不破哲三の死

 不破哲三が亡くなった。

 ぼくの家の本棚は不破の著作が一角を占めている。

 不破はぼくがコミュニストの人生を送る上で多大な影響を与えた人物である。マルクスよりもはるかに大きいといってもいい。

 斎藤美奈子さんとの対談でも述べたが、先ごろ上梓した拙著『正典で殴る読書術 「日本共産党独習指定文献」再読のすすめ』も、不破哲三を補助線に使いながら、現在の党幹部の古典読解や組織指導のゆがみを批判をしたものである。

福岡市の海(25年12月紙屋撮影)

 不破にはたくさんのことを教わったが、中でもソ連崩壊時に、マスコミの質問——「あなたにとって共産主義とは」に対し、「恋人」「青春」とか答えるのかと思いきや「世界観です」と答えたことは、実に本質的な答えだと思った。その妙味に唸らされた。

 どういうことか。

 不破は1993年に共産党の所有する伊豆学習会館で科学的社会主義(マルクス主義)についての講義を行ったことがあり、ぼくはその講義を直接聞くことはできなかったが、そのテープを聞く機会があった。この講義はのちに本にならなかったのだが、ずいぶん熱心に聞いた記憶がある。

 その中で、科学的社会主義を学ぶ・研究する・探究するとはどういうことなのか、と自ら問い、それは世界観を科学的に統一したものに仕上げる、ということだと答えた。*1マルクスやレーニンの言った命題を必死で覚えることではないのである。当たり前だが。

 つまり社会のいくつかの分野を、まだらに、つまみ食いのようにして「なんとなくマルクス主義っぽく、左翼っぽく解釈して行動する」という、「ファッションとしての左翼」、「さまざまな意匠としてのマルクス主義」とは縁もゆかりもない態度なのだ。

 マルクスにはすでに一定の体系性がある。その体系性を出発点にしながらも、マルクスがカバーしていなかった領域や、マルクス以後に新しく生まれた現実や、あるいはマルクス自身が間違っていた問題が次々生起する。そうしたときに、不破はあくまでもそれを統一的・整合的に体系を仕立て上げ直そうとした。

 世界観を科学的に統一したものに仕上げるとは、社会のいかなる分野においても、そして社会だけでなく自然においても、合理的で整合的な科学的な見方の体系を築こうとする態度である。

 ある分野では進歩的・科学的であっても、別の分野では全く非科学的で前近代な態度を取ったりするする非体系的な、バラバラでチグハグな、思想的雑炊のような世界観に反対し、できるだけ統一して一貫したもの、しかも合理的なものに仕上げようとするその態度こそが、共産主義=マルクス主義なのだと述べたのである。

東京江東区(25年12月紙屋撮影)。同区は中選挙区制時代の不破の選挙区。

 だから、不破が関わってきた理論分野での探究や、彼の探究を土台にした日本共産党の路線は、「左翼っぽい命題」を次々に「裏切った」。爽快に。

・左翼だから道徳教育に反対する

・左翼だから愛国心に反対する

・左翼だから非武装中立にする

・左翼だからソ連・中国・北朝鮮を擁護する

・左翼だから開発に反対する

・左翼だから議会主義に反対する

・左翼だから革命的暴力を支持する

・左翼だから教師は労働者であるとだけ考える

・左翼だから差別的な言葉の規制に賛成する

 目の前で展開される「左翼っぽい言葉」や「左翼っぽい振る舞い」を、そのまま無批判に党の中や党の理論の中に取り込んでいかずに、それをマルクス主義の体系として吟味を加え、鋳直そうと努力したのである。

 

 だから、ぼくもそうした思考のクセがつくようになった。

 「赤旗」で残業やハラスメントのことをキャンペーンしているが、自分たちはどうだろうか、とか、街頭での「反差別」を掲げた闘争が共感を得ない形で暴走していったときに、それは「左翼的」と言えるのだろうか、とか、「前衛」(共産党の理論誌)でフェミニズムの理論をさまざま紹介しているが、それはマルクス主義と整合的なのだろうか、とか、共産党の国会質問をする際にさまざまな学者の力を借りているようだがそれを無批判に共産党の理論のベースにしていいんだろうか、とか。

 

 今の幹部である市田忠義も共産党の組織論は科学の分野の一つだと彼の著作の中で述べていて、それは全くその通りだと思うのだが、それならば、提起した目標が期間内に達成できないというあれほど明白な失敗をずっと繰り返していることを、どうして科学的に総括できなのだろうか、と思う。

 

 共産主義とは世界観であり、世界観を科学的な体系に仕上げることを絶えず努力することがその探究であるとすれば、今日本共産党自身がさまざまな分野で遭遇している「非科学的」対応の連続をどう説明したらいいのだろうか。

 また、フェミニズムをはじめとするさまざまな「左翼的(急進的)理論」に対する自分自身の理論的原則からの区別と、それを踏まえた上での共同という問題は、曖昧にされるべきではないと感じる。そのことは『正典で殴る読書術』の『共産党宣言』の項目でも書いたことである。

 

 ぼくにとってもコミュニズムは、「自分を急進的に見せるファッションの一つ」ではなく、「世界観」なのである。

 そういう態度があるから、考えの違ういろんな本を読んだり、自分の考えをひっくり返す現実に出会ったりすることは、自分の思想を一旦否定されることではあるが、豊かに組み替えることにつながるので、楽しみになるのである。

 

補足1:「人権問題に自覚的な自分」と「人権問題に無自覚だった自分」が同居

 先日ぼくが読んで感想の記事をアップした『集団浅慮』。同著を書いた古賀史健のインタビューがYahoo!ニュースに出た。

 その中で古賀は

あとは冒頭でお話があったように津田さんとは同級生なので、きっと「人権問題に自覚的な自分」と「人権問題に無自覚だった自分」が同居していて、そのあたりも当事者意識を持って読んでもらえたんじゃないかと思います。

と述べている。

 「統一した世界観」がないというのはまさにこういう状態のことである。

 

補足2:「前進が開始された」と総括した直後に「大量減紙」

 共産党は党を質的に高めながら機関紙読者や党員を増やす「集中期間」を設け、12月にその期日を迎えたが、目標を達成するどころか、読者も党員も減らして締切日を迎えようとしていた。ところが党幹部は「前進が開始されたから」という理由でこの期間を来年4月末まで延長した。

 多少の前進どころか減らして締め切りを迎えたのだから「集中期間」が失敗したことは明らかなのに、どうして? と思っていた。

 そして、今日。

 12月の結果が出た。

本日付赤旗より

 12月度については「ようやく前進が開始された」(幹部会決議)と規定しそれを「集中期間」延長の最大の根拠としたばかりの、そのわずか5日後に「(党員数現勢は)前進には届かない見込み」「(赤旗は)大量減紙を乗り越えられませんでした」(上記記事)とは一体どういうことなのか。延長の根拠が崩壊し消え去ったということではないのか。居並ぶ党幹部たちは誰一人、何も言わないのだろうか。

 科学的で統一的な世界観とかそんな難しい話のレベルですらない。

 増えているのか減っているのか、そんな単純な事実認識ができないのだろうか。

 

 

*1:それはエンゲルス主義じゃねーかとか、「科学的」ってなんだよとかのツッコミは承知の上、保留しておく。