科学的図像の実践から紐解く、「客観性」をめぐる科学史の本。
「客観性」という概念は、古くから、少なくとも科学が生まれてからずっとあったように思われるけれど、そうではなくて、比較的新しい概念であることを提示する。
本書は「認識論的徳」、つまり科学的であるためにはこのようにするべきだ、という理想が、歴史的に変遷してきたことを示し、「客観性」は、ある時代の特有の認識論的徳であると論じている。
具体的には、以下の3つの認識論的徳が取り上げられている。
18世紀:本性への忠誠・四眼の視覚
19世紀:機械的客観性・盲目的視覚
20世紀:訓練された判断・観相学者の視覚
(※後ろの「~の視覚」は、その徳を発揮するために必要とされるもの)
客観性(ないし機械的客観性)は、19世紀に生まれたものであった、と。
しかし、気をつけなければいけないのは、これはパラダイムの変換のように違う徳へと切り替わっていったという話ではないこと。
「本性への忠誠」は、18世紀に重要視された認識論的徳であり、19世紀以降、客観性という徳と対立するようになり、主たる地位は奪われることになるが、しかし、なくなったり廃れたりしたわけではなく、現在もなお生き残っている。
また、認識論的徳は、科学者に対してある種の義務を課す。
科学者は、そうした徳に従って、科学者としての自己を形成していく。
だから、客観性は主観性(自己)と対をなす。主観性なくして客観性はない。
また、本書は、こうした認識論的徳や科学者としての自己の歴史を、科学の実践の中から論じていく。
より具体的には、アトラスと呼ばれる一群の科学的図像である。
その時代によって、アトラスに収録されている画像の特徴は変わっていく。そこから、どのようにそれらの画像が作られており、ひいては、どのような画像が「科学的」だと考えられていたのかが見出されていく。
第1章では、本書全体の流れが示される。
第2章では、本性への忠誠について、第3章では、機械的客観性について、第6章では、訓練された判断について、それぞれ扱われる。
また、第4章は、機械的客観性の時代の科学的自己についてが扱われる。
さて、大雑把にいって、18世紀が本性への忠誠の時代、19世紀が機械的客観性の時代、20世紀が訓練された判断の時代なわけだが、
20世紀初頭、機械的客観性には限界があることが意識され、それへの対応が2つに分かれた。
1つが「構造的客観性」であり、もうひとつが「訓練された判断」である。
上に述べた通り「訓練された判断」は第6章で取り上げられているが、その前の第5章で「構造的客観性」も論じられている。
本書は基本的に、科学的図像からみる科学史として書かれているが、第5章は図像ぬきの話であり、20世紀初頭の科学哲学(初期分析哲学)について書かれている。
第7章は、21世紀の展開について論じられている。
プロローグ 客観性の衝撃
第1章 眼の認識論
盲目的視覚
集合的経験主義
客観性は新しい
科学的自己の歴史
認識的徳
本書の議論
普段着姿の客観性
第2章 本性への忠誠
客観性以前
自然の可変性を飼いならす
観察のなかの理念
四眼の視覚
自然を写生する
客観性以降の本性への忠誠
第3章 機械的客観性
曇りなく見る
科学および芸術としての写真
自動的図像と盲目的視覚
線画と写真の対立
自己監視
客観性の倫理
第4章 科学的自己
なぜ客観性なのか
科学者の主観(主体)
科学者のなかのカント
科学者のペルソナ
観察と注意
知る者と知識
第5章 構造的客観性
図像のない客観性
心の客観的科学
実在的なもの、客観的なもの、伝達可能なもの
主観性の色
神ですら言えないこと
中立的な言語の夢
宇宙規模の共同体
第6章 訓練された判断
機械的複製の不安
客観性のために正確性を犠牲にすべきではない
判断のアート
実践と科学的自己
第7章 表象(リプレゼンテーション)から提示(プレゼンテーション)へ
見ることは存在すること —— 真理・客観性・判断
見ることはつくること —— ナノファクチュア
