『文フリと批評』
今回、塚田君が寄稿していて、ひいては自分が久しぶりに文フリに行くきっかけとなった本
文フリの批評ジャンルに参加してる・してた人たち20名の寄稿によるもので、全部は読んでいないが、概ね自分が何故・どのように文フリに参加したのか・批評を書いたのか、ということを回想するエッセーなどが中心のようだった。
何となくだが、自分とは活動時期が重なってなさそうな人が多くて、その点で面白かった。
で、塚田君はというと、かつて『筑波批評』に書いていた「最強論」の続編みたいなものを書いていた。
まず、自分が把握してなかった文フリのこととして、東京流通センターへ会場が移ってからしばらくの間、参加人数は、蒲田で記録した最高記録を下回る数で横ばいだった、と。それが、コロナを挟んで、ここ数年で増加へと転じ、今回のビッグサイト会場変更へと繋がったらしい。
東京流通センターへ移った際に、広々としてゆったりした感じは覚えており、その後の参加者数横ばいも当時の実感とあっている。
一方、コロナ以降に参加者数が増加していたことは全然知らなかった。ビッグサイトと聞いて、流通センターへ移った時と同様、少し広々する感じになるのかなと思ったら、全然そんなことなくて、驚いたのだが、最近の文学フリマを知らなかったので、浦島太郎状態だった。
他に「そういう変化があったのか」と思ったのは、ノンフィクション(日記・エッセイ)ジャンルの伸張だった。
文フリは、批評ないし評論のジャンルが全体を牽引してきたと思うのだが、コロナ以降、ノンフィクションジャンルが拡大しており、人数増加もこのジャンルによるものらしい。また、この参加人数増大は、独立出版社ブーム・ZINEブームといったものとも通じているらしい。
短歌ジャンルがある時期から勢力を拡大していたのは知っていたのだが、このノンフィクションジャンルの伸張は全然知らない話だった。
また、誰だったかが、ここ最近文フリに参加するようになった編集者が、地方の文フリに行くとオタクがいる(文フリには場違いだ)、と眉をひそめていたというエピソードを書いていて、これも面白かった。日記・エッセイ・独立出版社・ZINEというのが、文フリをちょっとオシャレな場所にさせているのであって、コロナ以前から文フリに参加していたかどうかで、参加者の世代差みたいなのが出てきている、とかなんとか。
さて、本誌の寄稿者は、それなりに多岐にわたっており、バックボーンや文学フリマ・批評に対するスタンス、あるいは世代もそれぞれ異なる。なので、全員に共通している主張とかはないのだが、ざっくり読んだ感じ、以下のような雰囲気を何となく感じた。
まず、流通センター時代を、停滞期・マンネリ期のように感じている人が多かったように思う*1。
それから、寄稿者の多くが、僕よりも少し年下で、30代前半から半ばくらいで、20代の活動を回顧しているのかなと思う。で、ここから先は、完全に僕の思い込みも含むような感想なのだけど、20代半ばや後半の焦燥感みたいなものと、文フリの停滞感ないしは文フリに対する違和感みたいなものを、何となく重ね合わせているのかなあと思った。
繰り返しになるが、人によってスタンスが色々違うので、当てはまらない人も多くいる。
ここに書いている人たちの多くが、文フリや批評を手放しで全肯定しているわけでもなく、また、自分が文フリや批評というカテゴリーに完全に当てはまっていると思っているわけでもなく、色々な違和感みたいなものを抱えていて、それに対して、自分の活動を立ち上げていく、みたいな経緯があるのかな、と。
そして僕は、そこに何となく、年齢的なものもあるのかな、とは思った。
それは自分がまさに20代後半には、焦りみたいなものを感じていて、それが『フィクションは重なり合う』を書かせたからで、逆に自分は、文フリや批評へ思いを馳せることはあんまりなかったので、ここに書かれている内容を自分なりに理解するにあたって、「20代後半ってそういう思いにかられるよね」と勝手に自分に引きつけて読んだ、ということでもある。
30を過ぎて、そういうのからは少し解放されて振り返っているのかなあ、とも。
『かわいいウルフ』の人。そういう本があるのは知っていたが、知ったのは2019年当時ではなく、それより後だったと思う。
自らの活動を「20代の卒論」と呼んで回顧している(ただし、最後に「卒論」ではなく「手紙」だったと言い換えているのだが)。全然僕とは種類の異なる活動をしているが、「20代の卒論」という言い方には共感してしまった。
ところで、この『かわいいウルフ』というのはのちに商業出版されており、この後に掲載されている他の人たちの文章を見るに、文学フリマにおける同人から商業へ、みたいなルートを代表する1つっぽい。
