『物語の外の虚構へ』リリース!

(追記2023年6月)
sakstyle.hatenadiary.jp

一番手に取りやすい形式ではあるかと思います。
ただ、エゴサをしていて、レイアウトの崩れなどがあるというツイートを見かけています。
これ、発行者がちゃんとメンテナンスしろやって話ではあるのですが、自分の端末では確認できていないのと、現在これを修正するための作業環境を失ってしまったという理由で、未対応です。
ですので、本来、kindle版があってアクセスしやすい、っていう状況を作りたかったのですが、閲覧環境によっては読みにくくなっているかもしれないです。申し訳ないです。

  • pdf版について(BOOTH)

ペーパーバック版と同じレイアウトのpdfです。
固定レイアウトなので電子書籍のメリットのいくつかが失われますが、kindle版のようなレイアウト崩れのリスクはないです。
また、価格はkindle版と同じです。

(追記ここまで)

(追記2022年5月6日)


分析美学、とりわけ描写の哲学について研究されている村山さんに紹介していただきました。
個人出版である本を、このように書評で取り上げていただけてありがたい限りです。
また、選書の基準は人それぞれだと思いますが、1年に1回、1人3冊紹介するという企画で、そのうちの1冊に選んでいただけたこと、大変光栄です。
論集という性格上、とりとめもないところもある本書ですが、『フィルカル』読者から興味を持ってもらえるような形で、簡にして要を得るような紹介文を書いていただけました。


実を言えば(?)国立国会図書館とゲンロン同人誌ライブラリーにも入っていますが、この二つは自分自身で寄贈したもの
こちらの富山大学図書館の方は、どうして所蔵していただけたのか経緯を全く知らず、エゴサしてたらたまたま見つけました。
誰かがリクエストしてくれてそれが通ったのかな、と思うと、これもまた大変ありがたい話です。
富山大学、自分とは縁もゆかりもないので、そういうところにリクエストしてくれるような人がいたこと、また、図書館に入ったことで、そこで新たな読者をえられるかもしれないこと、とても嬉しいです
(縁もゆかりもないと書きましたが、自分が認識していないだけで、自分の知り合いが入れてくれていたとかでも、また嬉しいことです)

(追記ここまで)


シノハラユウキ初の評論集『物語の外の虚構へ』をリリースします!
文学フリマコミケなどのイベント出店は行いませんが、AmazonとBOOTHにて販売します。

画像:難波さん作成

この素晴らしい装丁は、難波優輝さんにしていただきました。
この宣伝用の画像も難波さん作です。

sakstyle.booth.pm

Amazonでは、kindle版とペーパーバック版をお買い上げいただけます。
AmazonKindle Direct Publishingサービスで、日本でも2021年10月からペーパーバック版を発行が可能になったのを利用しました。
BOOTHでは、pdf版のダウンロード販売をしています。

続きを読む

2024年振り返り

2024年の振り返りをするにあたって、2023年まとめ - logical cypher scape2を読み直していた。
2023年は、しばらく行けていなかった美術展や映画館にまた行くことのできた年として記録されていて、美術展3つ、映画館で4本の映画を見に行っていた。
対して、2024年は、美術展1つ、映画館で見た映画は1本とやや退潮した。
一方で、2023年の年末に「音楽イベントはまだしばらく行けないと思う」と書いていたが、2024年は8月にナナシスのライブに行くことができた(Tokyo 7th Sisters LIVE DIVE TO YOUR SKY!! day2 - プリズムの煌めきの向こう側へ)。
また、12月には文学フリマにも行ってきた。実に6年半ぶりの(一般)参加だった。
ブログの記事数を見ると、100記事を超えており、2020年以降2桁だった記事数が、3桁台に復活した。
読んだ本は、正確には数えていないが、大体70冊くらい。
今年は新書とか小説とかで冊数を稼いだ気がする。比較的時間のかかるものもいくつか読んだはずなので、結構読むことができたな、と思う。

達成状況?

2023年の振り返り記事では、自分にしては珍しく、というか初めての試みとして「来年に向けて」という項目を立てていた。
達成状況を確認してみる。

  • 小説
    • 海外文学:2023年に読み損ねた本を拾う

まあまあ達成した。

    • SF読む比重を増やす

達成した。

  • 美学・美術・表象文化論
    • 直近で、美術系で2冊くらい読みたい本がある

ここで念頭に挙げていた2冊のうち1冊は読んだ。

未達成

    • 恐竜表象・恐竜文化とか科学表象とかもちょっと拾えたらいい

うーん、少し読んだと言えば読んだが、昨年末に想定していたものではない気がする。

    • 英語の本

もともと英語を読むことを目標に掲げていなかったが、少し読んだ(本の中の章を1つと論文いくつか。本1冊は読めていない)。

もともと、上で挙げた英語の本はゴンブリッチを念頭に置いていたが、ゴンブリッチは手つかず。しかし、ゴンブリッチについて扱っている清塚本は読んだ。

  • 哲学・科学哲学
    • 実在論とか科学表象とか科学哲学関係で読みたい本が数冊

これはほぼ未達成。『客観性』くらいか。

    • ぽろぽろ単発的に読みたい本はある

未達成

  • 世界史

これは十分達成
むしろ、今年の1~7月はほとんどこれだった。

  • 自然科学
    • 進化生物学あたりで読みたい本がぽろぽろあって、集中的に読めたら読みたい

未達成

ここでいうセール中に買った本が正確にどれだったか忘れてしまったが、おそらく4冊中2冊は読んだ。

こういうのがあると、色々と自分の状況が見れるし、読んでいくときも「ここが進展したぞ」などと確認できるのは面白いが、一方で、全然進展していないことも可視化されるので、そこは辛い。
まあ、達成したかどうかはあまり重要ではない。
読みたい本というのは、次から次へと無秩序に増えていって収集がつかなくなるので、「じゃあ次に何を読むのか」という時の指針である。
計画をガチガチに立ててそれに縛られてしまうのもつまらないとは思うが、気が移ろいやすく「あれも読みたいし、これも読みたい、どれにするか決められない」となりやすいので、ルートを決めて読んでいくのもそれはそれで楽しかったりする。
特に今年は、上半期(1~7月)は、かなり方向性を絞って本を読んでいた。
その反動か、下半期は、迷走気味な読書になった。
方向性を定めて本を読んでいく方が充実感はある。
しかし、他のジャンルの本も読みたい、という気持ちがたまってくる。

世界史

世紀転換期・戦間期読書まとめ - logical cypher scape2
これについては、上にまとめたものに尽きる
これまでも、〇〇月間みたいにして、特定のテーマについて読んだりしたことはあったけど、半年間同じテーマについて読むのは初めてだった。

SF

今年は、新刊と古典とを織り交ぜて読むことができた。
新刊といっても、去年読めていなかった分とかなので、今年の新刊はあまり手を出せていない。今年、国内SFで結構読みたい本が増えているので、これは来年の課題としたい。

新刊系



新刊系だと、この2冊が特によかったかな、と思う。

アンソロジー



こういうアンソロジーはなかなか当たり外れがあるけれど、この2冊はわりと良かったんじゃないかと

古典系

『20世紀SF〈3〉1960年代・砂の檻』 - logical cypher scape2を読んだのを機に、ちょっと古いものも読んでみようかなと思い立った。
そういうのに手を出し始めると、読みたいものがどんどん増えていくわけで、読みたいけど読めてない本はまだまだあるが


この2冊、もともと超有名作品だけど、かなり面白かった。
ほかには以下の通り。

ブルース・スターリング『蝉の女王』(小川隆・訳) - logical cypher scape2
ラリイ・ニーヴン『無常の月 ザ・ベスト・オブ・ラリイ・ニーヴン』(小隅黎・伊藤典夫訳) - logical cypher scape2
グレッグ・ベア『鏖戦/凍月』 - logical cypher scape2
ブライアン・オールディス『地球の長い午後』(伊藤典夫・訳) - logical cypher scape2

その他リスト

上記にあげた以外で読んだSF作品(若干SFでないものも含む)
『SFマガジン2023年12月号』 - logical cypher scape2
上田早夕里『ヘーゼルの密書』 - logical cypher scape2
ルーシャス・シェパード『美しき血(竜のグリオールシリーズ)』 - logical cypher scape2
ルーシャス・シェパード『タボリンの鱗 竜のグリオールシリーズ短編集』 - logical cypher scape2
キム・スタンリー・ロビンスン『未来省』 - logical cypher scape2
『星、はるか遠く 宇宙探査SF傑作選』(中村融編) - logical cypher scape2
ジェフリー・フォード『最後の三角形 ジェフリー・フォード短篇傑作選』(谷垣暁美・訳) - logical cypher scape2
津久井五月「われらアルカディアにありき」「ラスト・サパー・アンド・ファースト・サマー」「川田さんの遺書」 - logical cypher scape2
ラヴィ・ティドハー『ロボットの夢の都市』 - logical cypher scape2
『Kaguya Planet vol.2 パレスチナ』 - logical cypher scape2
『SFマガジン2024年12月号』 - logical cypher scape2
春暮康一「滅亡に至る病」 - logical cypher scape2
『日本SFの臨界点 中井紀夫 山の上の交響楽』(伴名練編) - logical cypher scape2
ブライアン・オールディス『地球の長い午後』(伊藤典夫・訳) - logical cypher scape2
アーカイブ騎士団『明治スチームパンク小説集』『写真SF小説集』(文学フリマ東京39) - logical cypher scape2

