はてなキーワード: 三蔵法師とは
本作は、ジャンプでかつて連載されていた少年漫画であり、女優を目指す少女と彼女の才能に魅せられた映画監督とを軸に、役者の世界を描いている。
中でも、9巻から描かれる舞台「羅刹女」を巡る物語の、特にサイド甲(主人公側)の演技は、現代のSNS問題を反映した非常に興味深い内容と言える。
そこで、「羅刹女」の物語を再解釈しつつ、マンガワン騒動で荒れる昨今のSNSを捉え直してみようと思う。
あらすじ等の解説はしないので、アクタージュ本編を先に読むことを推奨する。
三蔵法師一行の行手を阻む火焔山の炎を消すため、孫悟空は羅刹女に芭蕉扇を貸すよう要求するが、断られてしまう。
孫悟空は羅刹女を倒すことで、あるいは騙すことによって芭蕉扇を手に入れようとする。
三蔵法師は、あくまで羅刹女と対話することで、火焔山の炎を消してもらおうとする。
猪八戒と沙悟浄は、三蔵法師による説得の最中に割り込んで羅刹女を攻撃し、彼女の怒りを呼び戻してしまう。
一行の行動は(三蔵法師を除けば)無礼そのものであり、炎を消すことに正当性があったとしても、羅刹女には怒る権利がある。
むしろ、夫・牛魔王の不倫に対する怒りや、息子・紅孩児の悲報を受けての悲しみこそが、彼女を怒らせる原動力となっている。
彼女にとっては「怒ること」それ自体が目的であり、孫悟空たちの横暴は暴れるための理由づけでしかない。
読者が今回の件で怒るべきは、マンガワン運営側の不適切な対応が主である。
しかし、刑罰の軽さという司法上の問題や、特に関係のない過去の小学館の不祥事も含めて、彼らは攻撃材料にしている。
さらには、論理の不適切さを指摘した第三者や、意見表明をしない漫画家など、少しでも自分の意に反すると感じた対象に無条件に攻撃し出す人すらいる。
怒りの原点が事件そのものにあったとしても、彼らも羅刹女と同様、ただ八つ当たりがしたいだけのように見える。
このような羅刹女の人物像について言及される場面がscene95にである。
今回のマンガワンの騒動、あるいは政治や教育、男女差の問題など、常日頃から何らかの事象に怒り続けている人々はSNS上に数多く存在する。
彼らは読者であり国民であり、性別を有する人間であるため、これらの問題全てに対して当事者である。
しかし、彼らは本当に、それぞれの事象に純粋に怒っているのだろうか?
日頃の鬱憤、喪失の悲しみ、社会に対する無力感などをぶつける先を求めているだけではないか?
「社会は一貫して狂っており、だからこそ自らは一貫して怒り続けなければならない」
そのような、ある種の強迫観念囚われているだけでないのだろうか?
怒っている人に「あなたはただ誰かに八つ当たりしたいだけでしょう?」と言うのは簡単だ。
しかし、それをストレートに伝えたところで、単なる煽りか論点ずらしと思われ、さらなる怒りを買うだけである。
だからこそ、舞台「羅刹女」においては、彼女に共感し理解しようと努力する三蔵法師が説得役となる。
とにかく怒りをぶつけようとする羅刹女は、三蔵法師の柔らかな態度と、そこから放たれるある種の正論にたじろぐ。
怒り狂う人間に対しては、感情を理解しようとする第三者からの説得が効果的であることが、ここで強く表現されている。
しかし先述の通り、三蔵法師の説得は、猪八戒と沙悟浄の横入りによって一度失敗する。
彼らは三蔵法師の手下であり味方である一方で、三蔵法師が羅刹女を説得する上では障害となっている。
「火焔山の炎を消したい」という目的こそ一致しているが、取るべき手段が真逆なのだ。
同じ主張であっても、優しく諭すように伝える人もいれば、他人を馬鹿にするような表現を使う人もいる。
常識的な対応をしていたはずの人間が、レッテル張りと罵倒によって冷静さを失い、過激な発言を繰り返すようになることは多い。
だが、これは他人を馬鹿にする人間が悪である、という単純な話ではない。
他者を罵倒し嘲笑う人々のうち一定数は、自らの主張を通すためには説得より攻撃が適切であると信じている。
他人の醜態を笑い、徹底的に馬鹿にすることが、相手の反省に繋がると考えているのだろう。
