Psychology

2007年7月12日 (木)

『心の社会』

『心の社会』-「あの」AI(人工知能)の父、マーヴィン・ミンスキーによって認知のメカニズムが語られた書。

もはやレジェンドになったダートマス会議(1956年)、ミンスキーのほか、ジョン・マッカーシークロード・シャノンノーム・チョムスキージェローム・ブルーナーら当時の人工知能/認知科学研究のフロントランナーが結集。まさにミンスキーは時代の子であったといえます。

ダートマス会議の後、ミンスキーはあのMIT人工知能研究所ではシーモア・パパートらと領域を拡大し続けた、巨人でもあります。

本書では、その成果の一つ、「心」の機序について、語られます。

ミンスキーは、心をモジュールの集積に見立てます。任意のふとした動作も、膨大な工数の行為からを流れるように自然にこなししまうのは、その作業に最適化されたモジュール(=エージェント)が適切に階層化されて機能されているためであると。結果として、心はごく自然に「それ」をこなすのです。ここまでなら、デカルト的要素還元の世界ですが...。

ミンスキー理論の白眉はここからで、エージェントは一定の法則性によって動くのではなく、あたかもヒトが構成する社会のように、相互作用が絶え間なく繰り返されている、と捉える点にあります。文字通り、エージェント間の交渉で相互作用は決定されるのです。

そして、その相互作用の中から仮設物としての「自己」がたち現れるのだと。

とりわけ興味深いのは、割り込み、でしょうか。一つのことを考えていても、それを中断して瞬時にスイッチを入れ替え、用を足したら、もとの考えごとに戻る、といったように。

割り込み理論で説明ができるのは、ある思考の流れの最中にも、それを観察しているエージェントの回路もあり、その相互作用が、こうしたことを可能にするのだと。「代名詞」の存在は「割り込み」に由来するとの仮説も提示され、興味の尽きないところです。

確かに、外国語を喋るときと、母語を話すときとでは、パーソナリティにも変容があるように感じることはしばしばあり、これがミンスキーの「割り込み」を体感する瞬間でもあります。心は、割れたところからも生起している...この他にもカテドラルのように構成されるミンスキーの心をめぐる言説には興趣が尽きません。

これがもう20年近く前の書であるとは!fMRIの実用などで、脳科学神経経済学にも大きな進展があると予想されていますが、ミンスキーがAI研究で切り込んだ知見は、認知科学の可能性をひらいていたのだと、改めて唸らせれる一冊でもあります。

T.D.

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2007年2月10日 (土)

『影響力の武器』

人はどうして不可解な誘導・勧誘に影響されてしまうのか?

チャルディーニ『影響力の武器』は、その格好のテキストです。何より面白いのは、チャルディーニが体を張って参与観察に及び、セールスマンやら募金活動やら宗教団体やらに入り込む過程の叙述だったりもしますが、要は、人間には、ある種のリアクション・パターンがあると。それは刷り込まれているものなので、理性を超えたりします。


例えば、以下のように・・・。

①返報性:
どんなモノであれ人はモノを受け取ると恩を感じる。「お返しをしなくては」と思う。そこで一部の団体等が「無料で贈呈いたします」等と言うのは実は結構効果がある、と。

②コミットメントと一貫性:
人のコミットメントまたは一貫性に付け込んで、その特性を利用する。

③付和雷同:
これは日本人にはお馴染みのパターンですね。

④権威:
オーソリティーがGOを出すと、理性に逆らってまでもしてしまう…怖い怖い。

⑤好意:
友情や仲間意識に付け込む訳ですね。

⑤希少性:
「あと残り一つです!」「他の希望者がおりまして・・・」・・・で、実際よりも価値が高く見える。

余りにえげつないのはどうかと思うのですが、読後、人間不信に陥りかねない感もありますね。ただ、人間社会は程度の差こそあれ、こうした要素で成り立っていたりもするので…。知っていて損はないどころか、有益です。

多少高いと思われるかと思いますが(社会心理学の教科書なので)、その価値は充分にあります!

T.D.

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2005年9月11日 (日)

なんとなく、ペシミスティック

社会が変化を迎えるときには、ペシミスティックな論調が幅を利かせるようです。いえ、何も最近の社会情勢に関する論評ではなくて、所謂オイル・ショックの時期の新聞記事を-ある必要があって-集めていたときに痛感したことです。高度経済成長期が終焉を迎え、まさに社会不安が世を覆っていた時代。もうこの世の終わりと言わんばかりの論説記事の多いこと!

