『汚れつちまつた悲しみに…』なんて中原中也の詩がある。
「汚れつちまつた悲しみに 今日も小雪の降りかかる・・・」と、延々、愚痴をこぼすような詩だ。
しかし、汚れなければ悲惨だ。
人は、いったん汚れてこそ、本当に美しくなるのだ。
中原中也だって、それは知っていて、まだ幼い心を持っていた時の感慨を表現しただけなのだとは思う。

いや、実際はこうだ。
汚れちまったも何も、人は最初から汚れている。
ただ、それに気付かないうちは、自分がきれいだという妄想を持っているというだけのことだ。
だから、「汚れちまった悲しみに」ではなく、「汚れていることに気付いた悲しみに」というのが本当なのだ。

中学生とか高校生の頃までは、自分が釈迦やイエスに匹敵する、あるいは、それ以上だと思っている人は案外に多いと思う。
相当、甘やかされた、気の毒な子達だ。
アメリカのように、子供の頃からがんがんバイトをさせて、自分の中の汚れに早く気付くのは絶対に良いことだ。早く気付かないと、本当の美しさを得る時期は遅くなる。例えば、15歳で気付けば、50歳で美しさを得るとして、20歳で気付けば、80歳でもどうかといった感じである。
これが、大企業のサラリーマンや公務員になれば、更に遅くなる可能性が高い。200歳まで生きてやっとかもしれない。

史上最強のセールスマン、ジョー・ジラードは、「誰でも最初は優秀なセールスマンとしてスタートする」と言った。
私は、これを、「最初はみんな真面目だが、だんだん怠けるようになるからな」といった意味に解釈していた。
私が最初にやった仕事はセールスマンだったので、セールスマンがいかに怠けるかはよく知っていたのだ。
だが、ジラードの言葉は、最初は企業に洗脳されているといった程度の意味かもしれない。
いまどき、セールスする製品に、ライバル製品、つまり、同じようなライバル会社の製品が無いということは、まず、ありえない。例えば、トヨタの車を売ろうとしたら、日産にも大体同じような車がある。
セールスマンは、会社から、「部分的には他社の製品の方が優れた部分はあるかもしれないが、当社の製品の方が絶対に良いのだ」と叩き込まれる。それを信じているうちは、経験の無いセールスマンでも案外に売れたりする。私も、かけだしの頃、いきなりセールス・コンテストで優勝したことがある。
しかし、やがて、会社の言ったことは嘘だと気付く。そうなると、自分は、客を騙しているのではと思うことになる。時には、売るために、あきらかに客にとって良くないことを押し通してしまうことが絶対にある。
そんな時に、私は本当に思った。
「汚れちまった悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる」
だが、その時は気付かなかった。自分は、元々汚れていることを。

尚、私は、『汚れつちまつた悲しみに…』は、平坂読さんの小説、『僕は友達が少ない』で思い出した。アニメでも、小説の通り、ヒロインの三日月夜空が淡々と朗読する。その時の夜空の横顔が美しかった。詩を読みながら、夜空は何を思っていたのだろう。
汚れ(穢れ)について考えるなら、神道の穢れ(気枯れ)について学ぶと良いだろう。穢れを祓うことを学べるかもしれない。









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