そして、力づくで奪うことも、罵倒によって意見を通そうとすることも、確かに手段の1つではあるのだ。
終盤、羅刹女は孫悟空・猪八戒・沙悟浄を倒した上で、再び三蔵法師と対峙する。
そして、3人を痛めつけながら、三蔵法師に「私を許してみろ」と詰め寄る。
もちろんこれは「許せるわけがない」と確信しているからこその行動である。
対して三蔵法師は、怒りを顔に浮かべつつも、「あなたを許します」と答える。
この会話は少し奇妙な流れと言える。
先に羅刹女に手を出したのは孫悟空であって、反撃を受けて痛めつけられたのは自業自得である。
問答の流れに沿うとはいえ、三蔵法師が「あなたを許します」というのは、手下が無礼な行いをした後の態度としては尊大すぎる。
「頼みを断られたから強硬手段に出たら返り討ちにされました」に対して怒るのは、それこそ八つ当たりだ。
しかし、だからこそ三蔵法師の怒りの表情は羅刹女の鏡として機能する。
しかし羅刹女にとって、自分が孫悟空たちに怒る理由は、彼らの横暴に対してでなければならない。
怒る自らを肯定するためには、今の怒りが八つ当たりだと認めるわけにはいかないからだ。
だからこそ、自らが孫悟空たちを痛めつけたならば、三蔵法師には怒ってもらわねばならない。
そうでなければ、怒っている自分がおかしいと証明されてしまうからだ。
ところが三蔵法師は、八つ当たりに近い無意味な怒りの醜さと、その感情を理解しつつも「許す」と宣言して見せる。
結果として、鏡を見るような形で、羅刹女は自らの醜さを理解することになる。
SNS上でも、過激に他者を批判していた人が、より過激な発言をする第三者を見て少し冷静になる事例がたまに見られる。
自らの醜悪さは、鏡写しの他者を見せつけなければ理解できない。
ただし、その醜い姿が自分であると認識できなければ、自らを省みることには繋がらないだろう。
現代社会においては、ダブルスタンダードを避け、常に一貫性を保つことが求められ続けている。
「理由の説明があれば意見・考えが変わっても良い」と言う人もいるが、これまでの考えが過ちだと公の場で認めるのはなかなか勇気がいるし、仮に認めたとしても、その説明をあらゆる人間が読んでくれるとは限らない。
だからこそ人々は一貫して怒り続けなければならないだろう。
怒りに震える羅刹女の救いは、怒りのために用意された舞台の中にはなかった。
目を向けていなかった、舞台の外にこそ彼女の「豊かさ」があり、それは演技から外されて初めて見えるものであった。
マンガワン騒動では、直接関わりのある作家や運営、編集者だけでなく、単に連載を持っているだけの他の作家や、事情を知らなかったであろう小学館の他の部署に対しても批判が相次いでいる。
特に、日頃からSNSを活用し、発言しないことにすら意味を見出されるようになった人々は、その影響をダイレクトに受けているように見える。
SNS上の人格、その一貫性という物語に囚われてしまうと、際限のない怒りに呑まれ、論理的な判断ができなくなってしまう。
アクタージュの「羅刹女」は、マンガワン騒動の外部からもたらされた、SNS社会に対する警鐘であり、醜さを映す鏡であり、彼らへの救済である。
悪妖怪 「そうれそうれ、あと一歩で手が届くぞ。よし、捕まえたー。やっと捉えた憎きエテ公、腹をかっさばいてなぶり殺しにしてやるわ…」
悪妖怪 「え?」
三蔵法師 「え?…うげああああぁぁぁっ」(腹を割かれて断末魔)
孫悟空 「お師さーんっ!! あー、またやっちまった…」
(その夜)
三蔵法師 「弱き者や路傍の生命を身代わりにするような戦い方は止めなさいと、何度も言いましたよね。言・い・ま・し・た・よ・ねっ! 言ってわからぬ者には、もうこれしかないではないですか。はい、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、緊箍児、きんこじ、きんこじ、こじ、こじ、こじぃ~」
孫悟空 「ぎょわぐぉゔぇゔぁあ!!」
想像以上に辛い。
お前、ADHDじゃねーの?
