傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

「いろいろ」を生やす

 年始はあんまり人気ないんですよ。だから年明けの日程が最速ですね。
 そう言われた。簡単な手術を受けることになり、その予約を取ったときのことである。
 簡単でも手術は手術なので、前後に生活の制限が発生する。年末年始は帰省や旅行で遠方に行ったり、つきあいの席があったりするので、それが制限される日程は人気がないのだそうである。命に別状がなく緊急性の低い病気の、(医師いわく)よくおこなわれる手術だから、受けるほうも生活への支障が少ない日程を選びたがるのだろう。
 これは病気かも、と思ったとき、わたしは症状のあらわれかたを時系列にまとめ、関連する治療歴と治療に関する希望をA4コピー紙1枚にまとめて病院へ行く。専門医にかかる前にかかりつけで病気の種類のアタリがつくこともあるので、そういうときは標準医療での選択肢も調べておき、複数の選択肢があれば意思決定を済ませておく。
 このたびは「手術適応ならできるだけ早くやりたい」と例のA4に書いておいた。それであっというまにスケジュール調整に入り、年始は手術の人気がないのだと、そう聞いたのである。

 わたしは年末年始をやらない。お歳暮も、大掃除も、おせちも、晴れ着も、帰省も、親戚の集まりも、わたしの知ったことではない。特番も観ない。年末年始に随所で提示される「正しい家族」像みたいなやつが超嫌いで、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのである。なお、餅は好きだから日本にいる年には食べる。和菓子屋がつきたてのを売ってくれるので。
 そういう人は、どうやらけっこういる。わたしのように全部ぶっちぎって何もせず家にいる、あるいは外国に行く、という人間も少しはいる。「いちおう実家に行きはするけど、楽しくはない」みたいな人はもっといる。そりゃそうだよなと思う。まさかあれが全人類の幸福であるわけがない。父と母と子の役割ががっちり決まってて幸福の形式がいっこしかない、あの世界。
 それはわたしの幸福じゃないのよ、と思う。わたしはわたしの幸福をやるので、あなたはあなたの幸福をやってください。そう思う。

 だから手術前後の食事制限も旅行NGもどんとこいである。忘年会や新年会のお誘いも、「ごめーん、十二月前半か一月末以降でいいかしら」と言えばみんな調整してくれる。職場のつきあいはゼロである。年末年始があんまり関係ない職場なのだ。
 わたしの年末年始の恒例行事は「年末年始バー」だけである。
 バーといってもお酒は要らない。インターネットでやる行事(?)だからだ。匿名で投稿できる質問箱サービスを使って、質問でなく「年末年始こんな感じであれなんですよ」みたいな話を投稿してもらう。そしてそれに返信をする。とくに役に立つお返事ではない。「ははあなるほどねえ」「それはあれですねえ」みたいなやつである。わたしは役に立つものより役に立たないもののほうがずっと好きだ。
 このやりとり、かなり楽しい。世の中にはいろいろな人がいるんだなと思う。そう思うと、わたしは愉快になる。一律はおもしろくない。一律にはまらない人間をないもののように扱うやつらが嫌い。「いろいろ」が雑木林みたくにょきにょき生えてるのが良い。そういう嗜好を持って生まれた。
 年末年始に関する「いろいろ」が生えてくる苗床が、年末年始バーとしての質問箱である。
 わたしは生まれてはじめて手術を受けるので、話してもいいよという人がいたら手術話を送ってもらうのもいいかもわからない。わたしが受けるのは日帰りの簡単な手術で、何ならとっても楽しみなのだが(長年うっすら苦しんできた慢性疾患が激化して手術することになったので、治ったら見える世界が変わると思う。あと、シンプルに体験したことのないことが好き)、世の中にはいろいろな手術があり、年末年始を病院で過ごす人だっているだろう。
 「年始の手術は人気がないんですよ」と笑った医師も、たいへん効率的な事前検査をしてくれた技師も、痛くない採血をしてくれた看護師も、年始早々に、もしかすると三が日から、働くのかもしれない。
 典型的な年末年始のイメージは嫌いだ。でもいろんな人のいろんな年末年始は好きだ。空気の澄んだお正月の、人の少ない東京も好きだ。華やぎの気配を残した清潔な場所に自分ひとりが取り残されて、もう誰も戻ってこないと知りながら歩いているような、あの感じが好きだ。いろいろな場所の、わたしの知らない年末年始の話が好きだ。どうぞ、みなさん、良いお年やあまり良くないお年の話を、わたしに聞かせてくださいね。

