Literature

2006年8月24日 (木)

ナウカ書店、破産…

神保町の名物書店がまた一つ、姿を消すことになったのは残念です。特に日本で唯一のロシア語・ロシア関連専門書店となればなおのこと、です。「ナウカ書店」のナウカとはロシア語で「科学」の意。2006082200000016maipsocithum000

もともとは戦前、東京日日新聞のウラジオストク特派員だった店主がスタートさせ、当時のことですので、ソヴィエト社会主義に関する書籍を扱った咎で治安維持法違反に問われ閉鎖に追い込まれたこともあるという、ある意味由緒正しい書店でもあります。破産の背景は…ソ連崩壊がボディ・ブローのように効いてきたんでしょうか。BRICsとしてロシアが脚光を浴びる今となっては皮肉な感もありますが…。今月一杯まで店は開けているそうですので、宜しければ是非。その後もネット販売は10月までするそうです。

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2006年8月14日 (月)

『ブリキの太鼓』

この作品の訴えてくるもの。「壊れ物注意!」。そう思った。オスカルが、「ぼく」が打つブリキの太鼓にそれは象徴される。オスカルは「神の視点」から物事を鳥瞰しない、あくまでオスカルが見たものが、その時代が、映し出される。独特な芳香を放ちながら、その底流に潜む底の深さが、何かを語っていた。

作者のギュンター・グラスナチス親衛隊員であったことを告白しましたが、その是非論の前に、読まれるべき作品と思います。ファシズムは忌むべきものですが、翻弄される人間は哀しい存在だと思うのです。

T.D.

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2006年2月14日 (火)

そうだ、奈良へ、行こう。

和辻哲郎『古寺巡礼』、これは、新しい本です。何が新しいといって、倫理学徒であって近代人の和辻が奈良の古寺仏を現在進行形で記述する、その方法が、です。

奈良は、単なる「古都」という名の歴史的文物としてだけ存在するのではなく、事実、何度も焼乱を経て再興されていて、和辻は、そうした奈良を「発見」していきます。

発見者は、どこか美しい。 『風土』でモンスーンと日本的心性を、『鎖国』では鎖国にスポットを、商人としての日本人を発見したのも和辻でした。私も、常に発見者でありたいと、思わされる一冊です。

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2006年1月25日 (水)

『国家の罠』再考

以前のエントリーで採り上げた『国家の罠』(佐藤優著・新潮社)について、ライブドアに対する捜査に関する議論が喧しい現在、改めて考えてみました。

確かにこれは「よくできた」書物ではあると思います。読み物として磁力があります。切り口も鮮やかですし、書物としての『国家の罠』に対する評価は変わりません。ただ、これをもって「国策捜査」を論じると、ややおかしなことになるだろうとは思う訳でして、この点は、今回のライブドア捜査を見るにつけ痛感しました。

そもそも、佐藤優氏は、一方当事者(刑事被告人)でして、これに対して他方当事者である現職検事が異を唱えることは、その立場上も起こり得ない話です。ですから、これは「一方当事者からの告発」ではあり得ても、当然ながら、客観性は担保されたものではない訳です。検事調書作成の過程では、膨大なやり取りが担当検事との間であった筈であり、如何に佐藤氏が(自ら語るように)ある種の記憶術の訓練を経た人であっても、抽出される事柄は捜査の全容そのものではあり得ず、「本件は『国策捜査』である」という大前提から導き出される事物に限定されることになります。

また、佐藤氏の立ち位置を考えれば、他方当事者(担当検事を含めて検察庁)が異を唱えることはしないであろうことは織り込み済みで(告発本としては面白い書物であってもフェアではないと言うこと。真実性の観点からも疑義は残ります。どこまでが事実なのか?)「私は(また、鈴木宗男氏は)『国策捜査』の犠牲になったのだ」との印象を読者に植え付けることには一定程度、成功しているようにも思えます。非常に聡明な佐藤氏のこと、読者層のリテラシーも計算に入れていたかもしれません。ただ、そのことと、本件が「国策捜査」なるものであったかは別の問題です。

佐藤優氏の筆力は端倪すべからざるものがありまして、この書物が従来の「検察告発本」とは異なった趣を持っているのはそのためですが、読者としては、事象を俯瞰で眺めて、何が問題とされるべきかを考える切欠としたいと思っています。

T.D.

