Googleすらなかったとき
新書ブームは、租税濫造な駄本・悪本のマーケットを開拓した意義はあったのだろうか。それはともかく、かなり前に話題をさらった森昭雄・日大教授の『ゲーム脳の恐怖』は「笑って読む本」だと思っていたら、本気にする教育関係者なり、「ヴァーチャルは悪」を断ずる首相の存在で「定説」化しているらしいではないですか。
何故、あの本がトンデモかは多くの人が検証しているのですが、要は、科学的手続きを踏んで集められたデータではないし、まして、その上に結論ありきの(一般受けしそうな)「お望みの結論」ありで、これぞ「と学会」的迷著といえましょう。ゲームの種類にもよるでしょうが、ゲームの利用が脳を活性化させることだってありそうですが…。かつては小説(活字)が、クラシック(音楽)が、ロックが、紙芝居が、新聞が、漫画が、TVが、アニメが、そのようにいわれていました。一億総白痴化@大宅壮一とか。今、ネットもいわれていますし、モバイルもそうかな。
ただ、ネットばりでもゲームばかりでも、活字ばかりでも、そりゃバランスは悪くなるだろうな、とは思う。Google出現後、情報収集のあり方は変わった。昔は、わからない概念を理解するために図書館で調べものして、悶絶したものですけど、今が便利だってことは疑いもしない。
でも、新しいメディアを拒絶するのは、それを受容できない「古い脳」によってなされることは歴史が教えるところ。森昭雄教授は「脳トレ」ブームは批判したんでしたっけ?
『古事記』を語り下ろした稗田阿礼は、全部、その内容を口伝できたからこそ、語り部だったのであって、稗田翁は、これを文字化するなんて、「文字脳」の堕落ここに極まれり、ぷんぷん!とか思っていたんだろうか。
手塚治虫は、孤軍奮闘していた。新しい表現を実現する人は、いつだって異端者だ。
でも、異端者を排除する社会は、豊穣さとは、無縁だとも思うんだ。
T.D.
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