文学

国内

磯崎憲一郎『日本蒙昧前史』 - logical cypher scape2
佐藤亜紀『ミノタウロス』(再読) - logical cypher scape2
松永K三蔵「バリ山行」(『文芸春秋』2024年9月号) - logical cypher scape2
『文学+』4号 - logical cypher scape2
国内についてほとんど読んでいない感じ
今年は、優先度も下げていたのでまあこんなもんかな、と。
以前、最近読んだ文学 - logical cypher scape2にまとめたけど、戦後文学というか、第三の新人世代前後の短編小説などをちょいちょい読む、ということをしたけれど、今後、もう少し時代を遡っていこうかなあと思っている。
一方、現代の作品もまあ読みたい。

美学・美術・文化論・物語論・フィクション論

美術



今年はこの2冊を読めたのがよかった。
あとは、デ・キリコ展 - logical cypher scape2に行き、長尾天『もっと知りたいデ・キリコ』 - logical cypher scape2を読んだ。
全部、上半期だな。

描写の哲学


これも読めてよかった本
大変、勉強になった。

美学その他

応用哲学会2024年大会 - logical cypher scape2
銭さんのジャンル論面白かったです。博論書籍化希望~と外野がてきとーに言ってみる

物語論・フィクション論

想像のobjectと想像のvividness - logical cypher scape2
小池隆太のマンガ・アニメに関わる物語論関係の論考を読んでのよしなしごと - logical cypher scape2
『ユリイカ2023年11月臨時増刊号 総特集=J・R・R・トールキン』 - logical cypher scape2
最近、フィクションの哲学をやっている人として、岡田進之介さん、気になっている。
また、フィクションの哲学というよりも物語論をもう少しちゃんと勉強しないとなーという気持ちも出てきているが、手つかず。

文化論


これもよい本でした。

科学表象・科学哲学・動物の美学

科学表象


今年の下半期は、これを読めたのが個人的な大きな出来事
ずっと読みたい本としてあがっていたのだが、どうにか年内に読むことができた。
こういう大著を読めてよかった。
科学史の本


応用哲学会2024年大会 - logical cypher scape2
これ、記事タイトルが「応用哲学会」になってるけど、最後に応用哲学会と全然関係なく、橋本毅彦のサーベイ論文についての感想も書いてて、この論文の中でも『客観性』が触れられている。

恐竜・動物

Allen A. Debus”Rex Battles”(”Prehistoric Monsters: The Real and Imagined Creatures of the Past That We Love to Fear”より) - logical cypher scape2
Michel-Antoine Xhignesse "Imagining Dinosaurs" - logical cypher scape2
Michel-Antoine Xhignesse"Distant Dinosaurs and the Aesthetics of Remote Art" - logical cypher scape2
Thomas Leddy"Aesthetization, Artification, and Aquariums" - logical cypher scape2
久しぶりに英語読むのが復活。10月頃。
1つ目は恐竜表象についての本の中の章を1つ。
それから、恐竜表象についての美学の論文が出ていることを知ったので、2本読んだ。確かこの論文は、村山さんがXで紹介していたのを見て知ったのだと思う。
その勢いにのって、難波さんがブログで紹介していた動物の美学についての論文。
そこで紹介されていた他の論文も引き続き読もうと思っていたのだが、力尽きてしまった。英語読む気力が続かない。

科学哲学・心の哲学

田中泉吏・鈴木大地・太田紘史『意識と目的の科学哲学』 - logical cypher scape2
小草泰・新川拓哉「意識をめぐる新たな生物学的自然主義の可能性」 - logical cypher scape2
哲学の本を読むのは、なにげに相当久しぶりだったような気がするのだが、意識の研究については、去年も一昨年も年に1,2冊程度は読んでいて、何というか「まとめて勉強するぞ」という程ではないんだけど、自分にとって関心が継続的に維持されている分野なんだな、と思う。

宇宙


伊勢田哲治・神崎宣次・呉羽真編著『宇宙倫理学』 - logical cypher scape2
向井千秋監修・東京理科大学スペース・コロニー研究センター編著『スペース・コロニー 宇宙で暮らす方法』 - logical cypher scape2
『宇宙倫理学』を1月、『スペース・コロニー』を5月、『宇宙開発の思想史』を9月に読んでおり、つまりバラバラに読んだのであって、何かテーマがあって読んだわけではないんだけど、何となく宇宙科学ではなく宇宙開発ってどうよ、という方向で本を読んでいる感じだな。

映画

ジョン・ウィックシリーズ - logical cypher scape2
ガメラ2 レギオン襲来 - logical cypher scape2
『デューン砂漠の惑星PART2』 - logical cypher scape2
『シビル・ウォー』 - logical cypher scape2
『KCIA 南山の部長たち』 - logical cypher scape2
劇場で見たのは『シビル・ウォー』、面白かった。
KCIA』は、今後『ソウルの春』『タクシー運転手』を見るための前哨戦みたいな位置づけで見た。

『物語の外の虚構へ』反応

大木 志門 (Shimon Oki) - 「文豪とアルケミスト」から考える現代の「文学散歩」―コンテンツツーリズムとフィクション論の観点から - 論文 - researchmap
エゴサしてたら見つけた。
論文が出てるのは3月頃だけど、見つけたのは12月
筆者は、researchmapによると、日本近現代文学徳田秋聲水上勉)を専門としている東海大の教授で、なんか文アル関係のこともやっている、みたい?(7月に文アルとタイアップした石川啄木作品集の編者になっている)
この論文は、コンテンツツーリズムからということで、岡本健→谷川嘉浩→シノハラユウキという感じで、コンテンツツーリズムとフィクション・想像の関係についてサーベイしてくれていて、さらに、フィクションの哲学つながりで石田尚子論文にも触れられている。
あと、文アルはもちろん元はゲームなので、ゲームについての言及もしていて、その中で松永本のことも引用しており、文学の論文なのだが、分析美学の引用がわりと多い論文となっている。
『物語の外の虚構へ』については以下をどうぞ

来年に向けて

去年にならって今年も……とはならないのだった。
去年に書いたやつで未達成のものを読みつつ、しかし、改めて読みたいものの優先度は整理しておきたい。
っていうか、来年は40になるな……
何か新しい趣味を作りたいという気持ちが少しありつつ、そんな時間捻出できるのか感もありつつ。


というわけで、今年はこんな感じでした。
また来年もよろしくお願いします。

ロレイン・ダストン、ピーター・ギャリソン『客観性』(瀬戸口明久・岡澤康浩・坂本邦暢・有賀暢迪訳)

科学的図像の実践から紐解く、「客観性」をめぐる科学史の本。
「客観性」という概念は、古くから、少なくとも科学が生まれてからずっとあったように思われるけれど、そうではなくて、比較的新しい概念であることを提示する。
本書は「認識論的徳」、つまり科学的であるためにはこのようにするべきだ、という理想が、歴史的に変遷してきたことを示し、「客観性」は、ある時代の特有の認識論的徳であると論じている。
具体的には、以下の3つの認識論的徳が取り上げられている。
18世紀:本性への忠誠・四眼の視覚
19世紀:機械的客観性・盲目的視覚
20世紀:訓練された判断・観相学者の視覚
(※後ろの「~の視覚」は、その徳を発揮するために必要とされるもの)
客観性(ないし機械的客観性)は、19世紀に生まれたものであった、と。
しかし、気をつけなければいけないのは、これはパラダイムの変換のように違う徳へと切り替わっていったという話ではないこと。
「本性への忠誠」は、18世紀に重要視された認識論的徳であり、19世紀以降、客観性という徳と対立するようになり、主たる地位は奪われることになるが、しかし、なくなったり廃れたりしたわけではなく、現在もなお生き残っている。
また、認識論的徳は、科学者に対してある種の義務を課す。
科学者は、そうした徳に従って、科学者としての自己を形成していく。
だから、客観性は主観性(自己)と対をなす。主観性なくして客観性はない。
また、本書は、こうした認識論的徳や科学者としての自己の歴史を、科学の実践の中から論じていく。
より具体的には、アトラスと呼ばれる一群の科学的図像である。
その時代によって、アトラスに収録されている画像の特徴は変わっていく。そこから、どのようにそれらの画像が作られており、ひいては、どのような画像が「科学的」だと考えられていたのかが見出されていく。


第1章では、本書全体の流れが示される。
第2章では、本性への忠誠について、第3章では、機械的客観性について、第6章では、訓練された判断について、それぞれ扱われる。
また、第4章は、機械的客観性の時代の科学的自己についてが扱われる。
さて、大雑把にいって、18世紀が本性への忠誠の時代、19世紀が機械的客観性の時代、20世紀が訓練された判断の時代なわけだが、
20世紀初頭、機械的客観性には限界があることが意識され、それへの対応が2つに分かれた。
1つが「構造的客観性」であり、もうひとつが「訓練された判断」である。
上に述べた通り「訓練された判断」は第6章で取り上げられているが、その前の第5章で「構造的客観性」も論じられている。
本書は基本的に、科学的図像からみる科学史として書かれているが、第5章は図像ぬきの話であり、20世紀初頭の科学哲学(初期分析哲学)について書かれている。
第7章は、21世紀の展開について論じられている。