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2005年12月17日 (土)

ブログブームの終焉?

相変わらず紀貫之のことを考えています。土佐から帰任する(あるいは、した)紀貫之にどういう心境の変化があったのかは分かりませんが、ともあれ、諧謔の精神を持った、また、隠者めいた枯れた味を醸し出す作品は、世に出ました。55日間の「日記」は僅か数行の日もありますので、大部のものでは全くないのですが、作品として屹立しています。

さて、話は変ってここ数年に亘るブログの隆盛を見るに、これはもうそろそろ下火になるのではと、期待半分で思っています。ニフティが非会員向けにも「ココログフリー」を提供したりとISPサイドは何だか必死なのですが(それにしては会員向けには「フリー」よりも機能面で劣るサーヴィスを場合によっては有料で提供していて、キャッチアップさせるまでに来年3月まで要すると言うのは…「フリー」を極力早くリリースしたかったニフティの思惑があるのだろうと好意的にここでは解釈しています)、全体としてブログで収集できる情報が薄くなっているような気がしてなりません。

ネットのサーヴィスにはおよそ「賞味期限」が存在しています。あの「2ちゃんねる」もまだアンダーグラウンドな存在であった時には(そのモラリティに関する是非は別論)濃度ある情報があったように。これはもう郷愁かも知れませんが、パソコン通信の全盛時、もっと密度の濃い紐帯感が存在していたように思います。そのパソコン通信もニフティのフォーラム閉鎖によって、ネット寿命を終えようとしています。第1次ホームページブームも、知らない内に終息していたようなことが静かにブログでも進行しているのかなと。アタリショックではありませんが、意外と早くブログブームも終息するやも知れないと、何とはなしに思います。Web2.0というのは、詰まるところ、ネットの大衆化のより促進された状態なのでしょうが、ある種のサーヴィスの「賞味期限」が短期化されて、かつ、新規参入者の激増で、1995年あたりから喧伝されていた「情報革命」とやらは、単にネット界隈に人通りが増えただけだったのかと思う次第です。

T.D.

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紀貫之から現代に至る…

前回のエントリーで紀貫之について言及したので、補足をしますと…。あの当時から貴族の間では「具注暦」と言う漢文日記をつける習慣はありました。『土佐日記』の日記文学の嚆矢たる所以は、擬態(この場合、女性を装おうこと)とか手法(仮名文字での描写etc.)にあります。で、紀貫之が土佐守の任期を終えて京に向かう55日間を記したものが『土佐日記』となる訳でして、ここで言わば紀貫之は遊び心を発揮してみたのだと私は考えています。固定ハンドルでブログを書いている人の心理と通底するものを何か感じます。人間、そんなに変化するものではないのでしょう。

人間の心理・情動は多面的ですから、日記(『土佐日記』であれ、現代のブログであれ)に表現されたものは、その個人の一面を示すものでしかありません。私は特にユンギアンではないのですが、言わば一つのペルソナが顕現していると言う状態。文面等から人柄が滲み出ると言うことは有り得ますが、人間、誰しも闇を抱えています。ゆえに、謹厳実直を画に描いたような文章の筆者が何かとんでもなく背徳的な嗜好の持ち主だとして、何の不思議もない。その人の書く文章と本人の実像との乖離、は文学的にはしばしば語られるテーマですが、結局のところ、ブログで表現されているものも、その人の実存の一部でしかないという当たり前のことを長々と書いてしまいました。

T.D.

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2005年12月16日 (金)

つれづれなるままに…

紀貫之ではないですが、これが日本人の「日記」なんだろうなと思います。「Blog」と「ブログ」の最大の相違はそこにあるのでしょう。何かを検証したり論じたいからそのツールとしてネットを利用するというよりは、書きたいから書く、これです。それ自体が一種のカタルシスでもありますし、その内にテイストを解する「常連さん」が登場して、継続するうちにブログの方向性らしきものが見えてくる。そしてブログとして「立って」くる、そういうパターンは多く見られるように思います。これは、どちらが良い悪いという話ではなくて、私は、そこに「日本的なるネット環境」を見る思いがするのです。

