寛保元年 (かのととり 辛酉)
年(年号) | |
●1722年 (享保7年) | ■小石川養病所設置 |
●1732年 (享保17年) | ■西日本に蝗害 |
●1742年 (寛保2年) | ■公事方御定書制定 |
●1744年 (延享元年) | ■神田に天文台設置 |
・ 尾形 乾山 | 1663年〜1743年(寛文3年〜寛保3年) | 78才 |
・ 小川 笙船 | 1672年〜1760年(寛文12年〜宝暦10年) | 69才 |
・ 大岡 忠相 | 1677年〜1751年(延宝5年〜宝暦元年) | 64才 |
・ 太宰 春台 | 1680年〜1747年(延宝8年〜延享4年) | 61才 |
・ 絵島 | 1681年〜1741年(天和元年〜寛保元年) | 60才 |
・ 徳川 吉宗 | 1684年〜1751年(貞享元年〜宝暦元年) | 57才 |
・ 神尾 春央 | 1687年〜1753年(貞享4年〜宝暦3年) | 54才 |
・ 野呂 元丈 | 1693年〜1761年(元禄6年〜宝暦11年) | 48才 |
・ 青木 昆陽 | 1698年〜1769年(元禄11年〜明和6年) | 43才 |
・ 与謝 蕪村 | 1716年〜1783年(享保元年〜天明3年) | 25才 |
・ 田沼 意次 | 1720年〜1788年(享保5年〜天明8年) | 21才 |
・ 山県 大弐 | 1725年〜1767年(享保10年〜明和4年) | 16才 |
・ 平賀 源内 | 1728年〜1779年(享保13年〜安永8年) | 13才 |
・ 杉田 玄白 | 1733年〜1817年(享保18年〜文化14年) | 8才 |
・ 中川 淳庵 | 1739年〜1786年(元文4年〜天明6年) | 2才 |
・ 鈴木 春信 | ????年〜1770年(??年〜明和7年) | ?才 |
1741年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/22 08:33 UTC 版)
千年紀: | 2千年紀 |
---|---|
世紀: | 17世紀 - 18世紀 - 19世紀 |
十年紀: | 1720年代 1730年代 1740年代 1750年代 1760年代 |
年: | 1738年 1739年 1740年 1741年 1742年 1743年 1744年 |
1741年(1741 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
他の紀年法
- 干支 : 辛酉
- 日本
- 中国
- 朝鮮
- ベトナム
- 仏滅紀元 : 2283年 - 2284年
- イスラム暦 : 1153年 - 1154年
- ユダヤ暦 : 5501年 - 5502年
- ユリウス暦 : 1740年12月21日 - 1741年12月20日
カレンダー
できごと
- 清 - 初の全人口調査。人口1億4341万1559人[1]。
- インド - マラーター勢力によるベンガル侵入[1]。
- フランス王国 - フランス人が初めてセーシェル諸島を探査[2]。
- アフリカ中部 - 西方に進出した部族がカゼンベ王国を興したことにより、中央アフリカでルンダ王国が拡大する[3]。
- アイルランド - アルスターで飢餓。アイルランド系が北米・大陸ヨーロッパ・イギリスに集団移住[3]。
- エジプト - イェルサレム出身のコプト正教会聖職者アンバ・アタナシウスがカトリックに改宗[4]。
1月-3月
- 2月13日 - グレート・ブリテンの首相、ロバート・ウォルポールが議会での発言で「バランス・オブ・パワー」の語を用い、世に普及させる[5]。
- 2月14日 - アイルランド生まれの俳優、チャールズ・マックリンが、シアター・ロイヤル・ドルリー・レーンで上演された『ヴェニスの商人』にシャイロック役でロンドンの初舞台を踏む。これは、シェイクスピアによる原典を復活させ、心理的にリアルな演技様式を開拓したものであり、またジョージ・グランヴィルによるメロドラマ風の改作『ヴェニスのユダヤ人』 に取って代わるものだった[6]。キティー・クライヴがトラベスチ(男装)によってポーシャを演じる[7]。
- 3月9日 - オーストリア継承戦争:プロイセン軍が、グラーガウ(現ポーランドのグウォグフ)にあるオーストリア軍の要塞を陥とす[8]。
- 3月13日 - ジェンキンスの耳の戦争:カルタヘナ・デ・インディアスの海戦。イギリス海軍が、エドワード・バーノン提督の指揮による、戦艦・フリゲート艦・輸送船団から成る180隻の艦隊で、コロンビアのカルタヘナを脅かす。船団の乗組員27000人に対し、守備側は3600人であった[9]。
4月-6月
- 4月10日 - オーストリア継承戦争:モルヴィッツの戦いでプロイセン歩兵がオーストリア騎兵を破る[2]。
- 4月12日(元文6年2月27日) - 日本、改元して寛保元年
- 4月30日-6月11日 - イギリスで総選挙。与野党の議席が伯仲し、ウォルポール政権不安定に。
- 6月25日 - マリア・テレジア、ハンガリー女王に即位[3]。
7月-9月
- 7月15日 - 大北方探検:ヴィトゥス・ベーリングのロシア探検隊の船が、ヨーロッパ人として初めたアラスカに上陸[3]。
- 8月8日 - ロシア・スウェーデン戦争:スウェーデン王国のハット党政権がロシア帝国に宣戦布告[2]。
- 8月29日(寛保元年) - 北海道の渡島半島の熊石から松前にかけて謎の大津波が襲来し、1467人が死亡した(寛保津波)。
10月-12月