プロローグ 客観性の衝撃
第1章 眼の認識論
     盲目的視覚
     集合的経験主義
     客観性は新しい
     科学的自己の歴史
     認識的徳
     本書の議論
     普段着姿の客観性
第2章 本性への忠誠
     客観性以前
     自然の可変性を飼いならす
     観察のなかの理念
     四眼の視覚
     自然を写生する
     客観性以降の本性への忠誠
第3章 機械的客観性
     曇りなく見る
     科学および芸術としての写真
     自動的図像と盲目的視覚
     線画と写真の対立
     自己監視
     客観性の倫理
第4章 科学的自己
     なぜ客観性なのか
     科学者の主観(主体)
     科学者のなかのカント
     科学者のペルソナ
     観察と注意
     知る者と知識
第5章 構造的客観性
     図像のない客観性
     心の客観的科学
     実在的なもの、客観的なもの、伝達可能なもの
     主観性の色
     神ですら言えないこと
     中立的な言語の夢
     宇宙規模の共同体
第6章 訓練された判断
     機械的複製の不安
     客観性のために正確性を犠牲にすべきではない
     判断のアート
     実践と科学的自己
第7章 表象(リプレゼンテーション)から提示(プレゼンテーション)へ
     見ることは存在すること —— 真理・客観性・判断
     見ることはつくること —— ナノファクチュア
     正しい描写
 謝 辞
 訳者あとがき

プロローグ 客観性の衝撃

アーサー・ウォージントンは液滴を落とした時のしぶきを記録
フラッシュを使って目に焼き付けて、それを描き写すという方法で記録していた時は、対称的な形で描いていたのだが、写真を使って撮影された液滴は、決して対称的ではなかった。

第1章 眼の認識論

「本性への忠誠」「機械的客観性」「訓練された判断」
アトラス:ワーキング・オブジェクトを体系的に編集したもの
ワーキング・オブジェクト:図像やタイプ標本など自然を代表する対象
「主観」「客観」という言葉は、カント前後に意味が変化している
デカルトの一次性質と二次性質やベーコンのイドラは、必ずしも主観・客観の話ではない。
**第2章 本性への忠誠
客観性以前
カール・リンネ『クリフォート邸植物』
真理が先にあり客観性と区別
観察
科学者の介入
自然の可変性を飼いならす
現代人は、個人の主観による差(バイアス、誤差)を気にかけるが、変則的な対象も脅威
図像は、科学者共同体のためのデータ、記憶
本性への忠誠は、「典型的」「徴示的」「理想的」「平均的」な図像を選択するという判断
一方で、16,17世紀は、自然の可変性・奇形性をむしろ好んでいた(フランシス・ベーコン)
=本性への忠誠と対立する認識上の生き方


本性への忠誠を誓う人々の間で、しかし、具体的な解釈は必ずしも一致しなかった。
「典型的」「徴示的」「理想的」「平均的」は、標準化という点では同じだが、それぞれ違う意味

→理想を描く
自然の範型を示す。自然を芸術で描きかえることをためらわない
実際には存在しない普遍的なものを描写する

理想化に対して自然主義
個物(特定の死体)を描く、という点で、アルビニヌスと異なる。
しかし、複数の標本を組み合わせることはあり。また、美的な配慮もあり
真理と美、科学と芸術の一体化

  • ジョージ・エドワーズ

鳥にポーズをつけたりもする。1750年、コプリー・メダル受賞
一方、エドワーズにポーズを倣ったジェームズ・オーデュポン『アメリカの鳥類』(1827~1838)は非難されている
「徴示的」アトラスは、過渡期のもの

  • 四眼の視覚

博物学者レオミュールとその挿絵画家マルシリ
画家を監督する学者=四眼の視覚(学者と画家2人の4つの眼による視覚が理想)
画家が、変則的な特徴を過度に描いたりしないように、学者は常に画家を監督する必要があった。
画家と学者の間には、社会的、知的、認知上の緊張があり、学者は、従順な画家を求める
例えば、キュヴィエは娘のソフィーが画家をつとめるなど
一方、生活の糧として稼ぐ女性画家もいた。
また、学者との立場が逆転する画家も(筆頭著者になったり、名前が大きくクレジットされたり)わずかながらいた。
サワビーとスミス
学者と画家の対立は、seeing asとseeing thatの対立でもある
画家は媒体とならなければならない
素描の新しいイデオロギー→素描教育、ジョルジョ・ヴァザーリ、社会的上昇への道

  • 自然を写生する

「自然を写生する」18世紀の科学書の序文にでてくる言葉
当時の素描教育は、ほかの絵画の模写
その果てに模写じゃない「自然を写生する」がある
見たままに描く、ということではなく、見ることには記憶や識別が含まれており、図像は、対象の肖像でありながら、対象とするクラス全体の象徴でもある。真理という理想や美のために作られている。


19世紀以降も「本性への忠誠」は生き残ったが、特に植物学において
しかし、植物学にも「客観性」は入ってきた。その一つが「タイプ法」
タイプという言葉は理想・典型として使われてきたので、混乱や論争が生じた

第3章 機械的客観性

  • カハールとゴルジ

カハールはゴルジを強く批判したが、これは2人の認識的徳が異なっていたから(図像を単純化することは、ゴルジにとっては美徳だったが、カハールにとっては悪徳)
客観性という認識的徳は、自己抑制を義務とする
図式化し美化し単純化したいという欲望(本性への忠誠を導く理念だったもの)を抑え込まないといけない
客観性は1880年代~90年代には主流に
客観的画像がすべて写真だったわけでも、写真がすべて客観的だとされたわけでもない


-写真
天文学者ジョン・ハーシェル博物学者アレクサンダー・アガシ天文学者フランソワ・アラゴなどが、写真に可能性を見出した科学者
写真は当初、芸術において労働を節約する技術として見出された。
その後、科学において、人間の解釈を受けない画像として見出される。
ボードレールとフィギエ→写真は芸術性について正反対の意見
写真が偽造されたりレタッチされたりすることを、当時の人たちも理解していた
科学者の先入観や理論を投影する恐れがないことが、写真の客観性


観察者は機械を目指す

  • 生理化学者オットー・フンケ

顕微鏡の視界に入ったものはすべて描く→アーティファクトも記録する

  • 解剖学者ウィリアム・アンダーソン

自動化された手段で描写のプロセスを制御することで「誘惑」を回避する

  • 雪の結晶

ジョン・ネティス→エドワード・ベルチャー→ジェームズ・グレーシャー 本性への忠誠
グスタフ・ヘルマンとリヒャルト・ノイハウス 機械的客観性

  • アーサー・ウォージントン

落下する液滴
客観性とは、自然の理想的規則性を信じてしまう心に対して、世界の不規則性を押し付けること

  • バルデレーベンやヘッケル

客観主義者だが、写真に反対し木版画を擁護した


タイプとしての対象から個別としての対象へ
アーティファクトは真正性の証拠に


写真と線画については、色々な立場があった。

写真によって多くのものが失われることを認識していたが、写真を支持

オリジナル図像には線画を用いて、複製において写真製版

  • ウォージントン

最初が写真で、複製は彫版

  • ソボッタ、フランシス・ゴールトン

解釈の恐れは、通常個物の画像へ向かうが、ソボッタやゴールトンは合成された画像を支持した
ゴールトンは理想的なタイプを目指したが、本性への忠誠自体のような主観的な理想化ではなく、自動化された手続きによって目指した。
パターン認知は画家によってなされるのではなく、自動化された合成によってなされる(顔写真を合成することで)

  • 内科医エルヴィン・クリステラー

精密性を犠牲にして客観性を選んだ


機械的記録装置=自分自身からくる誘惑を抑制する手段
他者(画家など)の取り締まりから自省へと無火曜になった。
写真の欠点
教育的効果、色彩、被写界深度、診断上の有用性などについて写真は劣るものであったが、これらの要素も客観性の前では犠牲となった。

非常にぼんやりとした写真でしかなくて、見ても運河があるかどうか分かりにくい。ローウェルは運河の場所がわかりやすくなるように手を加えようとしたが、客観性のためにそのような加工はあきらめた。


自己抑制、認識的であると同時に道徳的な要請
機械的客観性とは
(1)客観性に必要な技法を身に着けること
(2)自己を拘束し規律化するように自分自身の意思を涵養すること
正確性よりも道徳的な誠実さを選ぶ
非介入性こそ、真実よりも客観性の核心
16世紀から18世紀まで、芸術と科学は協力関係
19世紀以降、芸術家と科学者の主張は相反するように(芸術の側ではロマン主義が台頭)
機械的客観性は、不完全なもの、非典型的なものをそのまま示す。それは、18世紀までは美徳ではなく無能。スキルが必要になってくる
しかし、20世紀までに、主観性を完全に排除するのは難しいということがわかってくる。

第4章 科学的自己

ヒスとヘッケルの対立=機械的客観性と本性への忠誠の対立
真理と客観性は単なるお題目ではなく、実践と結びついている。
例えば、彩色され鋭い輪郭をもつ線画か、ぼやけた白黒の写真か、いずれを選ぶのか、という。
本性への忠誠も機械的客観性も、いずれも義務を課す
その義務の変化は、アトラス制作者だけではなかった(図像を使わない他の科学者も、同時代的に変化が起きていた)


科学的客観性は、科学的主観性と表裏一体
本書では、日記や自伝に加えて、伝記やアドバイス・マニュアルを検討する
フーコーがいうところの「自己のテクノロジー」に注意をむける
観察における感覚の訓練、ラボでのノート取り、標本を描くこと、意志を鎮めることなど、これらは自己をつくりだし、自己を構成する


