傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

2023-01-01から1年間の記事一覧

彼のスタイル

わたしが彼氏と出会ったのはインターネットのオフ会だった。十年前にはそういうのがあったのだ。映画好きのオフ会である。いわゆるシネフィルの集まりで、面倒くさい人間ばかりが来ているのだろうなと思って(わたしもそうだ)、面倒くさい人間同士で楽しく…

年末年始バー願望

就職した次の年から、年末年始はだいたい海外にいた。 わたしは高給取りでもお金持ちの子でもない。基本的に倹約家で、旅行にばんばんカネを使うのである。年末年始の旅費は高額で、だから旅行好きの中には「正月に旅行するものではない」と言う人も少なくな…

世が世ならスターだったような人

直属の上司に関して、人事からの聞き取り調査が入った。要は「あなたの上司、パワハラやってませんか」という話である。 この部署では、二年前にメンバーがひとり、次の転職先なしに辞めている。それから一人が見るからにまいってしまって休職した。その後つ…

そうそう、戸籍の附票とかあれこれロックしたのよ

わたしには長年のストーカーがいるじゃない? 生物学上戸籍上の母親ね。そう、わたしが断絶を宣言して、賃貸の緊急連絡先から何からぜんぶ赤の他人にして行方をくらまして、そしたら母親が戸籍の附票とりまくって引っ越したら秒で手紙出したりマンションの前…

わたしの愚かなきょうだい

姉が来た。 姉の住処はさほど遠くないから、わりとしょっちゅう実家に戻ってくる。姉が来ると高齢の祖母の介助をいくらか任せられるから、わたしも両親もやや助かる。祖母は施設に入ることが決まっているから、家にいる間にたくさん顔を見せてほしいし。 玄…

典型に回収される

あの子ね、もうわたしたちの話、通じないよ グループLINEから抜けた同級生について、一人がこのように投稿した。それは時たま思い出したように動くだけの、やけに多くの同級生が加わっているグループで、だから誰かが「退室した○○って、誰のこと?」と投稿す…

愛せなくなったらどうしよう

わたしにはペットの同期がいる。 近所にはたくさんの犬友がいるが、そういう人や犬のことではない。彼らは犬好きで犬を飼っていて、犬を通して人づきあいできる程度には社交的であり、彼らとわたしが共有する感情は「犬かわいい」である。 わたしが同期と呼…

恋愛より特別なこと

わたしが一緒に住んでいる女は恋人ではない。 妻でもない。妻であればラクだとは思う。お互いのオフィシャルな緊急連絡先になって、どちらかが入院したらもう片方も病室に入れて、先に死んだほうの遺産が残ったほうに自動で行く。いいなあ、めちゃくちゃラク…

石を投げられたくないだろ?

親戚は怖いなあ。僕がそう言うと、彼氏はのんきに、みんないい人だよ、と言う。 僕らは先日、マンションの共同購入を決めたところである。このところの東京の地価高騰は異常で、たぶんバブルで、買っても長く持っていたら得はしないだろうけど、それでも賃貸…

わたしの中のかわいい女

このところわたしばかりが仕事を休んでいる。 幼児は熱を出すものだ。ここ半年は誇張でなく隔週ペースである。そうなると親が仕事を休まざるをえない。そしてこのところそれを担当するのがわたしばかりなのである。 結婚話が出たときに、わたしは夫と家事子…

わたしのすべての変数

わたしは将棋を好む。 自分でも指すが、それはたいして好きではない。スポーツ以上読書未満の、やれと言われたらやれて、嫌いでもなく、素人としては楽しめる程度に素養がある、というほどのものである。祖父の趣味で、親はやらないが従弟のひとりが真剣に取…

何者かになる あるいは夢について

中学生の娘の進路相談の件を職場の後輩に話すと、彼女はがははと笑って、先輩はいい親やってると思いますよ、と言った。 ありがとう、でもわたしみたいな夢のない人間だけでは参考にならないし、夫も似たようなものだから、夢がある進路を選んだ大人の話も参…

何者?

娘が進路について考えているという。 時の経つのは早いものである。小さいころはよく病気をして、おっとりしているものだからいじめられたこともあって、そりゃあ大変だった。その時分には、いや、もしかしたら昨日まで、永遠に子育てに走り回っているものだ…

友だちがいない

自宅で映画を観る。 映画のディスクは来客が持ってきたものである。この人は昔からとにかく映画が好きで、ときどき気分転換をするために、わたしがひとりで過ごす夜をねらってやってくるのである。映画は国籍も主題もばらばらだが、とにかく孤独な人が出てく…

他人のプロレスを笑うな

A助教はわたしたちが学部三年生から四年のあいだ、実習室の主をやっていた。 そのころわたしたちの大学の大学院生が急激に増え、院試をだいぶ厳しくしても院生室の机が足りなくなったのだという。それで通常は院生室にスペースをもらっている任期つき助教の…

