歌舞伎

2005年8月 6日 (土)

明治と武士・町人の終焉

まだ歌舞伎における時制の話が終わっていないのですが(苦笑)、駆け足で、大きく「世話」と「時代」に分かれていた歌舞伎のドラマツルギー(らしきもの)は明治に入ってどうなったかのご説明を簡単にさせて頂きたいと思います。

歌舞伎が-例えば「時代世話」などという時制を使って-言わば「時代錯誤」を演じることにより、江戸の町人たちは、自分たちとは異質な世界に生きている武士階級を素材として、時にそれを揶揄したり、軽く言えばからかったりしていたことはお話しました。他方、官許と言う建前の下、自ずから表現上の制約は存在している。

ところが、明治になりますと、状況は一変。そう、「武士」なるものが消滅してしまうという事態を迎えます。他方、歌舞伎の主たる観客であった「町人」も、身分制度の上では消滅します。(もっとも、江戸時代でも歌舞伎を鑑賞して溜飲を下げていた江戸町人なるものも、当時の一般の人々からすればごくごく一部の人々であったことにも注意する必要はあります。)いわゆる四民平等という階層制度の撤廃により、等しく「市民」ということになる。(もちろん、階級制度は残りますが、江戸時代の階層制度がそのままスライドしたものではないことに注意が必要です。)

とは言うものの、何かの「御触れ」で突然歌舞伎における表現が変化したと言うことではなくて、事実上、江戸時代に存在していたような制約はなくなっても、こうした物事は「慣習の変化」によって決定される部分が大きい。その「慣習の変化」には保守的になるのが、世の習いです。

ただ、実は江戸時代の歌舞伎はそれ程には保守的ではなかった。制約に沿って、次から次へと新たな表現を開拓して行ったのが、江戸の歌舞伎の在り方です。それが、恐らくは明治以降、「格式」を重んじるばかりに「伝統芸能」として高い地位に-江戸時代の歌舞伎関係者が想像もしていなかったような地位に-祭り上げられたというのが実情ではないかと思います。

しかしながら、「格式」ある「伝統芸能」もそれはそれで風雅なものだと私は思っています。端的に言えば、時代によって楽しみ方が変わったと言うことでしょう。それは、恐らくは明治以降の構造変革によってもたらされたものなのでしょうが、現代に生きる私にとっては、それはまた一興です。それに、「伝統芸能」だと肩肘張って観るものでもないと私は思っています。舞台が醸し出す一瞬の響きを観るために観劇するのですから。

T.D.

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2005年7月24日 (日)

江戸の時間感覚

先の記事で「時代物」=(中)過去、「世話物」=現在と分類しましたが、江戸時代のこと、その時制分類が的確に当て嵌まるわけではありません。大きくは外れない、ということであくまで便宜的に、このように分類させて頂きました。詳細は後にお話しする・・・と思います。

さて、そもそも江戸時代(と言っても長いので、概して、ということになりますが)の町人の時間感覚は如何なるものであったか。杉浦日向子さんの数々の著作によれば、結婚しても定職には就かず、必要に応じて稼ぎを得る生活をしていた人が結構いた様子。具体的には所謂「人別帳」を調べれば分かります。

現在で言うフリーターとも言える「時の物商売」で必要な稼ぎを得ていた人の比率はかなり高い。この分野、きちんと調べれば相当に面白い結果が出そうですが、惜しむらくは一般向けの書籍の少なさ。私の仮説では、近代に入ってからの労働観-克己奮励型とでも言いましょうか-にそぐわないと、後の人々が判断したからではないかと考えています。

では、武士階級は?当時の勤務時間は10時~14時(途中昼休み1時間)で実質3時間労働。あたかも現在のオランダモデルにおけるワークシェアリングを見るようです。もっとも、当時、オランダから海軍技術を教えるために来日したカッテンディーケは、日本の職人は納期を守らないだとか書き残しているようで・・・。

T.D.

追記:杉浦日向子さんが今月22日にお亡くなりになったことを知りました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。(7/25)

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2005年7月23日 (土)

時代世話という名の時制

さて、江戸の町人が歌舞伎に仮託して鎌倉時代の話をアレンジして溜飲を下げていたという話までしました。この話にはまだまだ続きがあります。江戸の町人とて、昔話(「時代物」といいます)だけに興じていたわけではないからです。

歌舞伎は、通常、二幕(一番目・二番目)の構成です。これは異なる時制を持った演目が展開されていたことを意味します。即ち、「時代物」と「世話物」です。「時代物」が中過去形なら、「世話物」は現在形です。但し、「世話物」は様々な表現的制約を受けることになります。近松の『曽根崎心中』などがその典型ですが・・・この詳細は後に譲ります。

さて、話がややこしくなるのはここから。「時代世話物」というジャンルです。鎌倉が、江戸町人にとっては意外と近しい存在で、それを借景して溜飲を下げていたということはお話したものの、まぁ「遠い時代」であることは確かです。そして、同時に、武士階級も、同時代でありながら、「遠い存在」であった。

ふーん、では、ちょいとからかってやりますか。そのような背景から「時代世話物」は生まれます。現代(その当時)ではあり得ない組み合わせが、「時代世話物」では、あっさりと実現されてしまいます。江戸時代の町人、「遠い時代」、そして「遠い存在」の混淆・・・まぁそんなこんなで近松の太平記物を基にした『仮名手本忠臣蔵』が堂々上演、かなり危ない橋を平気で渡る興行、観客、それに目を瞑った振りをする幕府、こういうものが、私は大好きです。一言で言えば、粋ですね。

他の時制については気が向くに任せて書かせて頂きます・・・。

T.D.