「自己」と「主観性」は異なる。「自己」にはいろいろな種類がある。
主観性は、自己という属の一つの種
自己についての2つの記述
(1)ディドロダランベールの夢』
(2)ジェームズ『心理学原理』
これは、自己についての2つの見方をあらわしている。
(1)啓蒙期の感覚主義心理学における自己=断片化され、受動的
(2)カント以降の自己=能動的で統合されている
啓蒙期の学者にとって、受動的に押し寄せてくる感覚をそのままにするのは混乱のもと、選択・弁別が必要
19世紀の科学者にとって、主観的な自己が能動的にデータに介入してくるのが問題。
科学者のエートスとペルソナ

  • 科学者のなかのカント

カントを創造的に誤読した科学者
ヘルムホルツ、ベルナール、ハクスリー
客観的と主観的との線をどこに引くかは論者によって分かれる
客観性は、これまでとは異なる認識論的な目標
主観性は、人間の条件の本質的な側面
19世紀は、科学が著しく発展した時期であり、激動の時代であり、定説が次々と変わっていく時代だった(だから、科学とは何かを考えるときに、一つの真理があるとは考えにくくなっていた。真理だと思ったものが明日には誤りになっているから)
形而上学への警戒
ベルナール、ハクスリー、ヘルムホルツは、もし科学が真理についてのものでないならば、何についてのものなのかを明らかにするために、客観的という言葉を使った


啓蒙期の自己は、「理性」と選択によって、想像力という受動的な誘惑に抗した
19世紀の自己は、「意志」による統合
科学は、「理性」による支配から「意志」の勝利へ
19世紀後半、科学の賞賛は、天才のひらめきから時間と労力へ
勤勉や忍耐など
実験室での労働と工場労働とのアナロジーすらある。
だが、科学者と単純労働者の違いとして、自己抑制のための意志の力があった。


啓蒙期の学者は、観察を繰り返すことが重要とされた。日誌をつけることが統一性へつながった。
断片化する自己や一貫しない対象に対して、日誌をつけることでその一貫性を保持する
理性によって導かれる注意と能動的な選択が、注意を抽象化へ高める
1870年代、注意は意志の行使と同義に(注意と意志の関係を示す参考文献として、クレーリー『知覚の宙吊り』があがっていた)
1860年代、受動的な観察と能動的な実験との対置(ベルナール)
ラボノートも未解釈・未編集の生データ


  • 芸術的自己

意志を行使することで外部化する、作品を創造する

  • 科学者

外部に向けて意志を行使することに抵抗。意志は自己(内面)に向けて行使される
→芸術との対立

第5章 構造的客観性

  • 図像のない客観性

客観性は、自然をあるがままに見ることでも、感覚や観念への忠実さでもなく、さまざまな感覚のあいだにある一定不変の関係のうちにある
科学とは万人に伝達可能であらねばならず、構造だけが伝達可能
図像ぬきの客観性を主張した人たち
機械的客観性をより極端に推し進めたのが構造的客観性
機械的客観性も構造的客観性も、主観性と戦うものという点では同じだが、主観性を抑制するか断念するか、という違い


客観性の指標を、カントは伝達可能性とした
心理学が幾何学などを経験科学の対象としようとする



ヘルムホルツvsフレーゲ
数学と論理学が科学的な心理学と生理学の猛攻に耐えられるか
表象も直観も、フレーゲにとっては主観的
算術よりも客観的なものはない



19世紀において「色」は主観的なものの典型例
(かつて、例えばデカルトは、色の問題を主観と結びつけていなかったのに対して)
ポアンカレにとっては、色の問題は私秘性。伝達不可能性。
カント的な「客観的」「主観的」を使うようになった初期の例が、色の科学
例えば、ゲーテ『色彩論』
フレーゲ、色の主観的感覚と色彩語の客観性
ウィトゲンシュタイン『色彩について』へ

生の経験は伝達できないが、関係ならば伝達できる*1
単純な構造こそが科学が目指すゴール
真理は伝達可能性のテストに落ちる
ラディカルな経験主義(マッハ、ジェームズ、ベルクソン)にも抵抗


時の試練に耐えうる関係を明らかに
ポアンカレは、トポロジカル(定性的)な図像を描き、メトリカル(定量的)な図は描かない
科学理論が短命であることを身に染みてわかっていた
科学は協同事業でもある



カルナップ
構造は中立的
ラッセ



1900年前後のSFにあらわれる宇宙人
→姿かたちが異なっていても、意思疎通が可能なものとして描かれている
→実際の科学界は、国際化により、伝達可能性の実務的問題
機械的客観性→自己による自己抑制
構造的客観性→自己の消滅
科学は、宇宙的な共同体への参入

第6章 訓練された判断

  • 放射線医学者ルードルフ・グラースハイ

正常の範囲の変異と、それを逸脱した変異をどのように見分ければよいのか
アトラスの図像と、アトラス利用者が実際にみる対象は同じではない
訓練された判断によって、解釈する必要がある
暗黙の、洗練された、経験に基づく、無意識的な判断
「訓練された判断」は「機械的客観性」を批判したが、客観性に置き換わったのではなく、客観性を補完するもの
また、客観性と反するが「本性への忠誠」に戻ったわけでもない。
訓練された判断は、対象の向こうに理想を見出そうとするわけではない。訓練された判断の支持者は、顔の類似性をメタファーによく使った(家族的類似性)

  • ギブズ夫妻の『脳波アトラス』

「主観的な基準をもとに診断に到達できるように読者の目を訓練する」
「客観性のために正確性を犠牲にすべきではない」
科学教育の拡大
ゼミナールによる教育=新しい訓練方法
訓練され教育された読者への信頼
オスカー・エルスナーの鉱物学研究所
ルイス・アルヴァレズ
モーガンとキーナンとケルマンによる『恒星スペクトル・アトラス』
恒星の種類を特定するプロセスには、定性的なものがあるが、だから不定性であるわけではない。定量的な数値ではなく、主観的な訓練された目、経験的なわざによるパターン同定が必要

人相や人種を見分けることとのアナロジー
ウィトゲンシュタインは、ゴールトンの合成写真に着想を得ている
ゴールトンは優生主義者。ウィトゲンシュタインや、ギブズ夫妻、モーガン、キーナン、ケルマンはあくまでただの比喩として使っていて、優生主義者だったわけではない
が、1920年代から40年代前半にかけて、人種認識のメタファーが増えたのは確かであり、これは偶然ではない。
モーガンとキーナンとケルマンが参照した先行するアトラスとして『ヘンリー・ドレイパー・カタログ』がある。これには女性労働者たちが参加していたが、このころは、スキルのない労働者は、機械と同一視され、客観性を担保するものと考えられた。

科学者と画家・アーティストとの関係
科学者が、画家の解釈を重視するようになる
表象は対象と同形でなくてもかまわない
(同形と相同の違いは、ギャリソン”Image &Logic”)
非模倣的な表象(多くはコンピュータ出力)

  • ハワード、ブンバ、スミス『太陽磁場アトラス』

データをどのくらい「なめらかにするか」、何が現実であるかについて、主観的で能動的な決定が必要
図像そのものの修正が必要とされた

  • ゴールトハマーとシュウォーツ『X線で見た頭部の正常解剖学』

X線写真をもとに描かれた線画
自然に忠実であること、自然を模写することは、アトラスの目的ではなくなっていた
「自然」ではなく「現実」

第7章 表象(リプレゼンテーション)から提示(プレゼンテーション)へ

-見ることは存在すること —— 真理・客観性・判断
本書のここまでのまとめ

  • 見ることはつくること —— ナノファクチュア

21世紀に起きている展開についての簡単な見取り図
(1)仮想的図像、デジタル・アーカイブによるアトラス、学習目的で操作可能な画像
(2)触覚的図像、ナノマノピュレーション、例、原子間力顕微鏡、測定することで図像を生み出す
アトラスではなく、イメージ・ギャラリーとなった。
感覚を通じて知識を獲得する方法には2つある。
(1)観察
(2)世界に介入すること(能動的なベーコン的スタンス)
ナノマノピュレーション、理学と工学の統合的アプローチ、道具としての触覚的図像
プレゼンテーション(科学が工学とつながってさらにビジネスとつながるようになる)
芸術的な介入
アメリ物理学会、1983年から写真コンテスト(『流体運動ギャラリー』)
計算流体力学者マリー・ファルジュ
理論物性物理学者エリック・J・ヘラー
表象ではなく提示、という新しい描写
エンジニア=科学者としての自己

*1:個人的に、これはクオリア構造学みたいな話なのではないか? と思って面白かった

『日経サイエンス 2025年1月特大号』

英キュー王立植物園で描く 植物の美と科学 山中麻須美

英キュー王立植物園の5人の公認画家の一人である山中による、植物画についての解説
植物画(ボタニカル・アート)
これとは別に植物図(ボタニカル・イラストレーション)というのもあるらしい。ペン画のこと。
植物画家の観察力の高さとして、公認画家のひとりが新種を発見して自身で記載論文まで書いた話や、そこまでいかずとも、場合によっては研究者よりも詳しかったり、研究者と対等の立場で意見を述べていたり、というようなことが書かれている。
それ以外のところでいうと、ロレイン・ダストン、ピーター・ギャリソン『客観性』(瀬戸口明久・岡澤康浩・坂本邦暢・有賀暢迪訳) - logical cypher scape2で書かれていた「本性への忠誠」が生きているな、と感じられる記述がみられる
葉っぱの表と裏がわかるように描く、つぼみと満開のそれぞれの状態を(同時に)描く。標本では分からないところも、生きている状態・標準的な状態でそうなっているように描く(手元にある植物が正しい姿とは限らない)など。
特徴を捉える観察眼による「正確さ」が、写真ではなく植物画だからこそのものなのだ、と。
あと、科学と芸術の両面があるということも。

