那城敬、その他の歌手陣。沼尻竜典指揮の日本センチュリー交響楽団、びわ湖ホール声楽アンサンブルが演奏。演出を栗山昌良、装置を鈴木俊朗、照明を原中治美、衣装を岸井克己、振付を小井戸秀宅が担当している。
このオペラ、これまで部分的に聴いた範囲では、あまりよくわからなかったけれども、こうして舞台上演に接してみると、予想外に面白い。
作曲者・沼尻竜典は、所謂「ゲンダイオンガク」的ではない手法を採り、耳あたりの極めて良い、親しみやすい音楽のスタイルで90分強を押し通した。三善晃門下でもある彼の管弦楽法も、思いのほか━━と言っては失礼だが、なにしろこれまでは指揮者としての彼しか存じ上げなかったので━━なかなかに見事なものであった。
プログラム冊子に載っている彼のエッセイによれば、彼は「現代音楽調」でなく「帰りに口ずさめるオペラ」を狙ったという。「覚えたフシを子供が踊りながら歌っていた」と知らされた時には大喜びしたそうである。
そして作曲者は、「昭和の歌謡曲全盛時代に自分が親しんだ様々な種類の音楽と、古典のクラシック音楽のスタイルが混在する」と述べている。
それゆえこのオペラは、シリアスな要素およびウィット、ジョーク、パロディの要素を併せ持った音楽になるわけだが、実際には、いやもう、その洒落っ気たるや立派なものだ。クラシック音楽からミュージカル、歌謡曲、往年のコントなどの音楽のパロディまで出て来る。
阿倍御主人(宮本益光)が唐の国から仕入れた「火鼠の皮衣」が燃え上がる場面では、「ワルキューレ」の「魔の炎の音楽」の傑作なパロディが出現する。
また、大伴御行(晴雅彦)が、かぐや姫を生意気な女だと罵る歌は、多分あの植木等の「ハイそれまでヨ」のもじりかと思うが、この歌では、晴が派手にそれっぽく歌って観客を爆笑させていた。こういうところの晴の巧さは、抜群である。
その他、プッチーニの引用みたいなところもある。更にかぐや姫が自らについて語る場面の音楽には、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」の、冒頭場面の弦のモティーフが引用されていたようにも聞きとれたが、もしそうなら、メリザンドとかぐや姫の共通点━━つまり遠い謎の過去━━をいみじくも指摘したようなもので、面白い解釈だ。
もっともこのあたりは、作曲者ご本人に確かめたわけではない。こちらの思い込みかもしれないので━━たとえば、帝から姫への求愛があることを翁が媼に知らせる個所では、「君が代」的なフシが顔をのぞかせる。そのため、次の「帝のアリア」の最初の部分が昔の「天長節」(「今日の良き日は」)の出だしにそっくりだったのに、なるほどそう来たか、と感心して・・・・それをマエストロご本人に確認したら、意外にも「へえ、似てる?」と逆に訊き返されてしまった。
こういう沼尻の作曲について、プログラム冊子に、池辺晉一郎さんが、例のごとく面白いエッセイを載せている━━三善晃門下の後輩生としての沼尻のこの作品を「見事なエンタテインメントを構築してくれた」と評し、彼が自己の作品で矜持を保たなければならない「作曲家」でなかったことが幸いし、自由に飛翔できた、という意味のことを指摘している。
それは褒めているのか、皮肉を言っているのか、その両方なのかは判らないが、まあ、良かれ悪しかれ、その通りだろう。ここには、沼尻の良き人柄を感じさせるものがある。つまり、ジョークとアイロニーがしばしば一体化して顕在する、といった点だ(あの人は照れ症だからね、といった人もいた)。
一方、台本もなかなか凝ったつくりだ。ただ、最後に月の使者が現れるくだりは、迎え撃とうとする帝の軍隊が力を失って退散する個所を含め、やや唐突な進行にも思えるが?。
こういう洒落っ気のオペラを、演出の栗山昌良は、まさしくシリアスに仕上げてしまった。
大ベテラン、栗山の日本ものは、確かに良い。様式的に成功している例が多い。この舞台も、いつもの彼のスタイルにまとめられている。翁と媼は、前半ではまるで対のこけし人形のようで、これまたサマになっている。高所に配置された合唱が、仰々しく見台においた楽譜(?)をめくりながら歌ってみせるという、人形浄瑠璃か何かのパロディも良いだろう。
だが、一列に並んで客席を向き、直立不動に近い姿勢で歌う例のスタイルは━━これだけパロディを大量に含んだ音楽としてつくられているオペラとしては、この演出はあまりに真面目で、面白みがない。
それに、完璧に論理的かというと、そうでもない。最後に全員が富士山(不死の山)を讃え、日本の弥栄を讃える場面(あからさまで、照れ臭くなるが)で、姫を月に奪われて悲しみに沈んでいるはずの翁と媼も一緒に一列に並んで歌うなどというのは、ドラマとしては不自然だ。
歌手たちは、脇役に至るまでみんな良い。セリフも歌も、発音が明確であることは賞賛されていい。もっともこれは、沼尻のスコアの書き方の良さにも起因しているだろう。
今回は字幕も出たが、英語の字幕(Bamboo Princess)も追加されていた。これは、日本のオペラを在日・滞日外国人にも楽しんでもらおうという意味では、意義があるのではないか。ただし字幕制作にはカネがかかるので、特別な助成でもない限りは簡単にできるものではないのだが。
ともかくこの「竹取物語」、ゲンダイオンガクの大先生たちには褒められないだろうけれども、ムキにならなければ楽しめるオペラである。これは、びわ湖ホールの卓越した定番「沼尻竜典オペラセレクション」のシリーズの中の「インテルメッツォ」たる役割を果たすことだろう。
20分ほどの休憩時間を挟み、4時終演。
コメント
かぐやは何処へ!
ある意味「夕鶴」を越えているオペラですね。近い将来再演されることを願っています。できれば別の演出で…
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「能狂言」や「歌舞伎」を借りるなら、もう少し徹底したらいいのに。(見台は長唄や浄瑠璃ですね。) 『媼』の所作が見事でした。(こけしとは思いませんでした。)
今回のプロダクションの最大の謎は『かぐや姫』。大詰で『月よりの使者』を見たような気がしましたが・・・