批評再生塾出身で『LOCUST』の人。『LOCUST』って思ったより最近だった。
文フリ東京の会場がビッグサイトになることを批判する文章がnoteに載って話題になったらしいのだが(それも知らなかった)、それに反論する内容
資本主義の何が悪い(文フリ事務局が利益を出して何が悪い)、というもの
- 後藤護(暗黒綺想家) 文フリ史上もっともニャーンセンスな傑作
ゴシック・カルチャーの本を出している、ということで名前は見た記憶があるが、文フリでの活動については知らなかった。
内容は、本人の活動というよりは、文フリで見かけた「ニャーン」な本について書かれているもの
- 瀬下翔太×ジョージ×麗日 文フリと批評をめぐる私的回顧 2008-2024
本書の寄稿者の中では、もっとも古く、長く文フリを見てきたのかな、と思われる瀬下くん
そうか、東スレのコテハンだったか
本誌の主宰である麗日さんが、ビッグサイトに移転するこのタイミングで、証言として記録しておきたい、というようなスタンスで望むのに対して、それをそれぞれのスタンスで拒もうとする2人、という、ちょっと緊張感のある座談会として読んだ。
- 山本浩貴(いぬのせなか座) 文学フリマは何を代表し、いかなる場となったか ――あるいは小説・詩歌の実作者である私らはなぜ「評論」カテゴリを選んだか
上の方に全般的な感想として書いた文フリの変化だが、これは概ね、瀬下・ジョージ・麗日座談会と、この山本エッセーに由来している。
いぬのせなか座については、自分は『SFマガジン』の異常論文特集で知ったが、文フリでの活動については知らなかった。
サブタイトルにある通り、「小説・詩歌の実作者である私らはなぜ「評論」カテゴリを選んだか」ということが書かれている。
もともと山本は、早稲田文学のバイトとして文フリに参加していて、つまり、労働として行っていた、と。
いざ、自分がサークル参加することになった際、内容としては小説・詩歌だけれども、小説・詩歌ジャンルに人がなかなか来ないことを既に経験として知っていた。一方で、ノンフィクションジャンルにも惹かれるところがあったが、そこもまた違う、と。
そうなったときに、指針となったのがTOLTAであった、と。
TOLTAは現代詩のサークルだけれど、文フリには評論ジャンルでずっと参加している。
そして、TOLTAの文学フリマをハックするような実践にも惹かれるものがあった、と。
自分もTOLTAのことは当然知っていたし、いつも面白いことやっているなあと思いつつ、しかし、あまりフォローはできていなくて、実際に買ったりしたのは少ししかない。
だから、この本でTOLTAのことが大きくフィーチャーされているのは、いいことだなと思った。
黒嵜想という名前と、即売会ではなくあちこちで直接手売りしている『アーギュメンツ』の存在は、twitter(当時)で見て知っていた。
すごいことやっているなあと思いつつ、当時、わりと遠巻きにみていた感じなので、詳しくはよく知らなかった。
あまり本を読まなかったが、NUM系の古本屋によく行っていたという高校時代の話から始まり、ゲンロンカフェに辿り着き、批評というのに出会えた喜びと東京ではこんなことしやがっていたのかという妬みがあり、金がなくて行く場所がないというと、齋藤恵汰を紹介されて渋家に行ったという話が書かれている。『アーギュメンツ』ももとは齋藤恵汰の発案で、2号から編集権を委譲されたのだという。
『アーギュメンツ』はめちゃくちゃ売れて話題になったわけだが、主な読者は、芸大・美大生だったらしい。そして、美術手帖にも取り上げられる。
ただ、これは黒嵜が思っていたこととは違ったようで、そこの違和感といったことも綴られている。
詩作品
『近代体操』発起人の一人
タイトルにある、文学フリマのシニシズムとは、まあみんな買っても読んでないよね、みたいなことで、ただ、自身もサークル参加したことで、文学フリマに利用価値があることには気付く
ところで、文フリの発端となった笙野頼子と大塚英志の論争を紐解いており、笙野頼子の仮想敵は大塚ではなくむしろ柄谷行人であり、また、大塚も件の論文に柄谷行人へ言及していることを指摘している。柄谷行人による、文学にはもう公共性ないよねという提起に対して、笙野と大塚はそれぞれ異なる反応したのだ、と。
ところで、大塚は件の論文で、文学がビッグサイトを一杯にすることはない、と書いているが、文フリはビッグサイトに会場を移した。しかし、じゃあ、大塚が文学フリマを提案した時に実現しようとしていたことができているのか、といえば、決してそんなことないんじゃないか、と。
