田中泉吏・鈴木大地・太田紘史『意識と目的の科学哲学』

意識について、進化論的なアプローチにより解明するには、目的論を導入する必要があるという本
自然主義だけれども、機能主義ではないこと、あるいは、進化論的なアプローチだけれども、意識を適応の産物と捉えないことが、面白いと思う。
他の意識理論との関係や、意識の哲学的問題がこのアプローチからだとどのように捉えられるのかなどは、本書からは分からないところが多いのだが、有力な考えになりうるのではないかという気がした。


慶應義塾大学三田哲学会叢書 ars incognita」というレーベルから出ている。新書判120ページというコンパクトなサイズで、価格も770円とお安い。しかし、その分、内容の密度はしっかり詰まっている感じ。
このレーベル全然知らなかったのだが、哲学に限らず人文系の内容で色々出しているようである。柏端達也『コミュニケーションの哲学入門』って同じレーベルだったのか。


意識についての科学研究は、心理学や神経科学が担っている印象が強いが、近年、進化生物学からのアプローチが相次いでいる。
例えば、以下などがある。
トッド・E・ファインバーグ&ジョン・M・マラット『意識の進化的起源 カンブリア爆発で心は生まれた』(鈴木大地訳)
ピーター・ゴドフリー=スミス『タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源』(夏目大訳)
シモーナ・ギンズバーグエヴァ・ヤブロンカ『動物意識の誕生 生体システム理論と学習理論から解き明かす心の進化』(鈴木大地訳)
ファインバーグ&マラットならびにギンズバーグ&ヤブロンカの訳者は、本書の著者の一人でもあり、両者は本書でも取り上げられている。とりわけ本書では、ギンズバーグ&ヤブロンカの考えをベースにしながら、それをさらにアレンジしているようである。
自分はトッド・E・ファインバーグ,ジョン・M・マラット『意識の神秘を暴く 脳と心の生命史』(鈴木大地 訳) - logical cypher scape2を読んだことがあるが、ちょっとこれだけだとまだよく分からないなーと思っていたところ。
また、生体の科学 Vol.73 No.1 2022年 02月号 特集 意識 - logical cypher scape2で、鈴木さんが、ファインバーグ&マラットならびにギンズバーグ&ヤブロンカの紹介をしていた。
上記に挙げた本はいずれも気になってはいるのだが、どれも大部の本なので、手に取れていない。


なお、この本、話題としては心の哲学の本のように見え、実際そうなのだが、タイトルには「科学哲学」と冠せられている。
どういうことかといえば、意識についての科学研究を行うために、生物学への修正を迫るという内容になっており、その点で、科学哲学、特に生物学の哲学としての面も強いからである。

はじめに
意識のあらまし/意識の問題は解決困難か/意識の進化研究

第1章 意識
形態失認/盲視/意識的な視覚と無意識的な視覚/鳥類の視覚/「皮質中心主義」への批判/「意識を定義する特性」/生物学的自然主義と神経生物学的自然主義/意識の段階的な創発/相同のスコープ依存性/脊椎動物における視覚意識の進化/進化と多重実現/階層離断/意識は生存に貢献するか/半側無視/意識と報告能力を結びつける見解

第2章 行為者性
意識と行為者性を結びつける/意識と歯ブラシの掴み方/意識の役割/行為者性に高度な認知能力は不要である/理由と理解/行為者性の程度問題と多様性/人間中心主義とアナバチの「愚かさ」について/本能/理性二分法の崩壊

第3章 目的
ラマルクの目的論/アリストテレスの四原因説/ウォレスのラマルク批判/機械論/機械論と目的論の緊張関係/目的論のジレンマ/プラトンの目的論/アリストテレスの目的論/アリストテレスの目的論は従来の批判を免れる/目的指向性/目的論の自然化と目的律/目的論の自律性/表現型可塑性

第4章 意識と目的の進化
「進化の総合説」の拡張/双方向的な修正/目的指向性の進化/「生成評価の塔」/意識はどの段階で進化したか/意識と行為者性の進化/理由と理解の進化/「生成評価の塔」を評価する/意識と生存をどのように結びつけるか/意識は適応的な行為選択の土台である/意識研究の今後

あとがき

第1章 意識

この本、描写の哲学における二視覚システム理論 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめでも紹介されていたのだが、そこで取り上げられている二つの視覚システムの話が早速出てくる。
背側経路と腹側経路があって、腹側経路が損傷していると、形態失認とか盲視とか、視覚意識を欠く症状が出てくる。
一方、鳥類とかは視覚の経路が違う。
哺乳類は、夜行性を経て再度昼行性になったという進化史をたどっているので、視覚システムが二重化しているらしい(夜行性になった時に一度退化した仕組みを、別の経路で復活させた)