正しい描写
謝 辞
訳者あとがき
プロローグ 客観性の衝撃
アーサー・ウォージントンは液滴を落とした時のしぶきを記録
フラッシュを使って目に焼き付けて、それを描き写すという方法で記録していた時は、対称的な形で描いていたのだが、写真を使って撮影された液滴は、決して対称的ではなかった。
第1章 眼の認識論
「本性への忠誠」「機械的客観性」「訓練された判断」
アトラス:ワーキング・オブジェクトを体系的に編集したもの
ワーキング・オブジェクト:図像やタイプ標本など自然を代表する対象
「主観」「客観」という言葉は、カント前後に意味が変化している
デカルトの一次性質と二次性質やベーコンのイドラは、必ずしも主観・客観の話ではない。
**第2章 本性への忠誠
客観性以前
カール・リンネ『クリフォート邸植物』
真理が先にあり客観性と区別
観察
科学者の介入
自然の可変性を飼いならす
現代人は、個人の主観による差(バイアス、誤差)を気にかけるが、変則的な対象も脅威
図像は、科学者共同体のためのデータ、記憶
本性への忠誠は、「典型的」「徴示的」「理想的」「平均的」な図像を選択するという判断
一方で、16,17世紀は、自然の可変性・奇形性をむしろ好んでいた(フランシス・ベーコン)
=本性への忠誠と対立する認識上の生き方
本性への忠誠を誓う人々の間で、しかし、具体的な解釈は必ずしも一致しなかった。
「典型的」「徴示的」「理想的」「平均的」は、標準化という点では同じだが、それぞれ違う意味
→理想を描く
自然の範型を示す。自然を芸術で描きかえることをためらわない
実際には存在しない普遍的なものを描写する
理想化に対して自然主義
個物(特定の死体)を描く、という点で、アルビニヌスと異なる。
しかし、複数の標本を組み合わせることはあり。また、美的な配慮もあり
真理と美、科学と芸術の一体化
鳥にポーズをつけたりもする。1750年、コプリー・メダル受賞
一方、エドワーズにポーズを倣ったジェームズ・オーデュポン『アメリカの鳥類』(1827~1838)は非難されている
「徴示的」アトラスは、過渡期のもの
博物学者レオミュールとその挿絵画家マルシリ
画家を監督する学者=四眼の視覚(学者と画家2人の4つの眼による視覚が理想)
画家が、変則的な特徴を過度に描いたりしないように、学者は常に画家を監督する必要があった。
画家と学者の間には、社会的、知的、認知上の緊張があり、学者は、従順な画家を求める
例えば、キュヴィエは娘のソフィーが画家をつとめるなど
一方、生活の糧として稼ぐ女性画家もいた。
また、学者との立場が逆転する画家も(筆頭著者になったり、名前が大きくクレジットされたり)わずかながらいた。
サワビーとスミス
学者と画家の対立は、seeing asとseeing thatの対立でもある
画家は媒体とならなければならない
素描の新しいイデオロギー→素描教育、ジョルジョ・ヴァザーリ、社会的上昇への道
「自然を写生する」18世紀の科学書の序文にでてくる言葉
当時の素描教育は、ほかの絵画の模写
その果てに模写じゃない「自然を写生する」がある
見たままに描く、ということではなく、見ることには記憶や識別が含まれており、図像は、対象の肖像でありながら、対象とするクラス全体の象徴でもある。真理という理想や美のために作られている。
19世紀以降も「本性への忠誠」は生き残ったが、特に植物学において
しかし、植物学にも「客観性」は入ってきた。その一つが「タイプ法」
タイプという言葉は理想・典型として使われてきたので、混乱や論争が生じた
第3章 機械的客観性
カハールはゴルジを強く批判したが、これは2人の認識的徳が異なっていたから(図像を単純化することは、ゴルジにとっては美徳だったが、カハールにとっては悪徳)
客観性という認識的徳は、自己抑制を義務とする
図式化し美化し単純化したいという欲望(本性への忠誠を導く理念だったもの)を抑え込まないといけない
客観性は1880年代~90年代には主流に