その論説記事に見られる共通した現象は、具体的な論拠、データに乏しいか、もしくは、その論拠、データが偏頗的なものであることです。確かに、不安な時代だったのでしょう。しかし、具体的な論拠なしに何かを語るのは「ためにする議論」に過ぎない、と30年前の論説記事は私に時空を超えて教えてくれました。いえ、仕事の内容はそのこととは直接は無関係だったのですが。

さて、そのペシミストの言は見事に外れました。私は思います。ペシミストはリスクを取らない。何故って?予測が的中すれば「言った通りだ...世の中は悪くなるばかりだ...」と悲嘆に暮れます。外れたら「警鐘を鳴らした価値があった」と。オプティミストであればそうは行きません。楽観的な予測を立てるからには、その根拠を明示し、かつ、結果についてはリスクを取らざるを得ないからです。

でも、ペシミストはどこか矛盾しているのですね。何故なら、あれだけ物事を悲観的に考えられるのに、自分の判断にはどうしたことか自信満々だからです。まるで疑っていない。本当にペシミストならば、自らの判断にもどこか懐疑的な精神を持っている筈ではないでしょうか?

ですから、論拠希薄なペシミストは疑ってかかった方が良いと思っています。具体的な論拠が明示されていれば、それを元に自らの考察を深めることも可能ですし、立場が異なったとしても、議論を深めることが可能だからです。懐疑的であることは否定的であることと同義ではありません。なんとなく、ペシミスティックであるよりは、健全に懐疑的であることを、私は選びたいと思っています。

T.D.

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2005年8月18日 (木)

ウグイしか棲まない湖

宇曽利山湖、という湖が青森は恐山にあります。強酸性の湖で、かなり強烈な硫黄臭が漂っています。

この湖、魚類はウグイしか生息していません。強酸性の湖としては希少例として世界的に注目される湖とのことです。カルデラ湖ゆえ携帯も繋がらず、その限りにおいて外界とのコンタクトはできませんし、冬季は道路も閉鎖されるため、そもそも近づくこともできません。湖面はコバルトブルー、透明度も高く、とても美しい印象を持ちますが、生物の棲む環境としては、苛酷です。ウグイは鰓が特殊な進化を遂げているらしい。

周囲には樹木はなく、噴気孔が多い。一種異様な光景です。しかし、自然の持つ苛酷さを体感するには最適の場所の一つと言えます。まだご覧になったことのない方、まだ道路閉鎖まで今年も時間がありますので、お薦めのスポットです。秋の宇曽利山湖はまた格別だと思います。

この湖を訪ねて、思い出したのは屋久島です。屋久島で登山中、ちょっとした水溜りにヤマメが泳いでいました。「昔はヤマメなどいませんでした。ヤマメを放して餌を与えた観光客がいたのでしょうね。ヤマメが棲めるほど、屋久島の水は汚れてしまった、ということです」とガイドさんは説明してくれたものです。

自然は、時に、かなり峻厳です。あまり興味本位で覘いてはいけなかったかな、と思うこともしばしばで、もちろん、都市から自然を求めて自然の豊かな地へと赴いているのに自己矛盾ですが、ダイバーとしての私は、ダイビングの本数を重ねれば重ねるほど、海に対する畏敬の念を深めていることを、実感します。

自然とどう向き合うか、ということは人類普遍のテーマなのでしょう。満開の桜の下には・・・という文章がありました。確かに狂い咲きしている夜桜は風雅といえば風雅ですが、一種の恐怖感も覚えます。それは、都市部にあっても自然の何ものかに向き合えるいい機会だと、思っています。

まとまりのない文章になってしまいました。種は、その環境に応じて進化を遂げます。慶良間で見た海の美しさを、私は忘れることはないでしょう。共生していくことは、時に難しくても、多様なものと「共にあること」が要請されているのは、単に外交問題、国内問題に限らないと、私は思います。それが困難なことであっても、言わば「一蓮托生」、皆が同じ土俵に上れるし、そういう価値観も存在し得ることだと、私は思っています。

T.D.

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