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2005年7月20日 (水)

江戸と鎌倉、そして上方

いつぞやの(?)歌舞伎談義の続きです。前回は江戸における歌舞伎興行が如何にして成立したかについて軽く触れたかと思います。当然のことながら、江戸は新興都市です。関東において、初めて都市機能を持った幕府というものが成立したのは言うまでもなく、鎌倉です。

その後、歴史の表舞台からは関東は姿を消します。もちろん、鎌倉幕府と江戸幕府ではかなりの時間差が存在しますが、実は、江戸の庶民感情からすると「近しい」ものがあった様子です。それは、定番である「曽我兄弟」物に表れます。

この話、舞台設定は鎌倉なのですが、実際のところ、江戸の地名、風俗その他をそのまま鎌倉に投影しているところが大きい。では、この仇討劇に仮託して、何らかの反体制思想が江戸町人の間に伝播していたかというと、そういうものでもないようです。この辺の機微は非常に難しいのですが、江戸町人のポリティカルな態度というのはかなり洗練度が高い。反体制思想とまではいかないものの、まぁ幕藩体制の鬱積のようなものを芸能に託して娯楽として、鑑賞し、楽しんでいた、と。鬱憤はあるのですが、それを抽象化して憂さ晴らしをする・・・これが「江戸の粋」です。

「粋」と「野暮」に関しては諸説ありますが、ごく簡単に言えば、「露骨さ」を嫌うのが「粋」、その対極にあるのが「野暮」、というのも一つの見方だと思っています。町人の大衆芸能における洗練が存在していたことは特筆されていいことだと思います。もちろん、「曽我兄弟」の話が鎌倉を舞台にしているというのは、江戸を舞台にしては余りに生々しい、そもそもお上が官許しない。その意味で、近代的文脈での「表現の自由」は江戸には存在しませんが、その制約の範囲内で、洗練と言うものが生まれてきた。これを「文化」と呼ぶ。そういうことです。

さて、ではいわゆる上方(京・大坂)ではどうだったか。これはもう歴史が違うわけです。鎌倉を引き合いに出さなくても、表現の素材には事欠かない。新開地の江戸に対して、表現もより精巧で、何より観客の目が肥えていることも重要な要素です。上方と言えば、近松門左衛門、坂田藤十郎ですが、時代だなぁと思わされるのは、近松が「傾城(=遊女)」物を上演するときは「出開帳」がセットとなっていました。「仏教・遊女・演劇」の組み合わせが当時の「常識」からすれば、さほど違和感のあるものではなかったことを意味します。

「遊女・演劇」は当時の、官許の娯楽として存在していたわけですが、「宗教」も現世利益の度合いを高めた、言わば「娯楽」化した存在として立ち現れたのが近世だったのだなぁと、感慨深く考えたりしてしまいます。

T.D.

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2005年6月24日 (金)

「定式」と「常識」

歌舞伎は四条河原でのストリートライヴに端を発しています。それが舞台に文字通り登場するのは先行する舞台芸術であった能楽の「舞台」にその表現の場を移すことによるものであって、歌舞伎の「定式」なるものが形成されていきます。

さて、「定式」は「常識」ではない。どういうことか、ご説明します。「定式」といえば「定式幕」です。現在、歌舞伎の「幕」は上手から「茶汲み(茶[=柿色]・黒・緑)」の色彩配列がなされています。これが「常識」ってもんよ・・・おっとちょいとお待ち!ここで既に「定式」と「常識」の混同が始まっています。

基本的には、歌舞伎は官許で、徳川幕府による許認可のもと三つの小屋で上演されていました。それ以外の芝居小屋は存在はしていましたが、幕府にオーソライズされたものではありません。

そして、いわゆる江戸三座と「見世物小屋」の様式の違いは「幕」に表れます。官許の歌舞伎は現代と同じく引き幕、それ以外は緞帳です。江戸時代の歌舞伎役者は決して人間国宝扱いされるような身ではなかったのですが-風紀上の理由で「官許」が必要とされていたくらいですので-「見世物小屋」に出演する役者は更にワンランク下の存在と認識されていました。

歌舞伎が「国民芸術」の地位を勝ち得るのは明治時代のこと。「定式幕」もその時点における森田座(後の新富座)の「幕」の「定式」であって、他の小屋では配列は異なります。で、これが現在の「常識」として認識されるに至る・・・と書くと混乱を招きそうですね(苦笑)。

では、核心に近づいていきましょう。「定式」のエッセンスは「一定の融通性が担保された様式」ということです。つまり「ごく簡単な決まりごと」です。融通が利かない硬直したものは表現を生みにくい。ゆえに「定式」という決まりごとの範囲でいかに融通を利かせるか・・・ここに歌舞伎の表現者たちは腐心していたというわけです。

これは「常識」(一般通念ということにしておきます)として「教養」を押さえておかなくてはならない・・・即ち「知識として芸術を理解する」態度であって、「芸術を体感する」こととは大きく異なります。

「定式」はごくシンプルにして融通を利かせる。その一方で頑なに「定式」を守る。こんな二律背反なせめぎ合いの中で熟成されていったものが現存する歌舞伎に他なりません。自由のないところに表現は生まれない。他方、制約のあるところで表現が紡ぎ出される。

恐らく、ほとんどの表現はこうして生まれているのですが、まずは歌舞伎を-「教養」としてではなく-生きた表現として体感するところから「歌舞伎体験」は始まると思います。

T.D.

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