動物の美学入門:自然、動物園、水族館 - Lichtungで紹介されていた動物の美学の論文
タイトルは「美学化、芸術化、水族館」か
二部構成になっていて、第一部で美学化・芸術化とは何かについて論じ、第二部でその具体例として水族館をあげている。
筆者は、美学・芸術の哲学の研究者だが、プラトン、カント、ニーチェ、デューイについてもやっているようで、本論文でもニーチェやデューイの名前が出てくる。
美学化というのは、本来、美的に扱われていないものを美的に扱うこと
芸術化というのは、美学化の一種で、本来、芸術作品として扱われていないものを芸術作品として扱うこと
いずれも、ネガティブな意味で使われることが多い(戦争の美学化とか)
が、筆者は、概念自体は価値中立的で、必ず悪いものであるとは限らないと主張する。
やや話は逸れるが、筆者の芸術化の議論は、筆者の日常美学における立場ともつながっている。
筆者は、日常生活の美的な経験は、日常における美的な対象を芸術作品として扱うことだと考えている。一方で、例えばユリコ・サイトウなどは、このような立場に反対する(茶の湯は芸術かもしれないが、日常におけるお茶は必ずしも芸術ではない。が、しかしそこにも美的経験はあるという立場)。
水族館の話
環境美学において、自然の美的鑑賞については科学的認知主義あるいは環境モデルと呼ばれる立場が主流である。
こうした立場からすると、自然や動物を美的に鑑賞する際に、自然や動物を芸術作品のように扱うべきではない、ということになる。
しかし筆者は、実際の水族館(ここではモントレーベイ水族館が例にあげられている)の実例を挙げて反論する。
具体的には、クラゲの水槽と絵画作品が並んで展示された事例が検討されているが、クラゲを芸術作品と並列して鑑賞させる展示方法であり、そしてそのような鑑賞を通じて鑑賞されるクラゲの性質はある、と主張している。
筆者は、多元主義の立場を支持している。認知主義は一元論的で、認知主義的な鑑賞しか認めないが、筆者はそれに反対する。
つまり、自然を芸術作品のように鑑賞するべきではないvs自然を芸術作品のように鑑賞してもよい、という対立
本来属さないカテゴリーのもとで鑑賞するのは悪いことか。
本来属さないカテゴリーのもとで見ることは、比喩的な知覚であり、クリエイティヴィティと関連している。自然の美的鑑賞においてのみ、そういう知覚を排除する理由はないのでは。
認知主義と違って芸術モデルの鑑賞は、受動的になってしまうとか、対象をシリアスではなくトリビアルに扱ってしまうとかそういう批判もあるが、前者は無関心性と受動性を取り違えている、後者はシリアスじゃないからといってトリビアルになるわけじゃないなど反論している。
ただ、土産物についてはキッチュだと言っていて、芸術化にも表面的なものと深いものとがあると区別している。表面的なものだから悪いわけではないけど、深いものの方がよりよい、と。