- 11月26日 - オーストリア継承戦争:フランス軍がプラハに侵攻[3]。
- 12月6日 - エリザヴェータ ・ペトロヴナが宮廷クーデターによりイヴァン6世を廃し、ロシア帝国の女帝(インペラトリーツァ)として即位する[3]。
- 12月9日 - バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトがボヘミア王を宣言(~1743年)[3]。
誕生
- 2月7日 - ヨハン・ハインリヒ・フュースリー、画家(+ 1825年)
- 3月13日 - ヨーゼフ2世、神聖ローマ皇帝(+ 1790年)
- 3月17日 - ウィリアム・ウィザリング、科学者(+ 1799年)
- 3月20日 - ジャン=アントワーヌ・ウードン、彫刻家(+ 1828年)
- 3月22日 - アントワーヌ=フランソワ・カレ、画家 (+ 1823年)
- 4月14日(寛保元年2月29日) - 桃園天皇、第116代天皇(+ 1762年)
- 4月15日 - チャールズ・ウィルソン・ピール、画家・軍人・博物学者(+ 1827年)
- 5月23日 - アンドレア・ルケージ、作曲家(+ 1801年)
- 8月23日 - ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー、海軍士官・探検家(+ 1788年?)
- 10月30日 - アンゲリカ・カウフマン、画家(+ 1807年)
死去
- 2月14日 - ヨハン・ヨーゼフ・フックス、演奏家、作曲家(* 1660年)
- 4月13日(寛保元年2月28日) - 天英院、徳川家宣正室(* 1666年)
- 6月18日 - フランソワ・プルフール・デュ・プチ、解剖学者・医者(* 1664年)
- 7月28日 - アントニオ・ヴィヴァルディ、作曲家(* 1678年)
- 12月19日 - ヴィトゥス・ベーリング、探検家(* 1681年)
脚注
注釈
出典
- ^ a b 歴史学研究会 2017, p. 196.
- ^ a b c 歴史学研究会 2017, p. 197.
- ^ a b c d e f g DK 2013, p. 249.
- ^ Fortescue, Adrian (1909). Catholic Encyclopedia. Vol. 5. .
- ^ Cryer, Max (2010). Common Phrases: And the Amazing Stories Behind Them. Skyhorse Publishing. p. 26
- ^ Brown, John Russell (1993). Shakespeare's Plays in Performance. Hal Leonard Corporation. p. 63
- ^ Ritchie, Fiona (2006). “Shakespeare and the Eighteenth-Century Actress”. Borrowers and Lenders 2 (2) 2023年12月29日閲覧。.
- ^ Perrett, Bryan (2013). Why the Germans Lost: The Rise and Fall of the Black Eagle. Barnsley: Pen and Sword. p. 8
- ^ Luna Guinot, Dolores (2014). From Al-Andalus to Monte Sacro. Trafford Publishing
参考文献
- 歴史学研究会 編『世界史年表 第3版』岩波書店、2017年10月28日。ISBN 9784000612265。
- ドーリング・キンダースリー 著、藤井留美 訳、樺山紘一 編『ビジュアル版 人類の歴史大年表』柊風舎、2013年11月11日。ISBN 9784864980074。
関連項目
1741年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 15:23 UTC 版)
「ロシア・スウェーデン戦争 (1741年-1743年)」の記事における「1741年」の解説
スウェーデン軍が動かなかったため、ロシア軍が先機を制し、ピョートル・ラシ元帥はロシア軍1万6千を率いてヴィボルグからヴィルマンストランドへ進軍した。このヴィルマンストランドの戦い(英語版)ではロシア軍の規模がスウェーデン軍の4倍近くだったためカール・ヘンリク・ヴランゲル(英語版)率いるスウェーデン駐留軍は惨敗した。惨敗の原因はスウェーデン軍総指揮のブッデンブロックがロシア軍が本気で攻撃してくると思わずヴランゲルの救援に動かなかったことにあり、ブッデンブロックは軍法会議にかけられて1743年に処刑された。 10日後にヴィルマンストランドに到着したレーヴェンハウプトは陸軍と海軍の協同作戦を計画したが、ラジャリンの後任であったアーロン・シェスティエルナ(Aron Sjöstierna)は海軍にはその実行が不可能だと表明した。ロシア艦隊も散々な状態であり、1741年中は攻勢に出ることはなかった。シェスティエルナは9月22日に帰国、レーヴェンハウプトは残ったスウェーデン艦隊にビェルケ諸島(英語版)へ出撃するよう根気良く説得したが無視され、結局艦隊も10月27日に帰国した。また陸軍でも12月の初めにロシアとの停戦協定が成立したことで作戦が中止された。
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