決して大所高所の議論ではなく、もっと身近な趣味の世界で同好の士と語らったり、時には世情を語ってみたり…これは現代版『浮世床』だなと思います。ブログの社会的影響を真剣に検討する向きもありますが、『浮世床』での談義が江戸の庶民の言わば社交であり、同時に不平不満のガス抜きであったりすることと軌を一にするように思われます。だからどうしたという話ではないのですが、大昔(笑)、私がダイヤルアップ回線でパソコン通信を利用していた時代と比して、何が大きく変ったのか、一ユーザーである私にはピンと来ないのです。技術革新がネットに対する参入障壁を下げたことは事実としても、人間それ自体が大きく変化する訳ではないと言うことではないかと思います。ブログ界隈で起こっているある種のトラブルも、往年のパソコン通信でいつか見聞きしたような事例に適合できるものが殆どだったりします。敢えて言えば、自由度が高まっている分、無防備にweb上に何らかの痕跡を残してしまう人が相対的に増加しているのか、その辺ははっきりしたことは言えないのですが。

さて、私は旧ドメイン時代も含めてブログをつけ始めて1年余が経過しました。大半のブログユーザーは1ヶ月以内に更新を止めてしまうそうですから、これまで、長続きした方なのでしょう。まぁ尋常に考えて、特に語るべきネタがない限り、定期的に何かを書き続けるというのは、結構なエネルギーを必要とする作業です。つれづれなるままに日々の出来事を綴っていく…としてもそんな激動な日々を送っている人は少なく、激動な日々の渦中にある人はブログどころの騒ぎではないでしょうから、結果として、既に存在する引用元(時事ネタ)に対する雑感を述べるブログが多数を占めるのは当然の成り行きと言えます。

継続は力なりと言いますが、裏を返せば力が(どういう力かはおいて)あるから継続できると言えます。で、私はそろそろ力が及ばなくなってきたかなと思っていまして、そろそろ「撤収の季節」かなぁと思ったりしております。旧ブログは今は廃墟も存在しないので、「終わり方」は綺麗にした方が良いかな、とかココログフリーに素知らぬ顔して移転していたりとかするかもしれませんし、何だかんだ言ってここのドメインで不定期更新を続けているかもしれません。思えば、ネット上で様々な出会いがありました。今も元気に形を変えてweb上で表現されている方もいれば、ライフイヴェントを機にネットからは撤収される方もいらっしゃいます。人間が割けるリソースは有限ですから、諸般の事情でネットからは遠ざかる人がいるのも仕方のないことかと思います。それはそれで風雅なのですが、人生事情を垣間見る思いもします、と更新が怠っていることの言い訳を長々とさせて頂きました(苦笑)。

T.D.

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2005年9月 3日 (土)

歴史の語り部-網野善彦

語り部、というと適切ではないのかもしれません。ですが、私にとっては秀逸な「歴史の語り部」です、網野善彦さん4480089292


網野本はいろいろ読まれている本がありますので、「何を読んでもお薦めです」が私のリコメンド。では、「誰でも読める、網野ビギナーお薦めの一冊は?」となると『日本の歴史をよみなおす』(筑摩書房)。正・続ありますので二冊ですが、ちくま学芸文庫なら一冊です!どこがお薦めかって?…まぁご一読を、と言いたいところですが、それではセールストークになりませんので、かいつまんで「私の読み」を。

網野さんですから中世です。南北朝時代から。私の興味を惹いて止まないのは「字」の話。その時代、日本に「惣村」と言うものが出現。それを統括するのは、庄屋とか名主とか。そうです、日本史の教科書に出ている「あれ」です。面白いのはここから。この人たち、いわゆる識字率、かなり高かった、と言うことは分かっています。さて、ヒラガナかカタカナか、その使い方によってかなり階層差、と言いますか位相の差が分かれる。

ほら、既に面白いじゃないですか。更に、その中で職能やら貨幣やら天皇制(!)やらの問題が複層的に絡んで来るんです。ここは、網野さんの独壇場の世界。貨幣について、現在の感覚とは違う。いや、それはそうなんですが、どう違うかは読んでのお楽しみということにしておきます。ヒントとしては貨幣のあり方が変わったことで、別種の職能領域が拓けていったということ。

中世における「市場」、これはかなり様々な問題を内包してます。言わば日本式貨幣経済が立ち上がったということ。この辺りのスリリングさは読んで頂いて、是非体感して頂ければと、思います。キーワードは「無縁」です。

では、天皇制と職能民との関連性は?これは是非、お読み下さい。網野さんの中世に関する書籍なら何でも良いです。しかし、あくまで「入門編」なら、本書を。中学生でも充分読めますから。一家に一冊、いや、何冊でもどうぞ!

