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珠玉の名曲たち、クラシック音楽を楽しむブログ。クラシック音楽の楽曲をテーマに、短いエッセーを書いています。

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ハイドン トランペット協奏曲:楽器への思いやり

ハイドン:トランペット協奏曲ハイドン:トランペット協奏曲
(2000/06/21)
アンドレ(モーリス)

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ハイドン トランペット協奏曲 変ホ長調 Hob.VIIe:1

今年2月に、フランスの名トランペット奏者モーリス・アンドレ氏が亡くなったという誠に残念なニュースがあったが、僕は彼の演奏するテレマンやバッハ、フンメルらの協奏曲が大好きでよく聴いていた。ハイドンの協奏曲もそのひとつである。
僕はモーツァルトも好きだが、もしかすると将来的にハイドンやモーツァルトばかり聴いているんじゃないかと思うこともある。多くのジャンルの音楽を聴いてみて、僕がクラシックを好きになったというのは、クラシック音楽の中でも最も“クラシックらしい部分”に共鳴したからであり、そういう最も“クラシックらしい部分”というのはおそらく、モーツァルトやハイドンの音楽なのではないか、と思うのである。
まあ多分ショパンやらシューマンやらなんだかんだ色々聴くとは思うのだけども、ハイドンの音楽はいついかなるときも、そしてどんな者に対しても、必ず受け入れてくれるような姿勢を示していると言っていい。
この曲もまた、非常に聴きやすい良曲だ。ハイドン唯一のトランペット協奏曲で、また彼の最後の協奏曲でもある。
ハイドンの友人でウィーンの宮廷楽団のトランペット奏者だったヴァイディンガーのために作曲したもので、現在のトランペットとは違う形状の、5つのキーが付いた有鍵トランペット用の作品であった。今はこの楽器は衰退してしまったが、進化した現在のトランペットで演奏されるこの作品は、トランペット奏者には重要なレパートリーだ。
伝統的な3楽章構成で、占めて15分ほどの長さ。長調で、華やかで、美しい。思い立ったときにすぐに聴ける、なんとも丁度良い曲だ。

もともとは新しく開発された楽器のお披露目的要素もあったのだろうが、音楽的に今の楽器とどのような違いが出るのかは図りかねる。より演奏しやすかったのかもしれないし、現在のトランペットの方が全体的に音に関しては作りやすくなっているというのは事実だろう。
しかし、カデンツァも含め、相当テクニカルな音楽であることは確かだ。協奏曲というのは大体ソロ楽器が鬼のように難しいのが常だが、この曲もまたソロ奏者にとっては難しい曲だろう。
しかし、優れた協奏曲は、ソロ奏者にかなりの腕を要求しつつも、その楽器がもっとも効率的にスポットライトの中心となり、常に輝くように気を遣って作られている、ということをハイドンの協奏曲は思い出させてくれる。
編成は独奏トランペットにフルート・オーボエ・ファゴット・ホルン・トランペット各2、ティンパニ、弦五部と、華麗なトランペットという楽器に相応しい、当時にしては大規模な編成。
それでいて、簡潔で明快なオーケストレーション。後の作曲家たちもお手本にしたことだろう。
1楽章のテーマが、オーケストラで奏でられた後、トランペットで再び演奏される。この弦と管の響きによる印象の違いに敏感になって聴けば、トランペットの良さ、そしてハイドンの音楽の良さがわかるというものだ。
3楽章には非常に細かいパッセージがあり、奏者のテクニックに聞き惚れたい。
アンドレが圧倒的なのはその音色と安定感であり、このハイドンの協奏曲のような、つんざくような咆哮的な音を必要としない音楽にはぴったりだろう。ハイドンのトランペットへの思いやりのようなものが、アンドレのように柔和な音がごく自然に活きる音楽へと導いたのだ。
ステレオが良ければスメドヴィックやドクシツェルのものも良いが、ここはぜひとも、アンドレの柔和な音色で、この古典派最盛期の素晴らしい古き良き協奏曲を楽しみたいところだ。

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ハイドン 交響曲第49番「受難」:それはそれで楽しい

ハイドン:交響曲第26, 35, 49番ハイドン:交響曲第26, 35, 49番
(1993/06/01)
ウォード

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ハイドン 交響曲第49番 ヘ短調 「受難」

ハイドンの交響曲において、短調の曲というのは非常に少ない。「受難」の他に、「告別」や「哀悼」が有名だ。僕も実際のところ好んで長調の曲を聴く。
というのは勿論、僕のような楽観的な人間にとって、明朗な長調の音楽を聴く時間はまさに至福のひと時、日常から解放され音楽の世界にどっぷりと浸かれば、心も体も癒されることこの上ないからだ。
それはモーツァルトやプーランクでも同じことで、やはり長調の曲を選ぶことが多い。
だがモーツァルトにしてもプーランクにしても、そしてハイドンにしても、短調の曲にはまた違った良さがある、などと言ったら少し幼稚に聞こえるだろうか。
違った良さというよりは、違った意味合いというもっと客観的なところに目を向けてみると、今度はその曲の持つ意味合いが、主観的な自分の感性といったところに影響を与えてくるんだから不思議なものだ。
長調短調は、作曲家にとっての、そのときの思いや情感、宗教や社会状況などが色々関わって決定されるのだろうが、ハイドンのこの「受難」は、100%宗教色のあるものかというとやや疑問が残る。
ハイドンの交響曲を捉える際の副題の果たす役割というのは、以前ちょっと考察してみたのだが、まあなかなか簡単にまとまるものではないし、この「受難」もまた、後の人が付けたものとされる。
この曲はいわゆる「疾風怒濤の時代(シュトゥルム・ウント・ドラング)」の作とされ、1768年に完成した。
ハイドンには珍しい「緩・急・緩・急」という構成で、これは「急速な序楽章・緩徐楽章・舞曲楽章・急速な終楽章」というよくあるハイドンの交響曲のパターンとは全く異なる。

