傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

絶対に損をしたくないんだね

 法律婚という制度が嫌いで使用していなかった。しかし、一年ほど前に、現実的な利点に敗北して籍を入れた。具体的にはマンションを買うにあたって金利が有利なペアローンを組みたく、パートナーから「これはもうしょうがないんじゃない?」と言われて合意した(パートナーはもともと結婚したいタイプの人間である)。
 それ以来、自分のことを「自分の理念や気分よりカネを優先したあわれな人間であるなあ」と思いながら生きている。自分の心より優先するものなんかないと思って生きてきたのに、カネのほうを大事にした。そうして、パートナーと自分の財産関係を明瞭にし、たとえば別れるとしても双方に経済的な不利益が発生しないよう契約書を作成し、それから区役所に行った。せめてもの自分へのなぐさめである。
 結婚がらみでなんとなく連帯感を持ってときどき雑談をする職場の先輩がいる。わたしと同じく法律婚という制度に納得がいかず、パートナーと書類上の関係を作らずに同居して生活していた人である。
 その先輩がとうとう結婚制度を使用したと聞きつけたので、わたしは下衆な笑顔を浮かべて彼に近寄り、言った。先輩も利便性に膝を屈しましたね。やっぱりあれすか、住宅ローンすか。
 先輩は言った。いや、うちは生涯賃貸のつもりだよ。結婚したのは単に年とって、死がリアルになったから。僕が死んだあと、あの人に円滑に資産をぜんぶ受け取ってもらうためだよ。僕ちょっと複雑な生まれで、どうやっても不安が残るからさあ。もちろん、そんなのはおかしいんだよ、使いたくても使えない人がいることを含めて、おかしい、そのおかしい制度を使いたくなくてうちはずっと結婚してなかったんだけど、それはそれとして、「わりとすぐ死ぬかもしれない」と思うようになったら、僕が死んだあとの不安を排除したい気持ちのほうが大きくなったわけ。つまり、トシのせいです。
 なるほど、とわたしは言う。先輩は口の端だけを上げて、言う。
 きみはいつ別れてもお金で揉めないようにしたんだもんね。
 絶対に損をしたくないんだね。

 わたしは不意をつかれて眉を眇め、言う。損したくないです。利便性に負けて気に食わない制度を使うのに経済的な不利益の可能性を残してどうするんですか。
 そうだねと先輩は言う。きみのところは、家事を分担して、二人して稼いで、そんなふうに、フェアなカップルなんだよね。そりゃ、結婚したって損しないようにするだろう。

 わたしはぽかんとした。なんか悪いことしてるみたいな言い方である。
 先輩は言う。
 きみは、相手に何かあったら、たいていのことはしてあげるだろう。相手がお金に困るようなことがあれば、あげるだろう。そういう情はあるほうでしょう。
 でもそれは、相手がきみと同じように戦えて、きみに対してずるいことをしない人間だったという実績あってのことなんだろうなと、そう思ってさ。最初から相手が自分に助けてもらう立場だったら、相手を自分の人生の中に入れることを、きみはしないんだろうなと思ってね。いや、いいんだ、それは良いこと、正しいことだ。女性に生まれてそのための不利益を経験してきたならなおのことだ。とても、いいことだよ。

 わたしはなんとなく理解したような気になる。おまえはおまえが偶然得ている(まったくたいしたものではないが、言ってみれば)強者としてのポジションを自覚しろ、というような話なんだろうと思う。たまたま職に恵まれて生活を回すのに不自由がない、それを前提にしてものを言っていると。世の中そんなのばかりじゃないとわかった上で偶々ひろった幸運にあぐらをかいている傲岸な人間として生きろよ、と。
 わたしはそのようなことをオブラートにくるんで言う。先輩はまた、ちょっと笑う。

 いや。うん。そうかな。
 いや。そうかな。
 それはそれとして、別れても損をしない状況を作るという発想が、僕にはなかった。何年も一緒に生活しているのに、自分に対してひどいことをする人じゃないとは思わないんだなって。
 わたしはまた不意をつかれる。あの、と言う。今は、思わないです。そうじゃなかったらペアローンなんか組まないです。相互の連帯保証人ですよ。理不尽なまでに楽観している。そして、わたしも相手も気持ちが変わる可能性はあると思っている。だって、生きてるんです。気持ちも性格も、変わるでしょう。変わらない部分もあるかもしれないけど、自分に都合のいいところだけ変わらないと思うのは、おかしくないですか。
 おかしかないよと先輩は言う。それから昨夜の晩ごはんの話をはじめる。