文学フリマというシステムに依存せず、うまく利用しながら、やっていきましょう、と。
- 森脇透青 ひとはいかにして批評系同人誌をつくるのか、あるいは批評の黄昏
同じく『近代体操』の発起人
この人の名前は、やはり旧twitterで見たことがある。確か、批評の話題の中で見かけたのだと思うけれど、文フリで活動している人というより、デリダの若手研究者かーと認識したような記憶がある。
『大失敗』という批評誌を2号、『近代体操』を2号発行した、と。
文フリでやっているような批評とは必ずしも近しくはなかったようだが、修士学生の頃、『夜航』の中村徳仁と偶々飲み会で居合わせ、中村が、将来の思い出のために同人誌を作っていると言ったことに対して、激昂し、それを友人に伝えたら、じゃあ自分で作ってみろよ、と言われて、批評系同人誌を作り始めたというエピソード
また、『大失敗』は、外山恒一論を書いて外山恒一に声をかけられたり、絓秀実の寄稿があったりで、話題になったらしい。外山恒一についていうと、瀬下・ジョージ・麗日座談会でも言及があり、コロナの自粛期間中に外山合宿というのがあったらしい。
後半は、最近の文学フリマや出版業界、特に批評をめぐる状況について論じている。
このあたりの主張内容は、上述の松田論とも通じるところがあって、出版社がどんどんダメになっていって文フリに入ってきていることを批判しつつ、文フリは文フリであっていいものだけど、それだけじゃだめでオルタナティブも模索しよう、というような感じだったかと思う。
この方は、俳句をやっているらしく、タイトルは、短歌ジャンルに対する思い
で、内容も実は短歌ジャンルの話で、そもそも俳句をやる前は短歌もやっていたということで、短歌ジャンルで何故文学フリマでこれだけ人気ジャンルになったのか、ということを解説してくれている。
短歌ジャンル、流通センター時代にいつの間にか巨大化していて、気になりつつも自分にとって謎の存在だったので、勉強になった。
現代詩の話
2000年生まれということで、若い人だなあ、と
販促をすることとか実績を積むこととか、それに対して自分が他者から「解釈」されてしまうこととかについて、非常に真面目に取り組んでいる人だなあという印象
2001年生まれで、本書寄稿陣の中で最年少の方かな?
20歳の時に、折口信夫論で三田文學新人賞評論部門を受賞しているとのこと。
文学フリマには『近代体操』や『ぬかるみ派』などに寄稿していた、と。
- いなだ易×pirarucu×麗日 インディー「フェミニズム批評」シーンをめぐって2019-2024──てぱとら委員会に聞く
時期的に知らない、というのもあるけど、全然知らない名前のオンパレードだった。
いなだ易とpirarucuは、ともに、てぱとら委員会として、東京と大阪の文フリにサークル参加している。
文フリは、コロナ禍以後、ジェンダー・LGBTQジャンルのサークル数が急増しており、また、そうではないジャンルでも、フェミニズム批評が増えている、と。
その背景として、ひらりさ、水上文の活動・論争が解説されている。
ひらりさは、女オタクのエピソードなどを集めた冊子を刊行し、同人と商業とにまたがって活動
水上は、そのひらりさ批判を同人誌と『ユリイカ』とに書いている。エピソードを羅列するだけではエピソード間の差異が分からなくなる。差異を示すのに批評とフェミニズムが必要、というのが水上の主張、とのこと
とか読んだあとに、ひらりさ本人の寄稿が続く
学生時代に、BL批評を書く先輩に惹かれて、BL批評を書いていた頃の話
ところで、そこで出てくるアリス先輩、たぶん自分も相互フォローしてる人だ。まさか、こんなところで遭遇(?)するとは思わなかった。
かつて、文フリで買った、ポルノ批評3冊を紹介
加速主義的言説の前史として。
上にも書いたけど、『筑波批評2009夏』に掲載した「最強論」の続編みたいな話を書いている。
SNSに見られる分断状況を、互いに相手をNPCと見なす振る舞いとして分析している。相手のことをNPCと見なして振る舞うこと自体が、相手からはNPCとして見える、という指摘は、塚田君的な面白い表現だなと思った。
一方、最後の方、よくない状況を打破する言葉を批評には期待する、というような結論に至る流れは、具体性がないというか、文フリと批評というテーマにあわせるために無理にたたんだよね、これ、とは思った。しかしまあ、そこを膨らまそうと思うと、大変すぎるので、まあいいか、とも思う。
この本を手に取って、まず塚田君のを最初に読んだのだけど、その後、他のを一通り読んだあとだと、明らかに一人浮いているので、ちょっと面白かった。