客観的画像がすべて写真だったわけでも、写真がすべて客観的だとされたわけでもない
-写真
天文学者ジョン・ハーシェル、博物学者アレクサンダー・アガシ、天文学者フランソワ・アラゴなどが、写真に可能性を見出した科学者
写真は当初、芸術において労働を節約する技術として見出された。
その後、科学において、人間の解釈を受けない画像として見出される。
ボードレールとフィギエ→写真は芸術性について正反対の意見
写真が偽造されたりレタッチされたりすることを、当時の人たちも理解していた
科学者の先入観や理論を投影する恐れがないことが、写真の客観性
観察者は機械を目指す
顕微鏡の視界に入ったものはすべて描く→アーティファクトも記録する
自動化された手段で描写のプロセスを制御することで「誘惑」を回避する
ジョン・ネティス→エドワード・ベルチャー→ジェームズ・グレーシャー 本性への忠誠
グスタフ・ヘルマンとリヒャルト・ノイハウス 機械的客観性
落下する液滴
客観性とは、自然の理想的規則性を信じてしまう心に対して、世界の不規則性を押し付けること
客観主義者だが、写真に反対し木版画を擁護した
タイプとしての対象から個別としての対象へ
アーティファクトは真正性の証拠に
写真と線画については、色々な立場があった。
写真によって多くのものが失われることを認識していたが、写真を支持
オリジナル図像には線画を用いて、複製において写真製版
最初が写真で、複製は彫版
解釈の恐れは、通常個物の画像へ向かうが、ソボッタやゴールトンは合成された画像を支持した
ゴールトンは理想的なタイプを目指したが、本性への忠誠自体のような主観的な理想化ではなく、自動化された手続きによって目指した。
パターン認知は画家によってなされるのではなく、自動化された合成によってなされる(顔写真を合成することで)
精密性を犠牲にして客観性を選んだ
機械的記録装置=自分自身からくる誘惑を抑制する手段
他者(画家など)の取り締まりから自省へと無火曜になった。
写真の欠点
教育的効果、色彩、被写界深度、診断上の有用性などについて写真は劣るものであったが、これらの要素も客観性の前では犠牲となった。
非常にぼんやりとした写真でしかなくて、見ても運河があるかどうか分かりにくい。ローウェルは運河の場所がわかりやすくなるように手を加えようとしたが、客観性のためにそのような加工はあきらめた。
自己抑制、認識的であると同時に道徳的な要請
機械的客観性とは
(1)客観性に必要な技法を身に着けること
(2)自己を拘束し規律化するように自分自身の意思を涵養すること
正確性よりも道徳的な誠実さを選ぶ
非介入性こそ、真実よりも客観性の核心
16世紀から18世紀まで、芸術と科学は協力関係
19世紀以降、芸術家と科学者の主張は相反するように(芸術の側ではロマン主義が台頭)
機械的客観性は、不完全なもの、非典型的なものをそのまま示す。それは、18世紀までは美徳ではなく無能。スキルが必要になってくる
しかし、20世紀までに、主観性を完全に排除するのは難しいということがわかってくる。
第4章 科学的自己
ヒスとヘッケルの対立=機械的客観性と本性への忠誠の対立
真理と客観性は単なるお題目ではなく、実践と結びついている。
例えば、彩色され鋭い輪郭をもつ線画か、ぼやけた白黒の写真か、いずれを選ぶのか、という。
本性への忠誠も機械的客観性も、いずれも義務を課す
その義務の変化は、アトラス制作者だけではなかった(図像を使わない他の科学者も、同時代的に変化が起きていた)
科学的客観性は、科学的主観性と表裏一体
本書では、日記や自伝に加えて、伝記やアドバイス・マニュアルを検討する
フーコーがいうところの「自己のテクノロジー」に注意をむける
観察における感覚の訓練、ラボでのノート取り、標本を描くこと、意志を鎮めることなど、これらは自己をつくりだし、自己を構成する
「自己」と「主観性」は異なる。「自己」にはいろいろな種類がある。
主観性は、自己という属の一つの種
自己についての2つの記述