ノーベル賞で注目 ノンコーディングRNAが拓く新たな生命観  P. ボール

田口善弘『生命はデジタルでできている』 - logical cypher scape2中屋敷均『遺伝子とは何か』 - logical cypher scape2で知って、これらの本に書いてあったことと多少重複もあるが、より詳しい内容が書かれていて、勉強になった。インパクトの強さとか。
2012年、ENCODEが、これまでジャンクと思われていたDNA配列の多くも、RNAに転写されていることを明らかにして衝撃を与えた。


もともと、トランスファーRNAノンコーディングRNAではある。
1990年代にX染色体不活性化の研究で、XIST遺伝子からどのようなタンパク質を合成されるのか調べられていたが、まったくタンパク質は見つからず、実はRNAだった。
lncRNA(長鎖ノンコーディングRNA


ノンコーディングRNAが遺伝子の発現に影響をもたらす方法は2つ
生体分子凝縮体によるもの
クロマチンに影響するもの
また、RNAが足場になる、という働きをすることもある。


アンブロスのmiRNA(マイクロRNA)発見
2000年、ラブカンが線虫以外にも脊椎動物など様々な動物でMiRNAを発見
(アンプロスとラプカンはノーベル賞
1998 ファイアーとメローのRNA干渉(siRNAによるRNA誘導サイレンシング複合体のガイド)発見。ファイアーとメローもノーベル賞
miRNAはチームで働くのではないか、と考えられる。一つのmiRNAは、短くて汎用性があるというか、いろいろな配列と結びつくが、複数の組み合わせで機能することで、特定の配列をターゲットにできる。
このようなあり方は、進化的流動性を高めるメリットがある、と
他にもいろんなRNAが発見されている。


医療への応用も行われている
lncRNAを標的とした、あるいはIncRNA自体を医療応用する方法
研究は進められているが、まだ臨床に至ったケースはない。
miRNAを標的にした方法は、より実用化に近い。


単なるノイズやジャンクに過ぎない、という異論は今でもある、とのこと。
どれくらい機能をもつのがあるのか、その程度、割合というあたりではまだまだ論争がある。
そもそも「機能」とは何なのか。単に足場に使われているようなRNAは、機能を有するといえるのか。
ENCODEのことを考えると、タンパク質をコードしていない遺伝子のことを、もうジャンクだとは言っていられないのは確実だが、実際には、生物学の中で反発も大きいらしくて、これまでの理解を揺るがす存在ではあるみたい。

狩りをする女たち 最新科学が覆す「男は狩猟,女は採集」 C. オコボック/ S. レイシー

「男性が狩猟をしていた」説は影響力がすごく強いけど、これは誤っている、と。
この男性狩猟者説は、リーとデボアによる、1968年の『Man the Hunter』という論文集がきっかけで広がったらしい(意外と最近で驚いた)
実はこの時点で既に、女性も狩りをしていたというデータがあるのに、無視されている。例えば、渡辺仁は、自身のアイヌ研究の中で狩猟を行っているアイヌ女性について記録しているにもかかわらず、アイヌは男性が狩猟をしているという結論を出している、と。
当時、女性は体力的に劣っていると考えられており、スポーツ参加なども制限されていた。
生理学的な研究は、データの偏りが著しく、男性のみしか対象にしていない研究が多いとのことで、今後の研究者には是非この偏りを是正してほしい旨、記事中に書かれていたりする。
一方、データが限られている中でも、女性が体力的に劣っているとは言えなくなっている、と。
エストロゲンがキーで、これは脂肪代謝を活発にする。脂肪による代謝は炭水化物と比較して持久力をもたらす。また、エストロゲンは、筋破壊の抑制にも役に立っている。
また、女性は遅筋が、男性は速筋が発達しているということも知られており、持久力の必要な運動は女性が、瞬発的なパワーは男性がそれぞれ向いている、と。
ところで、太古の狩猟は、獲物が疲れるまで追い続ける、という持久力が求められるものだったとされているので、女性は体力的に劣っていて狩猟に向いていない、ということはなかっただろう、と。
また、ネアンデルタール人の化石から、損傷部位などに男女差が見られない、副葬品に男女差が見られないなどから、ネアンデルタール人社会では男女ともに狩猟をしていたと見られる、と(ネアンデルタール人は、集団規模が小さかったので分業は不利に働くとも)。
また、現代の人類学的調査でも、63の狩猟採集社会のうち79%で女性のハンターがいることが確認されている、と。
男女の分業が始まったのは農耕以後の話であり、狩猟時代には男女ともに狩猟を行っていたのではないか、と。

Science in Images 毛虫の電気感覚

五感とは別に、電場を知覚できる動物がいる。今まで水生生物で確認されていたが、地上で暮らす毛虫の一種にも確認された。ハチの静電気を知覚している。実験で、ダミーの電場を発生させたら、それに反応したと。おそらく、実際には、視聴覚と補完的に使用しているのだろう、と。

SCOPE 動物の細胞に葉緑体を移植

これ、Newton2025年1月号 - logical cypher scape2にも載ってたな。
あと、これ→葉緑体を動物細胞に移植し、光合成の初期反応を確認 東大など | Science Portal - 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」
藻類の葉緑体をハムスターの細胞に移植
崩壊するまでの2日間ほど、電子伝達系の反応はみられた(カルビン回路はなかった)、という話らしい

ADVANCES 海のソーラーパネル/ファントムコスト

シャコ貝の内部に虹色に光る部分があるのだけど、それが共生している藻類に光を効果的に集めるためのものだったという話

  • ファントムコスト

お菓子をタダでくれる分にはそれを受け取るが、それに加えてお金もくれるようだったら、怪しく感じて受け取らない。異様に安い航空券とか、そういうものには何か裏を感じて逆に警戒する。人は、何かそこに隠れた動機(ファントムコスト)を感じ取っている。異様に安い航空券について、実は座り心地が悪いんですとか説明すると、受け取るようになる、と。

From nature ダイジェスト 人間はどこまで暑さに耐えられるのか

温度、湿度を自由にコントロールできる設備を利用して、暑さにどこまで耐えられるのか、そして、どのように冷却するのが効率的か、という研究がある。
人間がどこまで暑さに耐えられるのかについて、実は、これまで理論的なものしか出されておらず、公衆衛生ではその数字が使われてきた。しかし、そのモデルは、人間が動かない、汗もかかないという想定で作られている。
なので、これを改訂していこうという動きがある。
冷やすことについていうと、肌が濡れているかどうかは重要。乾燥した状態で扇風機を回すと、逆に心拍があがるが、肌が少しでも濡れていると効果がある、とかなんとか。

nippon天文遺産 昭和23年金環日食観測地 礼文島起登臼(上)

昭和23年・1948年、戦後間もない時期に、礼文島金環日食の観測が行われた話
この日食、中心帯1.2kmという狭い範囲で、日食持続時間も1.8秒という短いものだったのだけど、かなり大規模な観測が実施されたという。
当時の東京天文台の台長である萩原が中心となって行われたもので、戦後すぐの時期に、日本の天文学の一大プロジェクトとして行われたらしい。
観測隊は100人規模で、さらに報道陣が200人規模、礼文島に入ったとか。
日本だけでなく、アメリカもこの観測に興味をもち、GHQとの共同プロジェクトとなり、観測機器は戦車揚陸艦により、観測隊メンバーはGHQが運行した特別寝台列車に輸送された。
この記事では主に、荻原が、文部省と大蔵省との間とか、アメリカとの間とかで調整業務に追われて、出発直前に病気にもなって、と色々大変だったことが書かれている。

アーカイブ騎士団『明治スチームパンク小説集』『写真SF小説集』(文学フリマ東京39)

久しぶりの文フリで、アーカイブ騎士団も久しぶり
最近のは、kindle版とかで読んでいたはずなので、イベント行って紙の冊子を手に取るのはさらに久しぶり。

(002『忍者小説集』と003『メタバシスによる星間周遊』も読んでるはずだが、ブログ上に感想が残っていない)
004『ロボット小説集』
第15回文フリ感想 - logical cypher scape2
005『ゾンビ小説集』
第17回感想 - logical cypher scape2
006『恋愛SF小説集』
第19回文学フリマ感想 - logical cypher scape2
007『ユートピア小説集』
文フリ以前に読んでた同人誌 - logical cypher scape2
008『怪獣小説集』
『怪獣小説集』『ノーサンブリア物語』 - logical cypher scape2
009『流通小説集』
アーカイブ騎士団『流通小説集』 - logical cypher scape2
010『モンスター小説集』
モンスター小説集 - logical cypher scape2
011『会計SF小説集』
アーカイブ騎士団『会計SF小説集』 - logical cypher scape2

と過去にはほぼコンプリートしてきたのだけど、今回入手したのは、013『明治スチームパンク小説集』と015『写真SF小説集』の2つ。アーカイブ騎士団のアーカイブを確認したところ、012『幽霊屋敷小説集』と014『呪術SF小説集』は持っていないことがわかった。これらはkindle版が出ている模様。

明治スチームパンク小説集

「明治スチームパンク」と銘打たれているが、より正確に、というか狭く絞るなら「お雇い外国人伝奇小説」となる。「お雇い外国人伝奇小説」って何だよって感じもするが、やはりそうとしか言いようがないし、流通小説や会計SFと比較すると、全然普通な感じである。

