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珠玉の名曲たち、クラシック音楽を楽しむブログ。クラシック音楽の楽曲をテーマに、短いエッセーを書いています。

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シューベルト アヴェ・マリア:祈りを……

アヴェ・マリア~ドミンゴとウィーン少年合唱団アヴェ・マリア~ドミンゴとウィーン少年合唱団
(2007/03/21)
ドミンゴ(プラシド)&ウィーン少年合唱団、ドミンゴ(プラシド) 他

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シューベルト アヴェ・マリア(エレンの歌第3番 作品52-6 D.839)

あまりにも有名なシューベルトの美しい歌曲、アヴェ・マリア。
「アヴェ・マリア」(Ave Maria!)とは日本語では「めでたしマリア様」という意味。
聖母マリアに祈りを捧げる歌ではあるが、いわゆる宗教音楽ではないので注意。ウォルター・スコットの叙事詩「湖上の美人」をもとに、シューベルトが7曲の歌曲を作った。そのうちの第6曲であり、エレンという人物が出てくる歌の第3番であるため「エレンの歌第3番」とも呼ばれる。
ところで、僕がブログに曲の紹介を書くときは、特にそれが有名な曲の場合、「この曲には本来こういう意味があります、でも、そんなのはどうでも良いので、ただ単に聞けば良い曲だなあと思いますよ」といったスタンスを取るのだが、これは正直な僕の気持ちの反映である。
この曲にしても、しっかりと意味を理解して聴くもよし、そうでなくなんとなく耳を傾けるだけでもよし、そう、音楽はいつも懐が深く、誰にでも門を開いているのだ。
そういう前置きをしっかりと語っておいた上で、この曲の深奥に迫ってみよう。といっても、スコットの叙事詩はなかなか長いので、できるだけピンポイントで、かつ短文で!

エレン父娘は、国王の仇討から逃れるために、スコットランドはハイランドの洞窟に身を隠し、ハイランドの族長ロデリックに匿われていた。エレンはこの窮地に、聖母マリアに祈りを捧げる。その祈りの歌は、戦いのため遠く離れた山奥にいたロデリックにまでも届いた。
なんていうお話。歌詞はこちら
祈りのシチュエーションがわかると、この曲がもっともっと美しく響くだろう。日々の安寧や幸福を感謝する祈りではない。これは心から救いを求める者の祈りなのだ。
シューベルトのアヴェ・マリアは、何よりその旋律の美しさが魅力。聴く者は、旋律美と声の響きにうっとりするものだ。
もちろん、それで何も問題はない。ただ、できればエレンに感情移入して、己の悲しみを、誰かの悲しみを、逆境を、苦境を――今の世の中を見て僕は祈りたいことが山ほどあるが――祈って聴いてみても良いと思うのだ。
これは人を鼓舞するようなものではないし、あまり元気を与えるというベクトルのものではない。
静かな、そして敬虔な乙女の祈り。しかしその祈りは強く心に響く。

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| シューベルト | 17:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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シューベルト 交響曲第5番:シャイな美しさ

Great Recordings Of The Century - Schubert: Symphonies nos. 3, 5, & 6 / Beecham, Royal Philharmonic OrchestraGreat Recordings Of The Century - Schubert: Symphonies nos. 3, 5, & 6 / Beecham, Royal Philharmonic Orchestra
(1999/01/26)
Schubert、Beecham 他