(1)ディドロ『ダランベールの夢』
(2)ジェームズ『心理学原理』
これは、自己についての2つの見方をあらわしている。
(1)啓蒙期の感覚主義心理学における自己=断片化され、受動的
(2)カント以降の自己=能動的で統合されている
啓蒙期の学者にとって、受動的に押し寄せてくる感覚をそのままにするのは混乱のもと、選択・弁別が必要
19世紀の科学者にとって、主観的な自己が能動的にデータに介入してくるのが問題。
科学者のエートスとペルソナ
カントを創造的に誤読した科学者
ヘルムホルツ、ベルナール、ハクスリー
客観的と主観的との線をどこに引くかは論者によって分かれる
客観性は、これまでとは異なる認識論的な目標
主観性は、人間の条件の本質的な側面
19世紀は、科学が著しく発展した時期であり、激動の時代であり、定説が次々と変わっていく時代だった(だから、科学とは何かを考えるときに、一つの真理があるとは考えにくくなっていた。真理だと思ったものが明日には誤りになっているから)
形而上学への警戒
ベルナール、ハクスリー、ヘルムホルツは、もし科学が真理についてのものでないならば、何についてのものなのかを明らかにするために、客観的という言葉を使った
啓蒙期の自己は、「理性」と選択によって、想像力という受動的な誘惑に抗した
19世紀の自己は、「意志」による統合
科学は、「理性」による支配から「意志」の勝利へ
19世紀後半、科学の賞賛は、天才のひらめきから時間と労力へ
勤勉や忍耐など
実験室での労働と工場労働とのアナロジーすらある。
だが、科学者と単純労働者の違いとして、自己抑制のための意志の力があった。
啓蒙期の学者は、観察を繰り返すことが重要とされた。日誌をつけることが統一性へつながった。
断片化する自己や一貫しない対象に対して、日誌をつけることでその一貫性を保持する
理性によって導かれる注意と能動的な選択が、注意を抽象化へ高める
1870年代、注意は意志の行使と同義に(注意と意志の関係を示す参考文献として、クレーリー『知覚の宙吊り』があがっていた)
1860年代、受動的な観察と能動的な実験との対置(ベルナール)
ラボノートも未解釈・未編集の生データ
意志を行使することで外部化する、作品を創造する
外部に向けて意志を行使することに抵抗。意志は自己(内面)に向けて行使される
→芸術との対立
第5章 構造的客観性
客観性は、自然をあるがままに見ることでも、感覚や観念への忠実さでもなく、さまざまな感覚のあいだにある一定不変の関係のうちにある
科学とは万人に伝達可能であらねばならず、構造だけが伝達可能
図像ぬきの客観性を主張した人たち
機械的客観性をより極端に推し進めたのが構造的客観性
機械的客観性も構造的客観性も、主観性と戦うものという点では同じだが、主観性を抑制するか断念するか、という違い
客観性の指標を、カントは伝達可能性とした
心理学が幾何学などを経験科学の対象としようとする
ヘルムホルツvsフレーゲ
数学と論理学が科学的な心理学と生理学の猛攻に耐えられるか
表象も直観も、フレーゲにとっては主観的
算術よりも客観的なものはない
19世紀において「色」は主観的なものの典型例
(かつて、例えばデカルトは、色の問題を主観と結びつけていなかったのに対して)
ポアンカレにとっては、色の問題は私秘性。伝達不可能性。
カント的な「客観的」「主観的」を使うようになった初期の例が、色の科学
例えば、ゲーテ『色彩論』
フレーゲ、色の主観的感覚と色彩語の客観性
→ウィトゲンシュタイン『色彩について』へ
生の経験は伝達できないが、関係ならば伝達できる*1
単純な構造こそが科学が目指すゴール
真理は伝達可能性のテストに落ちる
ラディカルな経験主義(マッハ、ジェームズ、ベルクソン)にも抵抗
時の試練に耐えうる関係を明らかに
ポアンカレは、トポロジカル(定性的)な図像を描き、メトリカル(定量的)な図は描かない
科学理論が短命であることを身に染みてわかっていた
科学は協同事業でもある