  • ボーイズ、ビー(森川 真)

西南戦争での薩摩への武器援助を請うべく上京してきた少年、龍二であったが、工学部大学校の教頭をつとめるお雇い外国人のヘンリー・ダイアーから、機関銃と引き換えに、札幌農学校のクラーク暗殺を依頼される。
実は、ダイアーとクラークの正体があれとあれということがわかり、こういう喩えが適切かどうか分からないが、今後の連載も一応可能なように設定されたマンガの読み切りみたいな読後感だった(よい意味で)。

これは(未完」とある通り、話の冒頭だけである。
四国のとある村に、死体を食う妖怪(?)がいて、たまたま地質調査にやってきたナウマンと遭遇する話(ただし、書かれている範囲だと、まだ「遭遇」はしていない)。
ナウマンが機械化されていて、そこがスチーム要素っぽい。

  • 天狗と十二階(高田敦史)

クラーク、ナウマンに続き、本作で出てくるお雇い外国人は、浅草十二階の設計者ウィリアム・K・バルトン
私立探偵である野口幹に、芝浜里という魔女が訪れる。風船乗りスペンサーの盗まれた気球を探すことという依頼で、浅草十二階に居たという老人・笠屋高森が手掛かりになるという。
笠屋高森についてバルトンが世話していたということで、野口はバルトンを訪ねることとするが、その道すがら、占い師の原道を助ける。
野口は道から、幼い頃に見た「天狗の使い」の話を聞く。それはまた、野口の家の近くにある神社で噂される、小さい侍の話ともよく似ていた。
探偵による人探しという縦軸に、「天狗の使い」についての怪談のようなエピソードが横糸としてからみあう。高田さんが『ホラーの哲学』を翻訳した時期でもあり、あとがきにも、最近ホラーに凝っていると書いていて、「天狗の使い」の話はホラー要素が強い。
一方、縦軸となる物語は、明治の近代化(気球や浅草十二階のような高層建築)によって失われていく、前近代(天狗)へのノスタルジー、という感じになっている。

写真SF小説

最初の3作はショートショートみたいな長さ
「仮面」はやや長め
「神戸の」が一番面白かった。

主人公は、レイと共にあいまいな過去を定着させる仕事をしている。
マンホールを通ると過去にさかのぼっていて、記録のはっきりしない事件の現場でたどり着く。その現場でレイが怒りの感情をもつと、はっきりした過去として定着するのだという。

  • 光る彼氏 森川真

彼氏が実は宇宙人
光となって宇宙へ帰る
非常に短いショートショートで、写真という言葉も出てこないが、いい味の写真SFになっている。

  • 残弾 高田敦史

最初、全然つながらない話が続くので、小ネタの連作なのかなと思ったらそうではなくて、後半まで読むとちゃんと全部つながる話だった。
フィルムの残りと銃の残弾、そしてヤクザという全然関係なさそうな要素を、異なる複数の自然数概念を操る異星人という要素によって、あざやかに結びつけるショートSF

  • 仮面 高田敦史

写真が禁止されている街、覆面舞台俳優の火中亮がマスクを盗まれる事件が発生
探偵の淀川が依頼をうけてやってくる。しかし、依頼主は火中ではない。
火中のマスクは、AI生成された画像が表示されるスクリーンになっていて、それにより様々な顔を表示させて異なる人物を演じることができる。盗難事件について、火中は嘘をついているらしい。
うーん、最終的にどういう話だったのかがいまいち掴めなかった

  • 神戸の 森川真

1987年、大阪で浪人生をやっていた「私」は、河合塾で出会った多浪生の「森岡」にブロマイド写真店へと連れていかれる。
そこで、イジョンスンという女性の写真に心奪われる。
イジョンスンは、1930年代に活動していた舞踏家(という名目で活動していた芸能人)で、あまり多くの写真や記録は残されていないが、残されたブロマイドはどれも嫌そうな表情をしている、というのが特徴。
何故か金回りのよい森岡と違って、イジョンスンのブロマイドを買うことのできなかった「私」も、そのブロマイド写真の店=時子さんの店に通うようになる。
そして森岡から、イジョンスンが神戸の海水浴場で撮影した水着写真があるらしいということが聞かされる。通称「神戸の」と称されるその写真は、いわゆる「幻の写真」なのだが、時子さんはどうも隠し持っているらしい、と。
「私」が時子さんに「神戸の」について聞いてみると、時子さんは奇妙な交換条件を出してきた。
実は、イジョンスンの写真というのは、時子さんが捏造したものだったという話で、本物の写真が残っていないので、偽物の写真が本物の写真として扱われるようになってしまうという話なのだが、それを「私」が回想譚として物語っていて、味のある不思議なお話として出来上がっている。

『文フリと批評』(文学フリマ東京39)

2024年12月1日に開催された、文学フリマ東京39に行ってきた。
文学フリマ初のビッグサイト開催であるが、それを理由に行ったわけではない。
ここ数年文フリからはご無沙汰で、今回も当初は行く予定がなかった。TLから、近く文フリがあるのだなあとは思ったが、いつやるのかもそれほど把握していなかった。
ところが、前日の夜、急に塚田君から「明日、文フリに行く」旨のメッセージが入っていたのである。実のところ、そのメッセージを読んだ時でさえ、そんな急に言われてもなあ、という感じだったのだが、10年近く会っていなかったことを思うと、このチャンスを逃すとまた当分会えないのでは、ということで行くことにしたのである。
全然行くつもりのなかった文学フリマとはいえ、いざ行くとなれば、寄りたいところは色々とあがってくるもので、それでも回|れたのは最低限の範囲でしないのだが、いくつか買った本があるので、感想をボチボチ書いていこうと思う。
かつてなら、一気に読んで、感想も一気に書いたが、今回は少しずつ書いていく

ビッグサイトでの文フリ

すげー混んでた
ビッグサイトってのも驚きだけど、ビッグサイトであんなに混むのか、というのも驚き
ゆっくり見て回れる感じではなかった。夕方だったら違っただろうか。

『文フリと批評』

今回、塚田君が寄稿していて、ひいては自分が久しぶりに文フリに行くきっかけとなった本
文フリの批評ジャンルに参加してる・してた人たち20名の寄稿によるもので、全部は読んでいないが、概ね自分が何故・どのように文フリに参加したのか・批評を書いたのか、ということを回想するエッセーなどが中心のようだった。
何となくだが、自分とは活動時期が重なってなさそうな人が多くて、その点で面白かった。
で、塚田君はというと、かつて『筑波批評』に書いていた「最強論」の続編みたいなものを書いていた。

  • 全般的な感想

まず、自分が把握してなかった文フリのこととして、東京流通センターへ会場が移ってからしばらくの間、参加人数は、蒲田で記録した最高記録を下回る数で横ばいだった、と。それが、コロナを挟んで、ここ数年で増加へと転じ、今回のビッグサイト会場変更へと繋がったらしい。
東京流通センターへ移った際に、広々としてゆったりした感じは覚えており、その後の参加者数横ばいも当時の実感とあっている。
一方、コロナ以降に参加者数が増加していたことは全然知らなかった。ビッグサイトと聞いて、流通センターへ移った時と同様、少し広々する感じになるのかなと思ったら、全然そんなことなくて、驚いたのだが、最近の文学フリマを知らなかったので、浦島太郎状態だった。
他に「そういう変化があったのか」と思ったのは、ノンフィクション(日記・エッセイ)ジャンルの伸張だった。
文フリは、批評ないし評論のジャンルが全体を牽引してきたと思うのだが、コロナ以降、ノンフィクションジャンルが拡大しており、人数増加もこのジャンルによるものらしい。また、この参加人数増大は、独立出版社ブーム・ZINEブームといったものとも通じているらしい。
短歌ジャンルがある時期から勢力を拡大していたのは知っていたのだが、このノンフィクションジャンルの伸張は全然知らない話だった。
また、誰だったかが、ここ最近文フリに参加するようになった編集者が、地方の文フリに行くとオタクがいる(文フリには場違いだ)、と眉をひそめていたというエピソードを書いていて、これも面白かった。日記・エッセイ・独立出版社・ZINEというのが、文フリをちょっとオシャレな場所にさせているのであって、コロナ以前から文フリに参加していたかどうかで、参加者の世代差みたいなのが出てきている、とかなんとか。


さて、本誌の寄稿者は、それなりに多岐にわたっており、バックボーンや文学フリマ・批評に対するスタンス、あるいは世代もそれぞれ異なる。なので、全員に共通している主張とかはないのだが、ざっくり読んだ感じ、以下のような雰囲気を何となく感じた。
まず、流通センター時代を、停滞期・マンネリ期のように感じている人が多かったように思う*1
それから、寄稿者の多くが、僕よりも少し年下で、30代前半から半ばくらいで、20代の活動を回顧しているのかなと思う。で、ここから先は、完全に僕の思い込みも含むような感想なのだけど、20代半ばや後半の焦燥感みたいなものと、文フリの停滞感ないしは文フリに対する違和感みたいなものを、何となく重ね合わせているのかなあと思った。
繰り返しになるが、人によってスタンスが色々違うので、当てはまらない人も多くいる。
ここに書いている人たちの多くが、文フリや批評を手放しで全肯定しているわけでもなく、また、自分が文フリや批評というカテゴリーに完全に当てはまっていると思っているわけでもなく、色々な違和感みたいなものを抱えていて、それに対して、自分の活動を立ち上げていく、みたいな経緯があるのかな、と。
そして僕は、そこに何となく、年齢的なものもあるのかな、とは思った。
それは自分がまさに20代後半には、焦りみたいなものを感じていて、それが『フィクションは重なり合う』を書かせたからで、逆に自分は、文フリや批評へ思いを馳せることはあんまりなかったので、ここに書かれている内容を自分なりに理解するにあたって、「20代後半ってそういう思いにかられるよね」と勝手に自分に引きつけて読んだ、ということでもある。
30を過ぎて、そういうのからは少し解放されて振り返っているのかなあ、とも。

