ほとんどの人は、幼い時に、工場労働者の価値観を叩き込まれている。
工場労働者の価値観とは、周りの誰とでも仲良くし、トラブルを起こさず、権威者に誉められると喜び、権威者に嫌われることを恐れるといったものだ。
価値観が違う者に対しては、違和感や嫌悪を感じるが、その価値観が強いほど、それは強くなる。

いくら、「これからは組織に所属せず、個人の創造性で生きる時代」だと言われても、学校で工場労働者の価値観を叩き込まれた者には、そんなことは全く不可能だ。
それに、学校で嫌な目に遭ったせいで、学校の価値観、つまり、工場労働者の価値観を嫌悪したら、学校や社会でうまくやっていけない。
また、一見進歩派だが、実は、恵まれた環境のせいで、上位の工場労働者になれたに過ぎない者が、「これからの時代は工場労働者の価値観では駄目なので、それを壊しましょう」とか言うが、そう言っている本人が、国民を工場労働者にしたがる権威側に立っていたりする。
そんな者の特徴は、学歴や自分の社会の立場・肩書きを自慢することだ。

今の日本の社会では、魂を売らないと豊かになれない。
『荘子』によれば、賢者は社会の中に溶け込んでいて、愚者との見分けがつかないのだそうだ。
独自の価値観を持ってはいるが、それを主張することもなく、それでいて、一般的な価値観に迎合しない。
彼は、何の価値観も持っていないように見えるかもしれない。
だが、それでいて自然に周囲を従えるようでなくては賢者ではない。

ライオンのような猛獣ですら、必ずしも肉体の力の大きな者がボスになる訳ではない。
何らかの精神的な力が、その順列を決めている。
その精神的な力の正体は意思の力で、動物ですら、それが力になる。
まして人間では、意思の力が最強のものになる。
独自の価値観を持つことは、状況を作り出せる意思の力があってこそ良いのである。
自分の価値観を知ること。
そして、その価値観のために修行することだ。
それで強い意思を持てる。
単純な例で言えば、美しいことに価値観を持っているなら、適切な運動や食事で美しくなれば良いのである。決して「美しいと誉められる」ために何かするのではない。他者の評価が必要なうちは、所詮、工場労働者の価値観である。
「私が良いと言えば、それが価値である」
そう思えねばならない。

上で、「単純な例」と書いたが、価値観は単純な方が良い。
難しい哲学的価値観となると、もう自分でも、どうすれば良いか分からない。
一流の、そして、役に立つ哲学者の価値観は案外にシンプルなのである。









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