カルナップ
構造は中立的
ラッセル
1900年前後のSFにあらわれる宇宙人
→姿かたちが異なっていても、意思疎通が可能なものとして描かれている
→実際の科学界は、国際化により、伝達可能性の実務的問題
機械的客観性→自己による自己抑制
構造的客観性→自己の消滅
科学は、宇宙的な共同体への参入
第6章 訓練された判断
正常の範囲の変異と、それを逸脱した変異をどのように見分ければよいのか
アトラスの図像と、アトラス利用者が実際にみる対象は同じではない
訓練された判断によって、解釈する必要がある
暗黙の、洗練された、経験に基づく、無意識的な判断
「訓練された判断」は「機械的客観性」を批判したが、客観性に置き換わったのではなく、客観性を補完するもの
また、客観性と反するが「本性への忠誠」に戻ったわけでもない。
訓練された判断は、対象の向こうに理想を見出そうとするわけではない。訓練された判断の支持者は、顔の類似性をメタファーによく使った(家族的類似性)
「主観的な基準をもとに診断に到達できるように読者の目を訓練する」
「客観性のために正確性を犠牲にすべきではない」
科学教育の拡大
ゼミナールによる教育=新しい訓練方法
訓練され教育された読者への信頼
オスカー・エルスナーの鉱物学研究所
ルイス・アルヴァレズ
モーガンとキーナンとケルマンによる『恒星スペクトル・アトラス』
恒星の種類を特定するプロセスには、定性的なものがあるが、だから不定性であるわけではない。定量的な数値ではなく、主観的な訓練された目、経験的なわざによるパターン同定が必要
人相や人種を見分けることとのアナロジー
ウィトゲンシュタインは、ゴールトンの合成写真に着想を得ている
ゴールトンは優生主義者。ウィトゲンシュタインや、ギブズ夫妻、モーガン、キーナン、ケルマンはあくまでただの比喩として使っていて、優生主義者だったわけではない
が、1920年代から40年代前半にかけて、人種認識のメタファーが増えたのは確かであり、これは偶然ではない。
モーガンとキーナンとケルマンが参照した先行するアトラスとして『ヘンリー・ドレイパー・カタログ』がある。これには女性労働者たちが参加していたが、このころは、スキルのない労働者は、機械と同一視され、客観性を担保するものと考えられた。
科学者と画家・アーティストとの関係
科学者が、画家の解釈を重視するようになる
表象は対象と同形でなくてもかまわない
(同形と相同の違いは、ギャリソン”Image &Logic”)
非模倣的な表象(多くはコンピュータ出力)
データをどのくらい「なめらかにするか」、何が現実であるかについて、主観的で能動的な決定が必要
図像そのものの修正が必要とされた
- ゴールトハマーとシュウォーツ『X線で見た頭部の正常解剖学』
X線写真をもとに描かれた線画
自然に忠実であること、自然を模写することは、アトラスの目的ではなくなっていた
「自然」ではなく「現実」
第7章 表象(リプレゼンテーション)から提示(プレゼンテーション)へ
-見ることは存在すること —— 真理・客観性・判断
本書のここまでのまとめ
21世紀に起きている展開についての簡単な見取り図
(1)仮想的図像、デジタル・アーカイブによるアトラス、学習目的で操作可能な画像
(2)触覚的図像、ナノマノピュレーション、例、原子間力顕微鏡、測定することで図像を生み出す
アトラスではなく、イメージ・ギャラリーとなった。
感覚を通じて知識を獲得する方法には2つある。
(1)観察
(2)世界に介入すること(能動的なベーコン的スタンス)
ナノマノピュレーション、理学と工学の統合的アプローチ、道具としての触覚的図像
プレゼンテーション(科学が工学とつながってさらにビジネスとつながるようになる)
芸術的な介入
アメリカ物理学会、1983年から写真コンテスト(『流体運動ギャラリー』)
計算流体力学者マリー・ファルジュ
理論物性物理学者エリック・J・ヘラー
表象ではなく提示、という新しい描写
エンジニア=科学者としての自己