T.D.

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2005年8月30日 (火)

マキアヴェッリ『君主論』

もの凄い書物なので簡単に纏められる訳がない、のですが、最近、つとに気になって、移動の最中などに読み返していながら、思いついたことなど。

この人、結構な「劇作家」だなぁと思う。この書物自体が君主制国家をめぐる戯曲の趣があります。巷間評価されているように、マキアヴェッリはリアリストであると思います。政治体制においては、気高さよりも現実と理想との乖離があること、そして現実は必ずしも気高くなどないことを明らかに切り取ってみせています。

この辺が「マキアヴェッリズム」と揶揄される根源となっていると思うのですが、人は、気高さと現実の乖離を明るみにされることを好まない。私とて「気高そうに見えるもの」の背後の打算などを鑑みると嫌な印象を持つかもしれません。偽善も嫌だが偽悪も嫌だ、と。

そうは言っても-私は真に至高なるものをどこかで信じていますが-現実はそうではない、と。では、どうするか、その解の一つがこの書の中にはあります。マキアヴェッリは言います。君主は、良くない人となり得ることも学ばなければならない。但し、その言行が不正と見做されるようなことがあってはならない。

それが、君主のVirtu(Virtus)=力である、とマキアヴェッリは言います。その一方で、Fortuna=運命の存在も重視します。適切な修辞が見つからないのですが、抗いようはなく運命はある。私は、そう思います。その中で、どう君主として君主たろうとして振舞うか、マキアヴェッリは力説しているように、私には思えます。

マキアヴェッリはリアリストでもあり理想主義者でもあった、と言うと陳腐になりますが、この陰影がマキアヴェッリをしてマキアヴェッリたらしてているものではないかと思います。この書は、実は、運命によって君主となった者-即ち世襲の地位にある者-にこそ読まれるべきではないかと、思っています。

T.D.

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2005年8月19日 (金)

上野千鶴子という文体

フェミニズムについて、とても一つのエントリーでは語れないので、大幅に端折った書き方になります。また私の側に多くの誤解があるかもしれません。が、強引に書いてみますと…。

女性を解放する(非常に雑駁な言い方です)とすると、それは男性も解放されることになるのではないか?…と書くと言葉遊びみたいですが、私は予てから素朴に思っていて、どうやら、それは当たりらしいと感じたのは『女は世界を救えるか』(上野千鶴子著・勁草書房)を読んだ時でした。

人類学という学問は、それはエスノセントリズムでしょ、と研究対象にされてしまった側が研究した側を告発する、という事態を惹起していまして、その変数の一つを性差、いわゆるジェンダーととして捉えるとフェミニズムに至る、と私は大雑把に認識しています。何故ジェンダーが問題なのかという点が私にはしっくり来ないところもあったのですが、私に馴染みのマーケティングの世界ではそれはアラインメント、要は属性だな、と思うと分かるような気がしました。

…と書くと極めて分かり難いなぁと読み返して思った訳ですが、それが上記の上野さんの著書では極めて明解な論理展開で述べられています。上野さんの文章が何故読み易いかといえば、それは読んで頂いた方が早いのですが、私の備忘録も兼ねて書きますと、論理の展開と文章の叙述の間のギャップが感じられないという点ではないかと思います。

過度に学問的に難解に見える記述でもなく、過度に事象を単純化して分析してもいない。論理の構築としては無理がない絶妙のバランスです。論理を緻密に構造化しているのに読み易いのは、その論旨の全体構造が明確で、論理展開の中でも現に読まれている論理展開の位置が明解であるからです。文体模写しようかと考えたこともありますが、止めておきました。

文体を生み出すものは個人の資質に負うところが大きい、と言うと身も蓋もないのですが、一つ参考になることは、自らの関心領域を言語化する際には、当たり前のようですが語られる対象についての言葉を持たなくてはならないし、その関心が言葉に力を与えるのだ、ということだと思います。ゆえに、文体模写してみるかどうかはおいても、上野千鶴子さんの文体は探求に値します。

T.D.

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