旅麻薬とわたし

遅い夏休みが取れたので外国でぼんやりすることにした。 これは文字通り何もしないで知らないところで薄ぼんやりする遊びである。旅行は旅行なのだが、リゾートでも観光でもないので、わたしは「外国でぼんやりするやつをやってくる」と言って出かける。 旅…

暫定彼氏の不適切な逆襲

うん、ちょっと聞いてほしくてさあ。トラブルの始末はしたから、聞いてくれるだけでいいの。 ここ一年ばかりのわたしの彼氏ね、あの人と別れたんだけど、うん別れたこと自体はたいした話じゃなくて、その理由を聞いてほしいのね。えっと、盗撮なの。わたしの…

感情の通貨

疲れたあ。 娘がそう言うので、おう、がんばったな、とわたしはこたえた。そして彼女にすいかを切ってやった。 娘は中学三年生、受験前である。夏期講習がだいぶきつかったようだ。ダイニングの椅子に座る姿勢もなんとなくぐじゃっとしている。 なお、わたし…

犬の眠り

午前二時、そっとベッドを抜け出す。眠ろうと努力して一時間あまり、長年の経験から「これはベッドにいても解決しないやつ」と判断してのことである。 ベッドの中でずっと覚醒しているときには、あれこれ工夫すれば存外眠れる。そういうときには頭の中に思考…

コスパのいい結婚

そういえば結婚してないんだよね。 尋ねられたのでそうだよとこたえる。こうした質問は三十代ではよく受けたが、四十代になるとかえって新鮮である。わたしに質問した知人は、他人の結婚式の二次会という場だから「こういう質問もOK」という気分になっている…

花火の見える家

他人が買ったマンションの冷房の効いたリビングで花火を観ないか。 わたしがそのように誘うと恋人はそりゃあいいねえと笑った。 わたしたちは賃貸派である。一緒に住みはじめて二度更新して、今年住み替えを検討してみたら、いつの間にやら周辺の家賃がえら…

さよならTwitter

SNSをやっていないために「生きているか?」という意味のメールをもらってしまった。 私はシステムとしてのSNSは使用している。しかし、「知り合いや好きな有名人の投稿を日々閲覧する」という使い方はしていない。 Facebookのアカウントは仕事のために持っ…

るみ子のバカンス

るみ子は優雅な、あるいは優雅に振る舞うことに注力する女である。バカンスは三ヶ月あるのが普通よ、と彼女は言う。それは今時だいぶ難しいんです、とわたしは言う。この夏は一ヶ月少々、そして秋に一ヶ月少々ではいかがでしょう。るみ子はわずかな表情と仕…

偶然をもてなす

勤務先から一年間の研修への応募を提案された。 そういう制度があることは知っていた。通常業務を一年休んで修行してくるのである。年長のえらい人から、自分も一年間勉強してとてもいい経験になったと聞かされたこともある。しかし、わたしが転職してきて以…

「男」と孤独とアルコール

会議中に倒れて「死んでもおかしくなかった」という上司が早々に酒を飲みはじめたので、わたしたち部下は困惑し、隣の部署の課長に時間をもらった。この人は上司の同期で近しい間柄だと聞いている。 あの人が飲みに行くぞって言うたびにハラハラするんで。一…

だって他人だもん

上司がビールを注文した。わたしは咄嗟に目を伏せ、その目を左右に泳がせた。隣の後輩とがっちり目が合った。彼もまた目を伏せてそれを泳がせていたのである。 今日は会社の近くで飲んでいた。わたしは様子を見て一次会でおいとました。駅に向かって歩き出す…

大人になったみいちゃん

議事録を書くためにリモート会議の録画を再生すると、母の声がした。 もちろんそれはわたしの声だ。ふだん自分が聞いている自分の声は、人が聞いているのと同じ音ではない。頭の中でこもって反響した音がまじった声なのだ。わたしが思うわたしの声はだから、…

もうどうでもいいや あるいは老いについて

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年が経過したので、わたしたちの犬も三歳である。夫はずっと飼いたがっていたし、わたしだって犬は大好きなのだが、わたしが誓いを立てていて、それでずっと飼わずにいた…

知人の選択 あるいは老いについて

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年あまり、わたしの連絡ツール各種にはすでに誰だかわからなくなったアカウントが大量にある。 わたしは今年三十三歳で、この世代の中では比較的長期にわたって感染リスク…

父の揚羽蝶

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしの帰省は二年ストップした。わたしの出身地は大きな地方都市だが、それでもやっぱり「東京から娘が帰ってくるとなると人目が気になる」と母が言ったものだから。 だ…