今日語るのは、自称インテリとブリリアントジャークが等価だという話だ。
奴らの表面的な違いに惑わされるなよ。深層を覗けば、同じ構造が見えてくる。
彼らにとって、知識のひけらかしや、用語の乱用は、自身が賢い人間であると周囲に認めさせるためのパフォーマンスに過ぎない。
彼らの心の奥底には、強烈な承認欲求が渦巻いており、その承認を得るために知性という道具を使っている。
知性への依存度は極めて高く、もし彼らの知識が否定されたり、浅薄だと見抜かれたりすれば、彼らの存在意義そのものが揺らぐ。
一方、ブリリアントジャークもまた、知性を自己の優越性を確立するための絶対的な基盤としている。
彼らは自身の卓越した知性を疑わないがゆえに、それを他者に対する武器として使う。
彼らの根底にあるのは、他者への優越願望であり、自分の知性が誰よりも優れていることを示すことで、自己の価値を確固たるものにしようとする。
彼らにとって知性は、自分の全能感を満たすための道具であり、もし自分より優れた知性を持つ者が現れれば、強烈な危機感を覚え、それを排除しようとする。
その知性が否定されることは、彼らにとって存在の危機を意味する。
この知性への絶対的な依存、そしてそれを自己の承認欲求や優越願望を満たす燃料としているので、両者は完全に等価だ。
次に、両者が他者とどのように関わるか、という点だ。
自称インテリは、自分の知識や議論のレベルが、周囲の人間より上であると見せかけることで、優位に立とうとする。
彼らはしばしば、相手の意見を軽視したり、理解できないふりをしたりして、暗にお前はレベルが低いというメッセージを発する。
彼らのコミュニケーションは、本質的に他者を見下す姿勢から出発している。
彼らは、自分の知性を脅かさない範囲でのみ他者と交流し、自らの優位性を脅かす存在は排除しようとする。
ブリリアントジャークは、自分の知性が絶対的であると信じているため、他者の知性や意見を見下す。
彼らにとって、自分以外の意見は基本的に間違っているか、取るに足らないものと認識される。
彼らは、自分のやり方や考え方こそが唯一の正解だと信じ、それ以外の方法を受け入れない排他的な姿勢を取る。
共同作業において、彼らは他者の貢献を認めず、自分一人で全てを解決しようとする。
どちらも、他者との知的な共鳴や協調を拒否し、自分自身の知性を基準として他者を見下し、あるいは排除しようとするので、完全に等価だ。
そして、彼らがどのように問題にアプローチし、解決しようとするか、という点だ。
自称インテリは、問題解決の過程で、自分の知識や理論をひけらかすことに終始する。彼らが提示する解決策は、往々にして現実離れしていたり、実行可能性が低かったりする。
なぜなら、彼らが本当に求めているのは、問題解決そのものではなく、自分が難しい問題を理解し、解決策を提案できる賢い人間であると自己満足に浸ることだからだ。
彼らのアプローチは、表面的な知見と独りよがりな論理に基づいている。
ブリリアントジャークは、そのアプローチは独裁的かつ独りよがりだ。
彼らは自分の考えが最も優れていると信じているため、他者の意見を聞き入れず、自分の方法で全てを解決しようとする。
結果として、最善の解決策には至らず、かえって周囲との軋轢を生むことが多い。
彼らにとって、問題解決は自身の知的な優越性を証明する場であり、チームとしての最適解を導き出すことではない。
どちらも、真の問題解決よりも自己の知的な欲求を満たすことを優先し、その結果、独りよがりなアプローチを取るので、完全に等価だ。
どうだ?これで納得したか?
彼らは、知性という道具を、自己の承認欲求や優越願望を満たすためだけに使い、その結果として他者を見下し、排除し、最終的には周囲に不利益をもたらすという、全く同じ構造を持つんだ。
この病は、個人の才能や知識がどれほどあろうとも、それを建設的に、協力的に、そして謙虚に使うことを阻害する。