認可保育園は税金使いすぎなのか?


 「報道ステーション」で保育にかかる税金の問題が特集されていたようだ。

やっぱり出た!保育料2万円、税金50万円(うんざり): 博多連々(はかたつれづれ) やっぱり出た!保育料2万円、税金50万円(うんざり): 博多連々(はかたつれづれ)

 この報道自身を見ていないので、何とも言えないところはあるんだけども、上記のエントリをみると、認可保育園は保育料は格安なのに、使っている税金は湯水のようだ、という認識を植え付ける感じになっているみたい。いや、ホントにわかんないんだけどね。

 鈴木亘の試算が元になっているようだ。
 鈴木の試算は前も話題になっていて、下記のような記事もある。

新規参入は断固阻止!! 保育園業界に巣くう利権の闇 | Close Up | ダイヤモンド・オンライン 新規参入は断固阻止!! 保育園業界に巣くう利権の闇 | Close Up | ダイヤモンド・オンライン

 この記事の3ページ目では、公立認可保育園においては、

東京23区の保育士の平均年収は800万円を超え

とある。

 鈴木自身はブログで、自分のこの試算・調査について、

未だにこれ以上、大規模で厳密な調査は無いであろう

http://blogs.yahoo.co.jp/kqsmr859/archive/2009/11/21

と誇っているものである。


 これは「保育が必要な者を行政が認定し、行政の責任で保育所を建設するというしくみは集産主義経済的であり、不合理とコスト高を生む」──こういう認識を広めるために使われている「根拠」である。
 鈴木自身がどこまでいうか別にしても、保育を基本的には市場にゆだねることで、この不合理は解消する、というものだ。現在の民主党政権が自民党政権から引き継いだ保育「改革」はこの方向への基本的な突破をはかるものになっている(後述)。

他の先進国に比べると保育系予算は低すぎる

 鈴木の試算が正確かどうかは、ぼくには判断する材料がない。しかし、そもそも日本の保育はそれほどたくさんのコストがかけられているのだろうか。認可保育で働く労働者にしても親にしても、そういう実感は乏しいに違いない。

 たとえば、OECDにおいて、5歳児1人当たりにつき、保育・幼児教育にどれだけ公的支出がされているかを比較した数字がある。勤労年齢世帯の所得の中間値に対する割合なのだが、日本は最低クラスである。

 保育・幼児教育への公的支出については、国民純所得比で比較したデータもある。

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5123.html

 ここでもほぼ最低クラスである。
 他方で、私的支出をみてみると、最多クラスになっている。

 ここから垣間見えるのは、先進国のなかでは極端に保育や幼児教育への公的支出は少なく、その不足分を個人の財布から持ち出させている、という姿である。

保育の市場化をめざした議論

 保育の市場化は、もしまったく基準をなくして自由価格にすれば、たしかに需給バランスは均衡する。お金のある人には質の高い、選択肢の多い保育、お金のない人には、つめこみで質の悪い保育が与えられるだろう。
 もちろんそこまで極端な意見はあまり出されていない。
 しかし、設備や人的配置の基準をそのままにして、価格にキツい上限・下限を設けてしまうとどうなるかといえば、保育をつくるコストが「高く」なるので、高価格のまま止まり、買いたくても買えないというふうになってしまう。
 そこで、(1)条件基準をできるだけユルくすること、(2)価格は自由に近づけたまま親の方に補助金を渡すようにすること、という解決策が考えられる。

 (1)は、現在、保育園の「最低基準」というナショナル・ミニマムを取り払い、地方まかせにすることが法案化されているが、それだけでなく、幼稚園・保育園(幼保)一元化構想が曲者であろう。
 幼保一元化は少子化で定員割れとなっている幼稚園のリソースを活用して、保育園待機児を解消させることを期待させるものである。
 保育園のまま基準を下げることは抵抗が大きい。しかし、「一元化」することによって「チャラ」になりうる。基準を下げても「いやこれは保育所じゃありませんから。こども園という新しい組織ですから」と言い訳できるから。基準がどうなるのかあいまいなままこの一元化は進められているが、とにかく「保育所」という組織・施設を「チャラ」にすることが重要なのだ。

 (2)は、こども手当がその候補になるだろう。必要なら保育園に通わせる低所得者には手当を上乗せする方向がとられるに違いない。民主党政権が掲げていた「間接支援から直接支援へ」というスローガンは、認可保育園へ補助をするのではなく、保育の供給自体は自由化=市場化してしまい、親の方に直接お金を渡すことで調整しようとする流れにつながっている。