  • 小澤みゆき 自主制作という自由

『かわいいウルフ』の人。そういう本があるのは知っていたが、知ったのは2019年当時ではなく、それより後だったと思う。
自らの活動を「20代の卒論」と呼んで回顧している(ただし、最後に「卒論」ではなく「手紙」だったと言い換えているのだが)。全然僕とは種類の異なる活動をしているが、「20代の卒論」という言い方には共感してしまった。
ところで、この『かわいいウルフ』というのはのちに商業出版されており、この後に掲載されている他の人たちの文章を見るに、文学フリマにおける同人から商業へ、みたいなルートを代表する1つっぽい。

  • 伏見瞬 文フリ・詐欺・戦争 〜愛のためのエセー〜

批評再生塾出身で『LOCUST』の人。『LOCUST』って思ったより最近だった。
文フリ東京の会場がビッグサイトになることを批判する文章がnoteに載って話題になったらしいのだが(それも知らなかった)、それに反論する内容
資本主義の何が悪い(文フリ事務局が利益を出して何が悪い)、というもの

  • 後藤護(暗黒綺想家) 文フリ史上もっともニャーンセンスな傑作

ゴシック・カルチャーの本を出している、ということで名前は見た記憶があるが、文フリでの活動については知らなかった。
内容は、本人の活動というよりは、文フリで見かけた「ニャーン」な本について書かれているもの

  • 瀬下翔太×ジョージ×麗日 文フリと批評をめぐる私的回顧 2008-2024

本書の寄稿者の中では、もっとも古く、長く文フリを見てきたのかな、と思われる瀬下くん
そうか、東スレのコテハンだったか
本誌の主宰である麗日さんが、ビッグサイトに移転するこのタイミングで、証言として記録しておきたい、というようなスタンスで望むのに対して、それをそれぞれのスタンスで拒もうとする2人、という、ちょっと緊張感のある座談会として読んだ。


  • 山本浩貴(いぬのせなか座) 文学フリマは何を代表し、いかなる場となったか ――あるいは小説・詩歌の実作者である私らはなぜ「評論」カテゴリを選んだか

上の方に全般的な感想として書いた文フリの変化だが、これは概ね、瀬下・ジョージ・麗日座談会と、この山本エッセーに由来している。
いぬのせなか座については、自分は『SFマガジン』の異常論文特集で知ったが、文フリでの活動については知らなかった。
サブタイトルにある通り、「小説・詩歌の実作者である私らはなぜ「評論」カテゴリを選んだか」ということが書かれている。
もともと山本は、早稲田文学のバイトとして文フリに参加していて、つまり、労働として行っていた、と。
いざ、自分がサークル参加することになった際、内容としては小説・詩歌だけれども、小説・詩歌ジャンルに人がなかなか来ないことを既に経験として知っていた。一方で、ノンフィクションジャンルにも惹かれるところがあったが、そこもまた違う、と。
そうなったときに、指針となったのがTOLTAであった、と。
TOLTAは現代詩のサークルだけれど、文フリには評論ジャンルでずっと参加している。
そして、TOLTAの文学フリマをハックするような実践にも惹かれるものがあった、と。
自分もTOLTAのことは当然知っていたし、いつも面白いことやっているなあと思いつつ、しかし、あまりフォローはできていなくて、実際に買ったりしたのは少ししかない。
だから、この本でTOLTAのことが大きくフィーチャーされているのは、いいことだなと思った。

黒嵜想という名前と、即売会ではなくあちこちで直接手売りしている『アーギュメンツ』の存在は、twitter(当時)で見て知っていた。
すごいことやっているなあと思いつつ、当時、わりと遠巻きにみていた感じなので、詳しくはよく知らなかった。
あまり本を読まなかったが、NUM系の古本屋によく行っていたという高校時代の話から始まり、ゲンロンカフェに辿り着き、批評というのに出会えた喜びと東京ではこんなことしやがっていたのかという妬みがあり、金がなくて行く場所がないというと、齋藤恵汰を紹介されて渋家に行ったという話が書かれている。『アーギュメンツ』ももとは齋藤恵汰の発案で、2号から編集権を委譲されたのだという。
『アーギュメンツ』はめちゃくちゃ売れて話題になったわけだが、主な読者は、芸大・美大生だったらしい。そして、美術手帖にも取り上げられる。
ただ、これは黒嵜が思っていたこととは違ったようで、そこの違和感といったことも綴られている。

  • 素潜り旬 文フリの椅子に座っていられない

詩作品

『近代体操』発起人の一人
タイトルにある、文学フリマシニシズムとは、まあみんな買っても読んでないよね、みたいなことで、ただ、自身もサークル参加したことで、文学フリマに利用価値があることには気付く
ところで、文フリの発端となった笙野頼子大塚英志の論争を紐解いており、笙野頼子の仮想敵は大塚ではなくむしろ柄谷行人であり、また、大塚も件の論文に柄谷行人へ言及していることを指摘している。柄谷行人による、文学にはもう公共性ないよねという提起に対して、笙野と大塚はそれぞれ異なる反応したのだ、と。
ところで、大塚は件の論文で、文学がビッグサイトを一杯にすることはない、と書いているが、文フリはビッグサイトに会場を移した。しかし、じゃあ、大塚が文学フリマを提案した時に実現しようとしていたことができているのか、といえば、決してそんなことないんじゃないか、と。
文学フリマというシステムに依存せず、うまく利用しながら、やっていきましょう、と。

 

  • 森脇透青 ひとはいかにして批評系同人誌をつくるのか、あるいは批評の黄昏

同じく『近代体操』の発起人
この人の名前は、やはり旧twitterで見たことがある。確か、批評の話題の中で見かけたのだと思うけれど、文フリで活動している人というより、デリダの若手研究者かーと認識したような記憶がある。
『大失敗』という批評誌を2号、『近代体操』を2号発行した、と。
文フリでやっているような批評とは必ずしも近しくはなかったようだが、修士学生の頃、『夜航』の中村徳仁と偶々飲み会で居合わせ、中村が、将来の思い出のために同人誌を作っていると言ったことに対して、激昂し、それを友人に伝えたら、じゃあ自分で作ってみろよ、と言われて、批評系同人誌を作り始めたというエピソード
また、『大失敗』は、外山恒一論を書いて外山恒一に声をかけられたり、絓秀実の寄稿があったりで、話題になったらしい。外山恒一についていうと、瀬下・ジョージ・麗日座談会でも言及があり、コロナの自粛期間中に外山合宿というのがあったらしい。
後半は、最近の文学フリマや出版業界、特に批評をめぐる状況について論じている。
このあたりの主張内容は、上述の松田論とも通じるところがあって、出版社がどんどんダメになっていって文フリに入ってきていることを批判しつつ、文フリは文フリであっていいものだけど、それだけじゃだめでオルタナティブも模索しよう、というような感じだったかと思う。

  • 谷村行海 嫉妬しても仕方がないとはわかっているが

この方は、俳句をやっているらしく、タイトルは、短歌ジャンルに対する思い
で、内容も実は短歌ジャンルの話で、そもそも俳句をやる前は短歌もやっていたということで、短歌ジャンルで何故文学フリマでこれだけ人気ジャンルになったのか、ということを解説してくれている。
短歌ジャンル、流通センター時代にいつの間にか巨大化していて、気になりつつも自分にとって謎の存在だったので、勉強になった。

  • 雨澤祐太郎 ある小春日和の終わりに

現代詩の話
 

  • 長濱よし野 逃げ出した先で広場を作る

2000年生まれということで、若い人だなあ、と
販促をすることとか実績を積むこととか、それに対して自分が他者から「解釈」されてしまうこととかについて、非常に真面目に取り組んでいる人だなあという印象

2001年生まれで、本書寄稿陣の中で最年少の方かな?
20歳の時に、折口信夫論で三田文學新人賞評論部門を受賞しているとのこと。
文学フリマには『近代体操』や『ぬかるみ派』などに寄稿していた、と。

  • いなだ易×pirarucu×麗日 インディー「フェミニズム批評」シーンをめぐって2019-2024──てぱとら委員会に聞く

時期的に知らない、というのもあるけど、全然知らない名前のオンパレードだった。
いなだ易とpirarucuは、ともに、てぱとら委員会として、東京と大阪の文フリにサークル参加している。
文フリは、コロナ禍以後、ジェンダー・LGBTQジャンルのサークル数が急増しており、また、そうではないジャンルでも、フェミニズム批評が増えている、と。
その背景として、ひらりさ、水上文の活動・論争が解説されている。
ひらりさは、女オタクのエピソードなどを集めた冊子を刊行し、同人と商業とにまたがって活動
水上は、そのひらりさ批判を同人誌と『ユリイカ』とに書いている。エピソードを羅列するだけではエピソード間の差異が分からなくなる。差異を示すのに批評とフェミニズムが必要、というのが水上の主張、とのこと

