Halfaouine:Boy of the Terraces
映画
Halfaouine:Boy of the Terraces
チュニジア 1990年
Asfour Stah
監督:フェリド・ブゲディール
出演:セリム・ブゲディール
IMDb Asfour Stah
主人公ノーラは12才の少年で、子供と大人の間にある不安定な状態を表現する存在になっている。そろそろ性の目覚めを感じる年ごろだ。年上の友人たちと街の中で女の子に声をかけたり、成人雑誌を見つけて、友人たちと女性の裸体を楽しんだりする場面が序盤にあり、ノーラの好奇心を表現していた。雑誌に掲載されている女性の裸にはヘアは見えていない。別の場面で母親がすねの脱毛をしている場面があるので、女性たちはおそらく脱毛してきれいにしているのだと思われる。
ノーラに好奇心が芽生えていたとしても、親からは子供として扱われる。浴場に行くと、お母さんに連れられて女湯に入っていくのだ。まさに映画の冒頭は浴場の女湯の中からスタートしている。そこにはたくさんの女性たちがいて、下着や湯浴みのようなものをまとっている女性が多い。それが濡れて透けて見えるところに、ノーラの目線が集中しているのがわかる。
浴場には何度が行く場面があるが、中盤の浴場では、女湯の中も露出度が高くなっている。ノーラの目線は、左右に動いていく女性のおっっぱいを追いかけていた。よく見るとシャワーから出てくる女性は下の方も身に着けてない。股間だけ桶やタオルで隠している女性たちが次々に現れるので、視線はその見えそうで見えない女性の股間に集中しているのがわかる。女湯に入れるのが特権だと思ったのか、年上の友達たちに女湯の様子を語るという場面もあった。
これが後半の浴場になると、女性の股間がもいよいよで見えそうだとドキドキしながら覗いている場面で、浴場の管理人につかまってしまった。子供を装ってうまく女湯に入っているが、結局はスケベな男性だということがばれてしまった。こうして女湯から追い出されるのは、少年にとっての一つの通過儀礼だろう。
家には若いお姉さんが養子として迎え入れられる。女湯に入れなくなったノーラはこのお姉さんの裸を見ることが楽しみになっている。寝室に忍び込んで寝姿を観察したり、家の中でのお風呂のときに裸を観察したり。好奇心は衰えることはなかった。
一方で、男性自身としての側面もテーマにあがる。イスラムの国では割礼を受けるのが常識。家では2才児くらいの男の子の割礼の儀式が行われた。その子の泣き声を聞きながら主人公ノーラは自分の股間をおさえて怖がる場面がある。子供が男になるための通過儀礼だけれども、これは小さい頃に割礼を受けた体験を思い出して恐怖心を覚えたのだろう。
このように、主人公の成長と性をテーマにした映画であるが、主人公ノーラ本人の珍は最後まで見えなかった。浴場では、ブリーフを着たままで、体を洗ったり浴場内を探検したりしていたようだ。しかしそのブリーフが明らかにもっこりした状態になっている。生の珍は見せないけれども、ふくらみのある大きさをを間接的に見せた方が興奮度が伝わるかもしれないね。
その代わりといってはなんだけれども、主人公以外では珍場面がある。中盤の浴場内では、6才くらいの男の子が主人公のすぐ近くに寝かされているが、お母さんがあかすりタオルで男の子の体を洗っている。その男の子がかわいくて仕方ないのだろう。珍を指でつまんでブルブルと刺激しているのがわかる。男の子はされるまま。この子は割礼済のようで、きれいに亀頭が見えている。
もう一つの珍場面は後半の割礼の場面だ。これも主人公ではない。割礼の儀式にたくさんの人が家の中に集まっている。男の子は下半身裸にされて押さえられている。床屋さんが男の子の包皮の先っちょをつかんで、はさみをあてる。そこからは珍がアップの映像だった。血が出るところまでは見せないけれども、ハサミが包皮に食い込んでいる感じが痛そうに見えていた。
このノーラ少年を演じる子役は、監督の甥が抜擢されたということだね。見た感じ中1くらいだろう。
https://www.dailymotion.com/video/x8ncid8