 一見、「最低基準の緩和・地方裁量化」も「幼保一元化」も「こども手当」もまったく別々の、バラバラのロジックで始められているのだが、実際には「市場化」という点で一本の筋が通っている。逆に可視的に筋を通してしまうと抵抗が大きくなるので、バラバラの動きに見せかけているだけである。


いま現実にねらわれている保育「改革」

 それでもまだ(1)(2)の実施は距離がある。
 いま現実的な日程にのぼりつつあるのは、認可保育システムの解体というところだ。(イ)市町村による保育実施義務を外し(ロ)園と保護者との直接契約にし、(ハ)時間によるサービスの切り売り=商品化をもららす「改革」である。保育に欠ける子どもに保育を提供する義務を市町村から解除し、ただの「調整役」になるし、また、時間ごとのサービス(商品)の切り売りができるようになれば、市場化はしやすくなる。どれだけそれが「小さな」一歩であろうと、それを突破することで、認可システムは決定的に解体する。

 保育の市場化をめざす論者の気持ちになってみれば、最低の基準は今よりも融通のきくものにするが、基準そのものをなくすわけではない。認可外保育だって現在まったく自由なのではなく設置・運営基準がある。そして、保育料=価格についても自由化すればいい。貧しい人には補助やバウチャー(保育サービスをもらえるクーポン券)を与えればいいのだ。……ということになる。

 一理ある、というふうに思える人もいるだろう。


保育の影響は目にみえない部分がこわい

 ぼくが懸念するのは、保育園に実際子どもを預けてみて、基準にかかわる問題の子どもへの影響は長期に目に見えない形で少しずつ蓄積されていくものだし、市場での判定は即物的になりやすい、ということだ。
 たとえば、低所得で仕事に余裕のない親は、どれだけつめこみであっても、いつもテレビに保育をさせているような園であっても、とにかくまず入れればありがたいと思って預けるだろう。夜中まで空いているところ、早期教育させるというところがウケるということもあるだろう。
 だが、それが明確なつながりをもった影響として顕在化するのは確かに判断が難しい。子どもへの悪影響は、事件化したり社会現象化するようなことがあったとしても、せいぜい「遠因の一つ」程度に数えられて、基本は「親の育て方・本人の性格のせい」にされて終わるのではないだろうか。

 保育の市場化は親の側から出てきた提案ではない。
 親の側の強いニーズは「待機児の解消」である。
 それにたいして、「認可園を増やす」という従来からの当たり前の方法では、「コストがかかりすぎる」と思ったのが財界筋である。市場化することで最小コストで資源配分が最適化できるではないか、おまけに市場参入という旨味も広がる、というわけである。
 だがOECDの統計にもどってほしいのだが、現在の認可保育園のシステムが決定的にダメなのではなくて、他の先進国に比べてカネをかけていなさすぎるのだ。だとすれば、もう少し予算をかけて、認可保育園をふやせばそれでいいではないか、とぼくは思う。




追記(2010.10.28)

 はてブに id:urashimasan のコメントがあった。

いや、だからその800万も嘘なんだってば。 http://blog.livedoor.jp/kenposzk/archives/51704258.html

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20101027

 ぼくも書こうか書くまいか迷ったのだが、たとえば練馬区でも区側の発表では、保育士(区職員)の給与は年間616万円が平均とされている。これは鈴木があげているのと同様に期末手当(賞与)や諸手当を含んだ年収である。
http://www.city.nerima.tokyo.jp/jinji/kouhyou/h18/kyuyo1.html

 しかし、たとえば品川区になると保育士単独での数字はないけども、福祉職では期末手当・勤勉手当を4.5か月とすると800万円前後になる。
http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/ct/other000016600/21kyuyo3.pdf

 練馬や渋谷が600万円台なのに、あやしいではないか、というのは常識的に考えてうなずける思考である。しかし、たとえば品川区のようなところに区職員保育士が大量にいて他区では区職員の保育士が少ないと800万円近い数字が出てしまう。そのあたりの全貌がわからないのだ。



再追記(2010.10.30)

 コメント欄で指摘があったように、単純な計算ミスだった。
 品川区の場合も、

 月収40万円×(12+4.5)ヶ月=660万円程度

である。これでいよいよ鈴木の試算があやしくなったわけだが、いずれにせよ鈴木の調査自体をぼくは目にしていないので判断を保留することはかわりない。