認めるのか? とかいう話じゃなく、否定する労力を割くほどの意味を見出せないだけ。
それはともかく、本当に動きが遅い。
ここしばらく、刺激を求めて炎上現場に入り浸ってた、ってのはあるだろうけど、ベトナム戦争とかウクライナ侵攻の現場から、ギター担いでムーミン谷に瞬間移動か転生でもしたか、ってほどのギャップが、意外に辛い。
別に平和で長閑な時間を楽しんでもいいじゃない、って考え方もなくはない。
でもそうじゃない。
数ヶ月後に確実に襲いかかってくる嵐が見えているので、気が気じゃないんだ。
その嵐はとても馴染みがある、いつもその真っ只中に召喚されてきた嵐だから。
予防できるんだが、っていうか今回は予防しにきたんだが、みんな「はぁ、そっだな嵐、くるわけねぇべよ。おらたち天才の集まりだど。ちょっくら畑でも見にいってくるだ」ってノリだから、準備が間に合わねぇ。
雰囲気、外形、体裁、ワークライフバランス。
話を聞いた限りだと、なんとか一般道レベルのスピードで無理をしないで進められるギリギリだな、と思ってJoinしたら、クリープ現象でもまだ速すぎるくらいの、全員第五匍匐前進以下のスピード感。
天竺に着くまでに、三蔵法師、5回くらい昇天するぞ、ってレベル。
「慎重に進めないといけないから」
いや、まだ自陣。
小中学生の頃の、周囲が全て遅く感じる感覚が、久々に蘇ってる。
そう、今で言えばギフテッドだったんだ。
時間が勿体無い。
自分の。
サクッと全体設計させろ。
三蔵法師に負ける時点で最強じゃないだろ
中国古典である西遊記が登場人物の孫悟空。如意棒片手に筋斗雲で空を駆け、毛一本一本から分身を作り出し、作中を通じて武力に優れた存在として描かれる。
(中略)
猿たちの王である彼の外見的特徴と言えば、そう「○ン○ジ」である。
諸君も文章なり図解なりで見た記憶があるのではないだろうか。筋斗雲に乗り空を駆けながら如意棒を大きく伸ばして暴れまわる孫悟空。すると三蔵法師が呪文を唱えて彼の○ン○ジを狭めて懲らしめる。縮んだ○ン○ジに彼自身の頭を締め付けられた孫悟空は痛みに堪えかねて、三蔵法師に「どうか、○ン○ジを解放して下さい」と許しを乞う。西遊記の序盤を代表するシーンである。
それでは○ン○ジとは一体なんであろうか。孫悟空にとって○ン○ジは彼自身の自由を縛るものであると同時に、三蔵法師との絆を感じさせるものであった。
(中略)
ついに天竺から経典を持ち帰った三蔵法師一行。その功績を認められ、一行は昇仏することとなった。仏となった彼にはもはや束縛は必要ない。仏となり下界で身に着けていたものを次々に剥ぎ取った孫悟空は、天竺への旅を通して苦しめられてきた○ン○ジからついに解放されたのである。
マントラ「オンシュダシュダ(オン・シュダ・シュダとも)」について調べました。このマントラ(真言)は弘法大師の師匠の師匠である善無畏三蔵法師が唱えたマントラとされているようです
>「空海(弘法大師)の師匠の師匠に当る、古代インドの摩伽陀国の国王であり僧、日本渡来説を持つ「善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)」が作ったマントラ。
>あらゆるネガティビティをリセットする言葉。心の浄化、悪い出来事のリセット、心身のストレス、場の浄化などに強力な効果あり。」
このマントラは邪気が払われる最強のマントラとして近年広まっているようなのですが、出典はわからないようです
>恐らく私がさっと調べた感じでは「オンシュダシュダ」という真言は経典にはなさそうでした。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11294949481
Xを検索したところ2013年にはスピリチュアル系アカウントによって紹介されています
2014年にも紹介している気功教室のブログが確認できます。いずれも同一人物が関わっているようです
https://sumaho-kikou.com/?p=332
https://web.archive.org/web/20140118233548/http://kikou.info/page/cat2/cat1/528.php
Webではなく気功教室といったオフラインのネットワークを通じて広まっている場合、Webでこれ以上の情報を得るのは難しいかもしれません
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