他の人たちは、だいたいみんな、いつ頃に何の雑誌をやっていたのかが書かれているのに、それがない。「最強論」についても、内容の言及だけで、論文名も掲載誌名も書いていない。
2017年、大阪の文フリの風景
素朴な同人誌から洗練された同人誌への変化が書かれているが、そうか、大阪だと2017年頃にはそういう感じだったのか、と思った(東京ではさらに何年も前に起きていた変化だと思うので)。
自分も、自分と文フリとの関わりを回顧してみたくなった。
2007/11/11 |
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こうやって書き出してみると、思いのほか、参加回数多かった。こんなに行ってたのか、と。
2007年の初参加から2018年までの約10年間は、概ねコンスタントに参加していたといえるのではないか(2015年と2017年を除き、少なくとも年1回は行っている)
秋葉原時代に3回も行ってたのか自分、とか。
こうやって見ると、蒲田時代は短くて、流通センター時代って長かったんだなーとか。
うーん、蒲田で4回、流通センターで5回もサークル参加した記憶がないんだよな……いや、これは別に文フリに限った話でなく、自分のエピソード記憶の弱さによるものではあるんだけど
でもって、今回は6年半ぶりの参加だったのか。そりゃ浦島太郎状態にもなる。
上の表に少し捕捉する。
自分の初参加はいきなりサークル参加なのだけど、シノハラユウキ名義での参加で、筑波批評での参加ではない。が、それ以降は、基本的には筑波批評での参加となる。
2008年の第7回がゼロアカ道場。
2009年の第8回に、自分は『Twitter本』というのも出している。会場が秋葉原から蒲田へと変わり、文フリ参加者が利用するwebサービスも、はてなダイアリーからtwitterへと変遷したように思う(ゼロアカ当時から既にtwitterはあったし、2008年以降もはてなは使われていた。しかし、大勢が変化した時期はそのあたりだったと思う)
2011年の第12回には、『ボカロ・クリティーク』(コピー本)を島袋八起さんが出していて、それに僕も参加した。2012年の第15回は、その島袋八起さんが主宰するサークル「フミカレコーズ」として参加して、筑波批評では参加しなかった。
2013年の第17回が筑波批評としては最後の参加で、2016年の第22回は、シノハラユウキ名義での参加だった。
本書では、文学フリマという場所・システムに対しての意見・思いも色々と書かれているけれど、自分はそのあたりのことはあんまり考えたことがないかもな、と思った。
流通センター時代に参加人数が伸び悩んでいたことについて、確かに当時、それに対して何某か言っている人たちがいたような気もするのだけど、自分としてはあんまり意識していなかった気がする。
一方、批評についてはどうか。
本書では、批評(文学フリマのジャンルコードでいうなら「評論」)ジャンルで活動しつつも、自分の活動は批評や評論ではないんだけどなあ、というようなことを書いている人たちも結構目に入る。
自分の場合、「評論」については違和感を抱いていないものの、「批評」についてはしっくりこないところがないわけではない。
いや、ある意味では確かに批評を書いていると思う。しかし一方で、人が批評について話したり書いたりしているのを見て、自分が書いているものは、そこで言われている批評とはなんか違うな、と思うことも多々ある。
そういう中で、なんとなく軸足を分析美学の方へ移していっているところがあったな、と思う。
もっとも、お前のことがやっているのは分析美学か、と正面切って聞かれるとそこもごにょごにょしてしまって、正直、批評と美学のあいだでコウモリのようなことをやっている気はする。
それは自分の強みでもあれば、弱みでもあるだろうとは思うが。
文フリ参加は2016年が最後だが、2021年にも本は作っている。
これ、当初の構想というか妄想では、地方の文フリを回りたいと考えていた。
しかし、コロナとか色々あってイベント参加は難しいなと思い始めて、通販だけで売るか、とか考えていた時に、KDPでペーパーバック版のサービスが始まっていることを知って、それを利用することにした。
文フリなどの即売会イベントを全く介さない状態での発行となり、果たして大丈夫だろうか、と思ったのだが、結果的に、文フリで売るのとはまた違ったところにおそらく届いたようだ、という感触があった。
というわけで、文フリと批評についての自分語りが、文フリと批評から離れたところに着地してしまったところで、しまいとする。