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シューベルト 交響曲第5番 変ロ長調 D.485

シューベルトの交響曲と言うと、グレートと未完成が名高いが、それ以外の交響曲も非常に魅力的な作品である。
というのは、1番から6番までの、シューベルトが青年期に作曲した作品群は、それ以降のものより編成も小さく、演奏時間も短めで、非常に聴きやすいからだ。そして美しい。
何もグレートが長すぎると文句を言っているのではない。僕だってグレートは大好きである。しかし、こと凡庸な演奏では全く退屈に感じる曲だ。全てが全て飽きの来ない名演ばかりではないのは仕方のないことであり、そういう意味でも初期交響曲の聴きやすさは特筆すべきことであろう。
彼の初期交響曲が小編成で時間も短いのは、これらの作品が私的な演奏会のために作られたものだからという理由がある。
この第5番も、室内楽を中心としたシューベルト家の家庭音楽会から発展したと言われる、ハトヴィヒ家の演奏会のためのものだ。
「トランペットとドラムなしの交響曲」と呼ばれるように、クラリネット、トランペット、トロンボーン、ティンパニは含まれず、フルートも1本のみである。
1816年、シューベルト19歳の作品である。
シューベルトの尊敬するベートーヴェンの交響曲への意識はもちろんあるが、モーツァルトやハイドン、当時流行していたロッシーニや、ケルビーニ、師であるサリエリなどの影響も見られる。

旋律が抜群に美しい。何度聴いても飽きない。派手過ぎず、かといって地味過ぎず、確実に心地好い線を外れない。
そして、この音楽がどこまでもシャイなことが、僕をしてこの曲への愛を無限に湧かしむる。この愛は決して僕の心の外へ逃げることがないのだ。
僕がこの曲に初めて出会ったときは、交響曲そのものではなくて、ピアノによる演奏だった。グレン・グールドのドキュメンタリー作品『グレン・グールド 27歳の記憶』で、ウェーベルンから学んだという評論家と、グールドが対話するシーン。
ウェーベルン自身はシャイだった、彼の音楽もシャイだと言う評論家に対し、本当にシャイなのはこういうのだと、グールドはこの交響曲をピアノで弾いてみせる。
その音楽は確かにシャイだった。グールドは歌いながら、激しい身振りで弾いていたが、音楽はとことんシャイだった。評論家は苦笑するしかなかった。
短い序奏からすぐに第1楽章の第1主題に入る。この主題、胸の内にある思いが外に出ようとするのだけれど、決して出ることは無い思いのように感じる。第2主題もそうだ。
どちらも美しく、いかにもシューベルトらしいデリケートな調性感覚が生かされている。
1楽章の美を堪能して第2楽章を聴くと、驚くことにさらに美しい旋律が流れてくる。緩徐楽章は歌曲のごとく静かに歌う楽章だ。
第3楽章では明暗の対照に気が付く。それ故に飽きることはない。第4楽章は情緒豊かに、やや古典的な、またウィーン的な音楽。モーツァルトの影が見える。
シャイだからと言ってこじんまりしているかというと、そうでもない。しかし、華美や絢爛とはほど遠いのは確かだ。
胸の内にある思いはとどまらず湧き上がるのだろう。それは胸の内だからこそ、ここまで美しく響くのだ。

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| シューベルト | 17:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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シューベルト ピアノ三重奏曲第1番:悲観と楽観の深遠へ

ベートーヴェン:大公トリオ、シューベルト:第1番ベートーヴェン:大公トリオ、シューベルト:第1番
(2007/11/07)
フォイアマン(エマニュエル),ルービンシュタイン(アルトゥール) ハイフェッツ(ヤッシャ)

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シューベルト ピアノ三重奏曲第1番 変ロ長調 D.898

シューベルトの音楽はその本質的に内気なものが多いというのはよく知られている。
問題はその内面に向けられたシューベルト自身の目が、どういう意図やニュアンスを持っているのかという点である。
ピアノ三重奏曲は、弦楽五重奏曲や後期ピアノ・ソナタなど、後期の傑作群と同じ時期に作曲された。
この後期の作品群に特徴的なのは、とにかく濃厚・重厚・長大で、そして悲観的な内視があるということだ。
だがこのピアノ三重奏曲は、非常に明るく活き活きとしている。