ちなみに、本書の話とは直接関係ないが、ナナイによる、画像の二面性と2つの視覚システムの話は以下
ベンス・ナナイ「画像知覚と二つの視覚サブシステム」 - logical cypher scape2
ちょっと気になったこと

ナナイによると、画像の二面性は人間の脳の視覚にかんする神経回路が二重化されてることで可能になっているのだけど、この視覚の二重システムは脊椎動物だと哺乳類にしか備わっていないらしく、それもかなり偶然の賜物(いったん夜行性になったのち、再度昼行性になったため)のようで、ということは、絵画的表象システム自体、かなり偶然性が高いんだろうか
爬虫類や鳥類から知的生命体が生まれたとしても、彼らは、画像を持たない?
仮に地球外知的生命体がいるとして、画像を持っているのは稀?
文字を持たないなら想像しやすいが、画像を持たないのはちょっと不思議な感じもする
https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3lb7tiggf5w26


閑話休題
ファインバーグとマラットの主張
「皮質中心主義批判」
意識には哺乳類のような皮質が必要、というのは皮質中心主義だ、と。
脊椎動物には意識があると考えている
相同な意識が非相同な神経基盤に支えられている、という主張。
進化において多重実現しているのだ、と
しかし、進化における多重実現とは、収斂進化による「相似」であって「相同」ではないのではないか
「階層離断」という現象が紹介される
線虫の陰門発生について、C.エレガンスとP.パシフィクスは、陰門の発生メカニズムが異なる(発生システム浮動)。相同遺伝子が関与している。
相同は、異なる階層レベルでは乖離していることがある、という現象
これ、倉谷滋『進化する形 進化発生学入門』 - logical cypher scape2で読んだ「深層の相同性」を想起したのだが、関係しているのかどうかはよくわからない。


なお、ファインバーグとマラットならびにギンズバーグとヤブロンカは、意識があるのは、脊椎動物節足動物、頭足類の3つの系統だと考えていて、これらでは独立に意識が進化したという。これら3つの系統に関しては、意識は相似


ファインバーグとマラットは、意識は生存に貢献する、と主張する
しかし、一般的には、意識は生存に貢献しないと考えられており、確かに、無意識的な視覚を失うほうが影響が大きそうだ、と。
皮質中心主義者は、報告能力と意識を関係させることが多い。
しかし、そうすると、報告能力を持たないっぽい動物は意識を持たないことになる。
次章では、報告能力が行為者性というところから検討される。

第2章 行為者性

報告能力は、高階の心理過程をつうじて意識と結びつく、と考えられている
が、実際の心理学では、報告能力には必ずしも高階の心理過程は必要ない。感覚刺激との対応を示す行為をする能力である。なので、高階の心理能力を持たないような動物でも「報告」できる。
また、人間による言語報告も、ある種の「行為」である。
しかし、そういう行為者性って、意識か無意識かは関係ないのではないか(盲視者も視覚刺激に対応した反応ができる)
これに対して、本書では、盲視者が視覚刺激に対して何等か返答するのは実験者に促されてのことであって、自ら視覚刺激について何か報告することはない、という点を指摘する
そして、ここでいう「行為者性」は「主体性」のことでもある、としている(英語にするとどちらもエージェンシー)
そして、このエージェンシーは、行為の理由・目的ともかかわっている。
喉を潤す「ために」コップに手を伸ばす、隣の人と感動を共有する「ために」声をかけるなど。
また、さらに、歯ブラシをつかむという事例があげられている。
歯ブラシをつかむとき、視覚意識があると、ブラシ部分ではなく持ち手をつかむだろう、と
このように道具を適切に持てるか、という実験が実際にある
その実験では、被験者に単語記憶課題を与えて道具を掴ませると、掴むことはできるのだけど、適切なつかみ方ができないという結果が出てくる。
背側経路によって、無意識的な視覚処理はされていてものを掴むことはできるのだけど、意識的な視覚からの道具の機能についての認識が阻害されたため、と解釈されている。
意識は、行為の目標の決定や行為の選択にかかわる


意識に高度な認知能力は不要
また、理由があることと、理由を理解していることは別。

第3章 目的

本書は、生物学には目的論が必要だと論じる。
しかし、目的論は、科学の世界では避けられてきた。
アリストテレスの四原因である目的因、質料因、作用因、形相因のうち、近代以降、目的因と形相因は排除された。質料因による還元的説明と作用因による因果的説明が科学的説明とされた。
ここでは目的論的説明の復権が目される。なお、形相因は本質主義と結びついており、やはり排除されてきたものの、近年やはり復権の試みはあるようだが、本書では、注釈で触れられるのにとどまっている。
目的論への批判としては、まずスピノザによる批判(原因と結果が逆になっている)がある
また、目的を意思や欲求に読み替える説明に対しては、擬人主義的という批判がある
自然科学では目的論が排除されて機械論が支配的になったが、生物学では、この両者の緊張関係が続く
ビュフォンは、機械論と目的論の両方の説明様式が必要だとした
カントもそれを踏まえており、両者の緊張関係がある
ウォレスなどは、進化論を機械論的に説明して、目的論のような非科学的なものではないとしたが、ホールデンやマイアは、生物学の中に目的論が避けがたくあることを指摘していた