チュニジア 1990年
Asfour Stah
監督:フェリド・ブゲディール
出演:セリム・ブゲディール
IMDb Asfour Stah
主人公ノーラは12才の少年で、子供と大人の間にある不安定な状態を表現する存在になっている。そろそろ性の目覚めを感じる年ごろだ。年上の友人たちと街の中で女の子に声をかけたり、成人雑誌を見つけて、友人たちと女性の裸体を楽しんだりする場面が序盤にあり、ノーラの好奇心を表現していた。雑誌に掲載されている女性の裸にはヘアは見えていない。別の場面で母親がすねの脱毛をしている場面があるので、女性たちはおそらく脱毛してきれいにしているのだと思われる。
ノーラに好奇心が芽生えていたとしても、親からは子供として扱われる。浴場に行くと、お母さんに連れられて女湯に入っていくのだ。まさに映画の冒頭は浴場の女湯の中からスタートしている。そこにはたくさんの女性たちがいて、下着や湯浴みのようなものをまとっている女性が多い。それが濡れて透けて見えるところに、ノーラの目線が集中しているのがわかる。
浴場には何度が行く場面があるが、中盤の浴場では、女湯の中も露出度が高くなっている。ノーラの目線は、左右に動いていく女性のおっっぱいを追いかけていた。よく見るとシャワーから出てくる女性は下の方も身に着けてない。股間だけ桶やタオルで隠している女性たちが次々に現れるので、視線はその見えそうで見えない女性の股間に集中しているのがわかる。女湯に入れるのが特権だと思ったのか、年上の友達たちに女湯の様子を語るという場面もあった。
これが後半の浴場になると、女性の股間がもいよいよで見えそうだとドキドキしながら覗いている場面で、浴場の管理人につかまってしまった。子供を装ってうまく女湯に入っているが、結局はスケベな男性だということがばれてしまった。こうして女湯から追い出されるのは、少年にとっての一つの通過儀礼だろう。
家には若いお姉さんが養子として迎え入れられる。女湯に入れなくなったノーラはこのお姉さんの裸を見ることが楽しみになっている。寝室に忍び込んで寝姿を観察したり、家の中でのお風呂のときに裸を観察したり。好奇心は衰えることはなかった。
一方で、男性自身としての側面もテーマにあがる。イスラムの国では割礼を受けるのが常識。家では2才児くらいの男の子の割礼の儀式が行われた。その子の泣き声を聞きながら主人公ノーラは自分の股間をおさえて怖がる場面がある。子供が男になるための通過儀礼だけれども、これは小さい頃に割礼を受けた体験を思い出して恐怖心を覚えたのだろう。
このように、主人公の成長と性をテーマにした映画であるが、主人公ノーラ本人の珍は最後まで見えなかった。浴場では、ブリーフを着たままで、体を洗ったり浴場内を探検したりしていたようだ。しかしそのブリーフが明らかにもっこりした状態になっている。生の珍は見せないけれども、ふくらみのある大きさをを間接的に見せた方が興奮度が伝わるかもしれないね。
その代わりといってはなんだけれども、主人公以外では珍場面がある。中盤の浴場内では、6才くらいの男の子が主人公のすぐ近くに寝かされているが、お母さんがあかすりタオルで男の子の体を洗っている。その男の子がかわいくて仕方ないのだろう。珍を指でつまんでブルブルと刺激しているのがわかる。男の子はされるまま。この子は割礼済のようで、きれいに亀頭が見えている。
もう一つの珍場面は後半の割礼の場面だ。これも主人公ではない。割礼の儀式にたくさんの人が家の中に集まっている。男の子は下半身裸にされて押さえられている。床屋さんが男の子の包皮の先っちょをつかんで、はさみをあてる。そこからは珍がアップの映像だった。血が出るところまでは見せないけれども、ハサミが包皮に食い込んでいる感じが痛そうに見えていた。
このノーラ少年を演じる子役は、監督の甥が抜擢されたということだね。見た感じ中1くらいだろう。
https://www.dailymotion.com/video/x8ncid8
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