「疾風怒濤の時代」と、ハイドンの短調の交響曲、そして「受難」、これらの間にはどういう関係性があるのだろうか。少し見てみよう。
ゲーテの「若きウェルテルの悩み」に代表されるこの文芸運動は、理性に対する激しい感情の勝利が特徴だが、この時期のハイドンの交響曲は短調の存在も含め特異である。
感情の表出が激しいのは、一聴すればすぐにわかることだ。特に揺るぎない2楽章、駆け抜けるような4楽章は本当にそう感じる。ヘ短調であることがさらに感情の激しさを高める。
だが、どうもこの文芸運動は、ハイドンの一連の交響曲完成の後に起こったもののようである。「若きウェルテルの悩み」が1774年、シラーの「群盗」は1781年、これらからわかることは、この文芸運動が直接ハイドンに影響を与えたのではなく、むしろハイドンの音楽は先駆的なものであったようだ。
「哀悼」や「告別」も1772年の作で、やや早い。しかし、それでもハイドンの短調交響曲が、「疾風怒濤の時代」のものと言うに足る十分な証拠として、この激しい感情の音楽があることはまた事実である。
ハイドンはどういう経緯でこの曲を作ったのだろう。「受難」というのは、この曲の重苦しい1楽章を聴けば誰もが納得する。スコアの最後に神への感謝が書かれていることから、受難週のものと見られ、この愛称が付けられたという説もある。
これは教会で演奏されることを想定していたのかもしれない。そういった空間の広がりを感じることが出来るのは1楽章と3楽章である。敬虔な響きさえ感じてしまうのは、愛称に引きずられているせいか、それとも音楽そのものに何かあるのか、ちょっとわからない。

さて、ここまで見てきて、僕にはさっぱり何もわからないのだが、ともかくハイドンの交響曲というのは実に考え甲斐のある音楽である。
ハイドンの音楽は、どんな音楽よりも増して、何も考えないで聴いても本当に楽しめる音楽なのだ。だからこそ、こうやって聴いていないときくらい、少し考えを巡らせた方が良いのかもしれない。答えはなかなか見えないが、それはそれで楽しい。

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ハイドン 交響曲第82番「熊」:ユニークな愛称が鍵となるか

ハイドン:パリ交響曲集ハイドン:パリ交響曲集
(2005/03/23)
アーノンクール(ニコラウス)

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ハイドン 交響曲第82番 ハ短調 Hob.I:82「熊」

まだハイドンにの楽曲について書いていなかったのが自分でも驚きだ。
古典派を代表する作曲家のひとりで、どうもベートーヴェン、モーツァルト、シューベルトと比べると人気が低い気がするのだが、僕の大好きな作曲家である。
非常に多作な作曲家で、「交響曲の父」の異名を持ち、100曲以上の交響曲を残している。
最もポピュラーなのは「ロンドン交響曲」と呼ばれる12曲の交響曲群だが、この第82番「熊」はそれより早く作曲された「パリ交響曲」と呼ばれる6曲の交響曲群のものである。
「パリ交響曲」群は1784年にパリの演奏集団「コンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピーク」によって委嘱された作品である。
当時世界でも随一の腕を持つ演奏家が集まっていたロージュ・オランピークのためのものということで、ハイドンのよくある室内交響曲風とは異なり、やや規模が大きい。
「熊」も25分ほどで、ハイドンの交響曲にしては長い方である。
ちなみに「熊」というのは後に付いたもので、4楽章のドローンが、熊の唸りに聞こえるからという理由である。
熊というよりはバグパイプ風であり、まあ愛称のようなものだ。
だがこの愛称は、ハイドンの交響曲を理解する上で非常に重要なものとなるように思う。
さすがにその辺のことを「熊」1回で語るのは厳しいので、まあ追々ということで。

力強く始まる1楽章だが、間違ってもここで熊を想像してはいけない(が何かと言われるとわからないのだけれど)。
2楽章はヘ長調とヘ短調の歌が交互に現れる。厳格な印象もあるが、非常に劇的であり情緒的でもある。
3楽章はメヌエット。美しい歌と迫力ある歌の繰り返しが心地よい。
4楽章はヴィヴァーチェで歌い踊るような雰囲気。執拗なドローンに踊る旋律は、全てを忘れて飲めや歌えやの大騒ぎする農民のようだ。

ハイドンの交響曲は(時代的にも・ハイドン個人の問題としても)標題音楽と絶対音楽の揺らぎの中にあると言える。
熊というユニークな愛称は、もしかすると絶対音楽としての作品の奥底にある、ハイドンの秘めた標題性に起因するのかもしれない。
この作品にある何かしらの凶暴性か、或いは農村的な趣のことか。
こういった考察はどこまでも深めることができる。
次回「パリ交響曲」のどれかを取り上げた際に、もう少し深めてみよう。

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