本書では、目的論をプラトンの目的論とアリストテレスの目的論にわけて、後者は従来の批判を免れるとする。
内在的・自然的なアリストテレスの目的論は、スピノザ的な批判はあたらない。
また、意思や欲求ではなく「目的指向性」だとすることで、擬人主義という批判も免れる。
目的指向性は、サイバネティクスや一般システム論などに登場してきているという
目的論的な行動は、科学の範疇だと論ずる、一般システム論のベルタランフィの言葉が引用されている。


ところで、本書がとるみとは、目的論の自然化、ではないという。
目的論の自然化は、生物学において、目的を「機能」や「適応」と結びつけることで機械論へと還元しようとする動きである。
こういう文脈では、目的論ではなく「目的律」という言葉が使われるらしいが、目的律にはそういう意味合いがあるので、本書では使わない、とされている。
ところで、ファインバーグとマラットは、まさにこういう意味で目的律という言葉を使っているらしい。
目的論は機械論に還元することはできず、そして意識の科学にとって必要不可欠だ、というのが本書の立場である。
なお、表現型可塑性という概念が、かかわってくるらしい。

第4章 意識と目的の進化

本書は、自らの立場を「アリストテレス的な科学的自然主義」と呼び、さらにこの立場を「修正的な科学的自然主義」と位置づける。
これに対して、サールの「生物学的自然主義」やファインバーグとマラットの「神経生物学的自然主義」を「保守的な科学的自然主義」と位置づける。
具体的には、進化の総合説への修正を迫るものである。
ただし、一方的な修正ではなく、アリストテレスの目的論の方にも修正が必要だとしている。


目的志向性の進化を、デネットが提唱した「生成評価の塔」から考える
ダーウィン型生物→スキナー型生物→ポパー型生物→グレゴリー型生物というアレである
ギンズバーグとヤブロンカもこれを参照しており、意識は、スキナー型生物の段階からあるという
それは、彼女らが、意識と無制約連合学習を結び付けているからで、スキナー型生物は無制約連合学習をするからだ。

スキナー型生物が能動的かつ柔軟に振る舞うためには、感覚入力を単なる情報として受け取るだけでは不十分である。その生物自身がもつ理由や目的に照らして特定の行動を選択するためには、一人称的な視点から情報を享受する必要がある。さらにそれはその生物自身にとって特定の行動の結果がどのような価値をもつのかという評価と切り離せない。こうした評価と結びついた一人称的な視点からの情報享受こそが「意識的な経験」と呼ばれるものではないだろうか。(p.77)

(ところで、本書では意識の統一性についてはあまり触れられていないが、行為選択のための一人称的な視点というものをつくると、おのずと統一性も生じるのかな、と思った)
ただし、スキナー型生物は自らの目的や理由を理解しているわけではない。
ポパー型生物やグレゴリー型生物(=ヒト)になって高度な認知能力が伴うことで、自分の行動も目的や理由を理解することができる。
逆に、意識とは何か研究するためには、ポパー型生物やグレゴリー型生物になるまえの、スキナー型生物の段階の生き物を調べる必要がある(例えばヤツメウナギとかが候補になっているらしい)。
なお、鈴木貴之による、説明ギャップを架橋するには、そのギャップが最も狭いところが最適、という指摘もあるとか(この指摘面白い)。


意識は、それ自体では機能を持たないし、適応的価値を持たない、というのが本書の立場であり、その点で、ファインバーグとマラットの立場からは離れる。そして、ギンズバーグとヤブロンカの立場に近い。
本書では、意識を、多細胞体制になぞらえる。
多細胞体制も、それ自体で機能を持つわけではない。むしろ個々の形質(組織や器官)が機能をもつための前提である。
意識もまた、個々の形式(行為)が機能をもつための前提なのだ、と。
脊椎動物節足動物でボディプランが違うように、「マインドプラン」の違いが今後の研究課題になるかもしれない、とも(ゴドフリー=スミスの「タコであるとはどういうことか」という問いは、マインドプランについての問い)。
最後に、意識は行為選択の土台である、というこの考え方が、ハイエクにもみられることが最後に触れられていたりする。


ヤブロンカとギンズバーグは、アリストテレスの四原因とティンバーゲンの四原因とを対応付けている、とか。


意識を、体制になぞらえる、というのは、今まで全然なかった観点で、それでいて結構説得力もあって、すごく面白いなと思った。
意識はそれ自体としては機能を持たないけれど、それでいてなぜ重要なのか、ということがよくわかる