1楽章、ヴァイオリンとチェロのユニゾンで始まる第一主題とチェロが優しく入って来る第二主題、始まったばかりからその明朗な美しさは花開き、ピアノは8分音符の刻みでそれらの旋律を支える。
2楽章は緩徐楽章。この美しさはシューベルトの音楽の中でも、特にお気に入りのものの1つだ。時々無意識に口ずさんでしまうこともあるほどの、慈愛と哀れさを感じる美しい楽章である。「人間の美しい感情が波のように上下する」とシューマンが絶賛したのはこの楽章のことだ。
3楽章はスケルツォで、ピアノのソロから始まる。快活さが一番現れたこの楽章は、可愛げがありどこか人懐こい主題と、トリオ部での弦楽器によって奏でられる息の長い旋律が魅力的だ。ピアノの高速スケールも上品に華やかさを添えている。
そして4楽章は、歓喜さえ感じるような、スケルツォにさらに生命力が加わったような、終楽章らしい終楽章と言える。リズムも跳ね、各楽器も最も動きが大きくなり、駆け抜けるような
小コーダを迎える。最後の最後まで、活力漲る音楽である。

この後期の重厚な作品が多い時期に、なぜこのような曲が生まれたのだろうか。理由は定かではないが、この音楽から何か読み取るのも面白いかもしれない。
特に、ピアノ・トリオというのは、もちろん伝統的にアンサンブルとしてバランスのとれた形式ではあるが、弦楽五重奏や単一の器楽に比べると、ややアンバランスな響きを持つものだ。
もしかするとシューベルトは、このピアノとヴァイオリン、チェロという組み合わせの中に、何か完全に「内的」ではない音楽性を感じ取ったのかもしれない。
やや特殊なアンサンブルという、それこそやや特殊なコミュニケーションの求められる音楽に、シューベルトの「内気な音楽」はどこまで通用するのだろうか。
僕は何も、編成だけでこの話をしているのではない。例えば交響曲第5番などは、編成も大きいし長調だが、あれは明らかに内向きな音楽だと思う。
この明朗さは、彼の楽観的な内視が現れているのか、それともより深い悲観的な内視の音楽なのか、はたまた「外を向く」シューベルトの存在を表すのか…まだまだ理解するのは不可能のようだ。

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| シューベルト | 19:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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シューベルト さすらい人幻想曲:ピアノを生かすアルペジオ

シューベルト : ピアノ・ソナタ第21番&さすらい人幻想曲シューベルト : ピアノ・ソナタ第21番&さすらい人幻想曲
(2000/10/25)
ルービンシュタイン(アルトゥール)

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シューベルト さすらい人幻想曲 D760

こんな曲は悪魔にでも弾かせればいい、とシューベルト自身が語ったという逸話は有名。
技術的にも表現的にも難易度の高い曲である。
歌曲「さすらい人」のテーマが使われているが、「さすらい人」についてはまた後にゆっくり語ることにして(これもまた語る要素があふれる心打つ名曲であるが)、今回はあくまでこの「幻想曲」について。
この曲が難曲とされている理由のひとつに、アルペジオの多用がある。
そしてそれはもちろん、この曲の美しさの理由の一つでもある。

ピアノという楽器はスラーの点において弦楽器にはかなわない。
サン=サーンスも皮肉っているように、音と音を切れ目無く繋げることは不可能だ。
まあ、それを可能であるように聴かせるのが名ピアニストのお仕事ではあるのだが…
そのようなピアノの短所である音の途切れという特徴を、長所として生かすのが、分散和音である。
素早く流暢なアルペジオ、ゆっくりと1音1音を際立たせるアルペジオ。
これこそピアノ音楽の魅力であろう。

1楽章の主旋律は「さすらい人」のリズムに加え、生き生きとした感じを出すような高速のアルペジオが用いられる。
2楽章では伴奏系に心が解けるような、3楽章のスケルツォはいかにも奇想的なアルペジオ。
4楽章のアルペジオは、さすらい人の行き着く先にあるようなどこか不安な気がする「喜び」を表すようだ。

アルペジオを中心にこの曲を見るというのはちょっと狭い考えだが、それだけこの曲のアルペジオ使いは巧妙で美しい。
ちなみに、この曲には妙な愛着がある。その理由は、題名がかっこいいからだ。小さい頃から名前に非常に惹かれていた。
そんな単純な縁というのもまあ良いのではないかと思っている。

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