学生時代からタイトルは知っていたけれど未読だった。
いよいよこれは読まねばならぬか、と思ってから、さらに1年ほど経過してしまったのだが、とにもかくにも、ようやく読んだ。
いずれの作品もずしっと重い作品ではあるが、しかし、リーダビリティは高くて読みやすいし、そして面白い。
この翻訳の文体が、なんとなく今の自分にハマったのかもしれない。
「太陽の男たち」と「ハイファに戻って」は、話としての完成度も高い
「彼岸へ」はなんかかなりグサリと来た。イスラエルに対してだけの批難ではなくて、世界全体への批判となっている。そして、パレスチナ難民は、全体で一つの状態になっているのだ、というのは、言葉としてはわかるけれど、やはり実際どういうことなのか想像を絶する。
そして「ハイファに戻って」も、そんなことあっていいのか、というシチュエーションなんだけど、最後に主人公がいたる結論はやはりつらいものがある。
太陽の男たち
イラクのバスラからクウェートへの密出国の企てについて
3人の男(アブー=カイス、アスアド、マルワーン)がそれぞれ事情を抱えて、クウェートへ密出国するためバスラへとやってくる。それぞれ事情は少しずつ異なるが、みなパレスチナ難民で出稼ぎする必要が出てきたという点は同じ。近しい者の中に既にクウェートへ行った者もいる。
ただ、バスラで密出国のコーディネートをしている「デブ親爺」にふっかけられて、皆躊躇している。
そこに4人目の男アブ=ル=ハイズラーンが現れる。彼は、ある有力者の運転手をやっていて、検閲免除の車両をもっている。それに乗せてやる、というのだ。「デブ親父」よりも安いが、国境を越える際に車両の給水タンクの中に隠れるという提案だ。しかし、そのタンクの中は灼熱地獄となる。
非常にハラハラする展開で、バッドエンドを迎える。
実際のクウェートへの密出国は、本作で強調されているほど失敗率が高いわけではない、という指摘もされているらしいが
回想シーンと現在のシーンが区切れなく移行したりするのがやや独特
悲しいオレンジの実る土地
「ぼく」の住んでいたアッカーが攻撃され、難民になった日のことを、いとこの「きみ」に語る掌編
路傍の菓子パン
難民の子どもたちが通う学校の教員が語り手で、彼から見た、とある生徒ハミードの話
路上で靴磨きをしていた少年と、教室で再会してしまう。幸い、その少年ハミードの方は覚えていないようでそのことに安堵しつつ、以後、彼はハミードのことを気にかけるようになる。
難民となった子どもたちは、なかなか何があったかなどは話してくれないが、ある時、ハミードの父親が亡くなっていることを教えてもらう。
ハミードは今は、菓子パンを売っているという。映画館の前で、上映終了後に出てくる観客を相手にした仕事なので、かなり夜が遅い。
教員はハミードに対する同情を深めていくのだが、ある時、他の生徒から彼の父親は健在であることを知らされる。また、(菓子パン売りではなく)やはり靴磨きをしているところに出くわす。ハミードへの同情は疑念、不信へと変わるのだが、さらにその理由を明かされる。
最後に、ハミードが以前にも靴磨きで会っていたことを覚えていることがさらりと明かされて終わる。信頼関係を築くのは難しいっていう話だけれど、最後のこのオチで、主人公である教員が一杯食わされていたというか何というかそういう感じになっていて、ちょっとクスっとなった。
まあこの話も明るい話では決してないのだが、収録作品の中では一番ポジティブな読後感がある。
盗まれたシャツ
難民キャンプの話
夜中に排水溝を掘っている男。なかなか職を得られず、妻からはプレッシャーを受けている。息子にも新しいシャツを買ってやりたいと思っている。
と、そこに、知り合いの男がやってくる。支援物資である小麦粉の横流しをやっているらしく、その片棒を担がないかと声をかけてきたのだった。
逡巡するのだが、この前の配給が延期になったのはこいつのせいだったのかと気付いて、暴行にいたる。
彼岸へ
ある要職の男が帰宅する。夕食をとろうとした時に眠気に襲われ、夢ともうつつともつかない短い時間に、ある男から話しかけられる。
この短篇のほとんどは、その男のセリフから成り立っている。
