古賀文健『集団浅慮——「優秀だった男たち」はなぜ道を誤るのか?』

 優秀な人もたくさんいただろうに、どうしてこんな愚かしい判断を組織としてやってしまうのだろう…という事実によく出遭う。

 歴史書でも、メディアでも、身近でも。

 特定の組織、例えば利潤追求に必死な資本主義企業体とか、軍国主義的な国家とか、社会進歩をうたった団体とかに限らず、いろんな種類の組織を横断して、そういう愚かしさが見出される。

 だからこれはある程度、さまざまな組織体で共通して起こる、組織としての病理現象なのだろうと感じる。

 そう思って読み始めたのが本書だ。というか、リモートの読書会で他の人から推薦があったので手に取ったのがきっかけではあったが。

 「なぜこんなバカげたことをやってるんですかね?」——ぼくはしばしばそういう質問に出遭う。そのときに、その組織体に特有の問題から迫ることもできるし、もちろんそういう個別の要素があることはたぶん間違いないだろう。

 だけど、近代組織の中で共通して起きている病理であるなら、そうしたメカニズムも多かれ少なかれかかわっているはずだ。そういう考えに至る上で、本書はとても役に立った。

 だけど、「こういう病理現象があります」とうまくまとめて伝えられない。

 そこでこの記事では、本書の内容のうち、「集団浅慮」を原理的に示している部分についてだけメモをつくり、自分のために整理をしておくことにする。

 本書はもともとアーヴィング・ジャニスという学者が政策決定における大失敗を解き明かすために生み出した概念をもとに、中居正広をめぐるフジテレビでの性暴力事件の報告書を読み解いたもので、その報告書をわかりやすく解題しようとするものであった。

 ぼくは、ジャニスの学術的な本の方を読まずに、それをわかりやすく命題的に抽出した本書を、さらに自分が伝えられるようにアレンジしたくてこの記事を書いている。

 そもそも集団浅慮(Groupthink)とは何か。

 ジャニスの定義は97ページ(Kindle版)に書いてあるが、それをかみくだくとどうなるのか。

——組織への忠誠心が強いメンバーばかりで団結している団体で、全会一致を強力に求めて、いろんな選択肢をどんどん排除していってしまう考え方。

ということになるだろうか。

 このような団体では、みんなが仲良しで、「この場ではこう振る舞うべきだ」的なインフォーマルな(暗黙の)規範があり、それを逸脱する者には、初めは説得、次に仲間はずれ、最後に排除が行われる。自分の正当性を疑わせるような異論や激論によって「仲良し」のムードを壊させないようにする。

 

 参加しているメンバーには8つの特徴がある。

  1. 過去の成功体験(不敗神話)
  2. 自分がやっている事業の高い道徳性への確信(不動の確信)
  3. やばい情報を無視する(警告の合理化)
  4. 敵をあなどる(ステレオタイプ化)
  5. お互いのために批判しない(自己検閲)
  6. 自分は反対だがみんなは賛成していると思い込む(全会一致幻想)
  7. 「余計なことを言うな」という圧力(逸脱者への圧力)
  8. 組織を守るために積極的にガードする(心のガードマン)

 8つは多いので、もしぼくが人に伝えるとしたら「メンバーは過去の成功体験があるので、それにしがみつき、そして自分のやっている事業への不動の確信があるから、結束を壊さないために、余計なことは言わない、自分の発言は控える、違和感は自分だけと思い込むなどのメンタリティが生まれる」とでも言うだろうか。

 

 これらは同質性が高く、閉鎖的であることで病理になる。

 したがって、このメカニズムを壊すには、本当に意味で「ダイバーシティ(多様性)」を備えることが必要になる。

 ここは処方箋のポイントとなると思うので、本書が引用しているフジテレビの調査報告書の引用を孫引きしておく。

前記のとおり、組織の強い同質性・閉鎖性・硬直性と、人材の多様性(ダイバーシティ)の欠如が、思慮の浅い経営判断、セクハラを中心とするハラスメントに対する感度の低さをもたらしている。ジェンダーダイバーシティをはじめとする多様性を確保し、同質性等による弊害を解消することは、当社(引用者注:フジテレビ)における喫緊の課題である。(報告書265ページ)

 本書は、ここから「人権の尊重」という原則に入っていくのだが、実はその処方箋の方はぼくにはむしろピンと来なかった。

 ダイバーシティによって同質性を壊し、閉鎖的でないようにすることが、その解決方向だと指摘していることを重視したい。

二宮神社(福岡市。2025年12月紙屋撮影)

左翼政党の「同質性」と「閉鎖性」を考える

 というのは、左翼政党、なかんずく、共産党における「同質性」と「閉鎖性」について考えるとき、民主集中制をどのように運営すればいいかと考えると、やはりこのことがヒントになるからである。

 後房雄と松竹伸幸の対談で、後房雄による、民主集中制の本質は分派禁止であるという研究結果を受け、二人とも当面の改善方向として「分派禁止の厳格化」を提起した。

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 これは注目に値することだ。

 というのは、となりの支部と連絡を取ること自体が分派と見なされ、文書を他の党員や支部に渡すことも許されない。それどころか、喫茶店で仕事の話をするだけでも分派扱いされて除名されるというめちゃくちゃな運営が現在同党ではなされている。

 松竹の裁判ではまさに「分派の定義をした内規」を提出せよ、と迫っている。

 分派の定義が厳密になることで、その定義に触れない連絡・交流は自由にできるようになる。後房雄も松竹も自民党の派閥禁止規定を例にとっているし、レーニンや宮本顕治の分派定義を参考にしてもいいだろう。

 そうすることで、党内に今の路線でいいかどうかを広く研究する横断的なグループが誕生できることになる。それらのグループが集会を開いたり、研究誌やサイトを作ったり、党大会や県党会議などに共同して提案することもできるようになる。

 このようにすることで、異論は植物が根を張るように生命力を持つことになる。

 研究し交流し議論しあうことで、異論は体系的な力を持つようになっていく。

体系を持たぬ哲学的思惟はなんら学問的ものではありえない。非体系的な哲学的思惟は、それ自身としてみれば、むしろ主観的な考え方にすぎないのみならず、その内容から言えば偶然的である。いかなる内容にせよ、全体のモメントとしてのみ価値を持つのであって、全体をはなれては根拠のない前提か、でなければ主観的な確信にすぎない。(ヘーゲル『小論理学』)

 また、少々の同調圧力にも負けなくなる。

 自分たちの持論への忠誠を最優先にしてはならないけども、それは多数派も同じだ。お互い様である。

 これは民主集中制の放棄ではなく、現代的な発展である。

 いずれにせよ、組織を中から食い破るような分派は禁止されるべきだが、それ以外は、むしろ(後房雄が言うように)民主主義にとって不可欠なモメントだと言うことができる。

 このような「分派」ではない「グループ」の存在、イタリア共産党やソ連共産党の言葉で言えば、「潮流」の存在は、組織に真の意味でのダイバーシティ(多様性)をもたらすことができる。 

 

 共産党における集団浅慮を防止するには、分派定義を厳密化することで民主集中制下の自由な交流と共同を盛んにさせ、本当の意味での党内のダイバーシティを生み出して、党内民主主義を繁栄させるしかない。

 時間はかかるが、この文化を生み出すことで、共産党は集団浅慮を防止でき、再生も図られるだろう。