  • ひらりさ 2011年のお茶会

とか読んだあとに、ひらりさ本人の寄稿が続く
学生時代に、BL批評を書く先輩に惹かれて、BL批評を書いていた頃の話
ところで、そこで出てくるアリス先輩、たぶん自分も相互フォローしてる人だ。まさか、こんなところで遭遇(?)するとは思わなかった。

  • 江永泉 オートフィクション:「江永泉」以前

かつて、文フリで買った、ポルノ批評3冊を紹介
加速主義的言説の前史として。

  • 塚田憲史 文フリ「界隈」に送る言葉 

上にも書いたけど、『筑波批評2009夏』に掲載した「最強論」の続編みたいな話を書いている。
SNSに見られる分断状況を、互いに相手をNPCと見なす振る舞いとして分析している。相手のことをNPCと見なして振る舞うこと自体が、相手からはNPCとして見える、という指摘は、塚田君的な面白い表現だなと思った。
一方、最後の方、よくない状況を打破する言葉を批評には期待する、というような結論に至る流れは、具体性がないというか、文フリと批評というテーマにあわせるために無理にたたんだよね、これ、とは思った。しかしまあ、そこを膨らまそうと思うと、大変すぎるので、まあいいか、とも思う。
この本を手に取って、まず塚田君のを最初に読んだのだけど、その後、他のを一通り読んだあとだと、明らかに一人浮いているので、ちょっと面白かった。
他の人たちは、だいたいみんな、いつ頃に何の雑誌をやっていたのかが書かれているのに、それがない。「最強論」についても、内容の言及だけで、論文名も掲載誌名も書いていない。

  • 依田那美紀 そんな季節だった

2017年、大阪の文フリの風景
素朴な同人誌から洗練された同人誌への変化が書かれているが、そうか、大阪だと2017年頃にはそういう感じだったのか、と思った(東京ではさらに何年も前に起きていた変化だと思うので)。

  • 隙あらば自分語り

自分も、自分と文フリとの関わりを回顧してみたくなった。

2007/11/11 第6回 秋葉原 サークル
2008/5/11 春の文学フリマ2008 秋葉原 サークル
2008/11/9 第7回 秋葉原 サークル
2009/5/10 第8回 蒲田 サークル
2009/12/6 第9回 蒲田 サークル
2010/12/5 第11回 蒲田 サークル
2011/6/12 第12回 蒲田 サークル
2011/11/3 第13回 流通センター サークル
2012/05/06 第14回 流通センター サークル
2012/11/18 第15回 流通センター サークル
2013/4/18 超文フリ 幕張メッセ サークル
2013/11/4 第17回 流通センター サークル
2014/11/24 第19回 流通センター 一般
2016/5/1 第22回 流通センター サークル
2018/5/6 第26回 流通センター 一般
2024/12/1 東京39 ビッグサイト 一般

こうやって書き出してみると、思いのほか、参加回数多かった。こんなに行ってたのか、と。
2007年の初参加から2018年までの約10年間は、概ねコンスタントに参加していたといえるのではないか(2015年と2017年を除き、少なくとも年1回は行っている)
秋葉原時代に3回も行ってたのか自分、とか。
こうやって見ると、蒲田時代は短くて、流通センター時代って長かったんだなーとか。
うーん、蒲田で4回、流通センターで5回もサークル参加した記憶がないんだよな……いや、これは別に文フリに限った話でなく、自分のエピソード記憶の弱さによるものではあるんだけど
でもって、今回は6年半ぶりの参加だったのか。そりゃ浦島太郎状態にもなる。

上の表に少し捕捉する。
自分の初参加はいきなりサークル参加なのだけど、シノハラユウキ名義での参加で、筑波批評での参加ではない。が、それ以降は、基本的には筑波批評での参加となる。
2008年の第7回がゼロアカ道場
2009年の第8回に、自分は『Twitter本』というのも出している。会場が秋葉原から蒲田へと変わり、文フリ参加者が利用するwebサービスも、はてなダイアリーからtwitterへと変遷したように思う(ゼロアカ当時から既にtwitterはあったし、2008年以降もはてなは使われていた。しかし、大勢が変化した時期はそのあたりだったと思う)
2011年の第12回には、『ボカロ・クリティーク』(コピー本)を島袋八起さんが出していて、それに僕も参加した。2012年の第15回は、その島袋八起さんが主宰するサークル「フミカレコーズ」として参加して、筑波批評では参加しなかった。
2013年の第17回が筑波批評としては最後の参加で、2016年の第22回は、シノハラユウキ名義での参加だった。


本書では、文学フリマという場所・システムに対しての意見・思いも色々と書かれているけれど、自分はそのあたりのことはあんまり考えたことがないかもな、と思った。
流通センター時代に参加人数が伸び悩んでいたことについて、確かに当時、それに対して何某か言っている人たちがいたような気もするのだけど、自分としてはあんまり意識していなかった気がする。
一方、批評についてはどうか。
本書では、批評(文学フリマのジャンルコードでいうなら「評論」)ジャンルで活動しつつも、自分の活動は批評や評論ではないんだけどなあ、というようなことを書いている人たちも結構目に入る。
自分の場合、「評論」については違和感を抱いていないものの、「批評」についてはしっくりこないところがないわけではない。
いや、ある意味では確かに批評を書いていると思う。しかし一方で、人が批評について話したり書いたりしているのを見て、自分が書いているものは、そこで言われている批評とはなんか違うな、と思うことも多々ある。
そういう中で、なんとなく軸足を分析美学の方へ移していっているところがあったな、と思う。
もっとも、お前のことがやっているのは分析美学か、と正面切って聞かれるとそこもごにょごにょしてしまって、正直、批評と美学のあいだでコウモリのようなことをやっている気はする。
それは自分の強みでもあれば、弱みでもあるだろうとは思うが。


文フリ参加は2016年が最後だが、2021年にも本は作っている。
これ、当初の構想というか妄想では、地方の文フリを回りたいと考えていた。
しかし、コロナとか色々あってイベント参加は難しいなと思い始めて、通販だけで売るか、とか考えていた時に、KDPでペーパーバック版のサービスが始まっていることを知って、それを利用することにした。
文フリなどの即売会イベントを全く介さない状態での発行となり、果たして大丈夫だろうか、と思ったのだが、結果的に、文フリで売るのとはまた違ったところにおそらく届いたようだ、という感触があった。
というわけで、文フリと批評についての自分語りが、文フリと批評から離れたところに着地してしまったところで、しまいとする。

*1:そもそも、その時代を経験していない、あるいはその時期の東京に参加していない人たちの寄稿もあるが

Newton2025年1月号

SFは実現可能か?

監修 池谷裕二/稲見昌彦/真貝寿明 執筆 尾崎太一
最初、これ面白そうだなあと思って手に取ったのだけど、何となく知っているトピックが多いなあと思って流し読みしてしまった。
細かいところまで読めば、知らないこともあった気がするのだが、

摩訶不思議な物質変化の世界 感動する化学

お酒に水を入れると体積は減る
ポテチの袋は5層構造(柔らかく、切れやすく、中身を酸化から守る)
周期表の中で水素をどこに置くかは実は決まっていない

「時間心理学」入門 子供と大人で時間の流れ方がちがうのはなぜ?

監修 一川 誠執筆 島田祥輔
よく、年齢が分母になるから(5歳にとっての1年は1/5だが、30歳にとっての1年は1/30なので、30歳の方が時間の流れを早く感じる)と言われるが、これは、ピエール・ジャネが提唱していたらしい(この話自体はよく聞くけど提唱者は知らなかった)
ただ、今ではこれは否定されていて、むしろ、ウェーバー・フェヒナーの法則で説明されるようになっている、というのが面白かった
それから、時間を感じる速度と、代謝が関係しているらしい
朝/冬/大人は代謝が緩やかので時間を早く感じて、夜/夏/子どもは代謝が活発なので時間をゆっくり感じる、とか
あと、時計を頻繁に確認すると、その確認刺激が蓄積されて、経過時間を推測するので、時間の進みが遅くなってしまう(暇な会議で時計を見ると全然時間が経っていない問題)
そういうのを色々まとめて、最後に、時間を早く/遅く感じるようにするコツ、がまとめられていて面白い。


直接関係はしていないが、時間の心理学関係で、最近「ビートを感じる脳」(『日経サイエンス2024年11月号』) - logical cypher scape2というのもあった。

超伝導」の世紀 電気抵抗がなくなる物理現象が社会を変える日

監修 宮川宣明執筆 小谷太郎
超伝導の発見の歴史
超伝導物質の、超伝導以外の性質(磁気との関係
金属水素! 木星の核!
MRIで利用されている、とか

能登半島は今 600万年つづく隆起が 地形を変えつづけている

監修 塚脇真二執筆 中作明彦
これは、写真を眺めた感じ

AIを支えるベクトルと行列 驚異的な計算能力を生みだす数学の道具

監修 柴田千尋執筆 山田久美
ベクトルは矢印、ベクトルの成分は座標、だが、ベクトルは任意の数を入れた入れ物だととらえたほうがよい
大規模言語モデルは、2つのベクトルの角Θとそれぞれのベクトルの大きさで、単語同士の関係を把握しているが、内積を計算すれば、角度を測定する必要はない
行列はベクトルを拡張したもの
(行列を3次元以上に拡張するとテンソル
行列の掛け算=ベクトルの変換→CGを回転させたりするのに使う
GPUは行列の並列計算が得意(CGからAIへ=NVDIAの躍進)