その男というのは、要職の男が取り調べしていた際に窓から飛び降りた若者で、彼はパレスチナ難民がどうなってしまったのかを語るのだ。
俺は一つの状態なんだ。俺たちは一つの状態なんだ。(...)ねえ旦那さん、百万人の人間を一緒に溶かしちまって、それを一つの塊にしてしまうってことは、決して並のことではねえですよ。ですからそれには長い時間が必要だってことには、同意してもらえると俺は思いますがね。あんた達は、この百万人もの人間から一人一人が持ってる各自の特性ってやつを喪わせちまったんですよ。あんた達は、一人一人を見分ける必要なんかねえんですよ。だってあんた方が目の前にしているのは、状態なんですから。
難民キャンプが観光客の観光対象になっていたり、政治家たちがリーダーシップを示すための材料になっていたりすることも指摘されている。
つまりね、人間ってのは、たいてい自分がある場所で足場を得ると、”それじゃあ、どうする?”って将来のことを考えはじめるもんでしょう。何がいまわしいかって、自分に”それじゃあ”っていう先のことが、からきし与えられてねえってことがわかったとくらい、無惨なことはねえですよ。気が狂うんじゃないかと思うくらい、うちのめされちまいますよ。
戦闘の時
主人公の「ぼく」が「きみ」へと語りかける形式で書かれている
タイトルにある「戦闘」というのは、「ぼく」の家族がみな仕事がなく、食べ物を路上でかっぱらって生活していることを指す。
「ぼく」は、兄弟たちの中のリーダー格で、もうひとりオサームは、同居している叔父家族の子どもたちのリーダー格で、2人で毎日、野菜くずを集めている。
ある日、「ぼく」は、警官が紙幣を踏んでいるところを見つけ、反射的にその紙幣を奪い取る。それは「ぼく」の家族たちにとって大金であり、帰宅すると、その金をめぐって、家族間で熾烈な牽制が始まる。
ハイファに戻って
1967年、サイードとソフィアの夫婦は、20年ぶりにハイファに戻ってくる
20年前、イギリス軍の攻撃により、何もわからぬままハイファから脱出しなければならなくなってしまった日以来。2人は、ハイファに着くまで様々なことを話したが、一つだけ話していないことがあった。それは、あの日、ハイファに置き去りになってしまった生後5か月の息子のこと。
彼らが住んでいた家は、20年前と全く変わらずそこに建っていて、そして、見知らぬ老女が暮らしていた。ポーランドから移住してきたユダヤ人である。
アラブ人が住んでいた家にそっくりそのままユダヤ人を移住させていたらしい。
この1967年の帰還は、イスラエル側があえて国境開放したものらしい。
ユダヤ人たちは、家も家具も当時のままで暮らし続けていて、ユダヤ人たちは、よく来てくれた、待ってましたよを帰ってきたアラブ人を歓迎するのだが、それを見せつけられてアラブ人側はより苦しむ、という物語になっている。
このサイードとソフィアの場合、息子が生きていたことを知らされ、そして、20年ぶりの再会を果たす
しかしその再会は、決して感動の再会というものにはならない。彼は、サイードとソフィアのことを両親だとは思っていない。むしろ、何故今になって会いに来たのか、と糾弾する。
そして、サイードも、息子を一人失う
「私の妻は、われわれが卑怯であったことが、あなたが現在かく在ることへの権利を与えることになるかと尋ねているのです。御覧のように彼女は素直に、われわれが卑怯者であったことを認めています。その点においてあなたは正しいのです。しかしそれは、あなたに対して、何も正当化することにはなりません。誤りに誤りをプラスしても、その答えはやはり誤りでしかありません。」
サイードはなぜ取り戻そうとしなかったのかという彼の糾弾を認めつつ、しかし、そのことはイスラエルの入植を正当化しないのだ、と反論する。
「祖国とは過去のみだとみなした時、私達は過ちを犯したのだ。ハーリドにとって祖国とは未来なのだ。そこに相違があり、それでハーリドは武器をとろうとしたのだ。」
ハーリドは、サイード夫妻の二人目の息子である。彼は、アラブ義勇軍に入ろうとして、サイードはそれを止めていた。しかし、サイードは心変わりする。武器を取るハーリドにこそ、未来への希望を見て取るのである。