わけわかんなくなりたいの

 海外旅行がお好きなんですよね、どんな風に楽しむのですか。
 そのように訊かれることがある。たいていの相手は話のつなぎにしたくて言っている。実際にわたしがどのように海外旅行を楽しんでいるのかを知りたいわけではない。だからわたしも「美術が好きなので、大きな美術館のある都市に行くことが多いですね」などと言う。
 嘘はついていない。美術は好きだし、海外の美術館にも行く。日本にも有名な作品がたくさん来るけれど、なにしろ混む。外国に行けば混まない。たとえばオランジュリーでモネの睡蓮とわたしだけの夕刻を過ごす。最高だ。
 でもほんとうは、そんなのはおまけである。
 わたしはほんとうは、ただわけがわからなくなりたくて、それでせっせと節約しては外国に行くのである。

 たとえば外国で道を渡ろうとする。信号がない。あるいは、青信号でもガンガン車が通っていく。さもなくば道幅がめちゃくちゃ広くて横断歩道っぽいものが途中で途切れている。
 はじめての町でわたしは、道さえ満足に渡れない。わたしは十二の子どものように無力で、今夜泊まるホテルのカードを命綱のように握りしめ、渡りたい道の向こうを、額縁の向こうのように遠く見る。
 訪問二度目の、少しだけ慣れた都市で地下鉄の駅に入る。電光掲示板が暗い。券売機も改札機も動いていない。改札はあきっぱなしで、人がどんどん出入りしている。
 わたしはその場に立ち尽くす。
 そのうち親切な人が寄ってきて、わざわざ英語で教えてくれる。今日はストだから駅員はいない。電車はすべて無料、勝手に乗って勝手に降りなさい。市内はそれでOKよ。

 たとえばそういう経験を、わたしはしたいのだ。生活のための基本的な法則を知らない状態に戻ること。ゼロから学習しなければ移動もできない脆弱な生き物に戻ること。拙い必死のコミュニケーションをとること。

 外国でわたしはおそらく「生き延びる」をやっている。それがわたしの娯楽なのである。
 わたしに、人生の目標のようなものはない。将来の夢を持ったこともない。子どものころからずっとなかった。わたしにあった長期的目標はただ生き延びることだけだった。そういう生まれ育ちなのである。
 十八で学生寮に入ったとき、二十歳で経済的に完全な独立を果たしたとき、二十二歳ですべての書類から血縁者の氏名を消せたとき、わたしはすごく、気持ちよかった。わたしはあの「生き延びた」という感覚以上の快楽を、中年期の今に至るまで知らない。
 だからわたしはその影を見たくて外国に行くのだろうと思う。誰のことばもわからず、誰もわたしのことばをわかってくれない、遠いところへ。

 それにしたってずいぶんと行ったから、もうあんまり必死になるシチュエーションに巡り会えない。空港でSIMカードを買って入れ替えたスマートフォンがあればなおのことだ。カフェのWi-Fiだけが頼りだった十年前を、わたしは少しなつかしむ。でも意識してスマートフォンを使わないということはない。「生き延びる」はそういうタイプのゲームではない。

 そしたら町じゃないところに行くのがいいですよ。
 旅行好きの集まりで、顔見知りの青年が言う。
 僕こないだタイのアカ族の村にお邪魔してきて、えっと、友人が言語学やってて、フィールドワークに連れてってもらったんです。そんで草いっぱい食べてきました。
 草って、麻薬とかじゃなくて、そこいらに生えてる草です。あのあたりには麻薬づくりのエリアもあったけど今はもうないです。そのずっと前から、伝統的にさまざまな植物を利用してきた民族なんです。服より先に採取した植物を入れるかばんを手に入れたという神話があるそうで。服はそのかばんをバラして作ったんだって。聞き取りの間違いかもしれないけど。
 最終、俺らの旅行ってこうなっちゃうんだなって思った。山の中で「うわあ百パーセント右も左もわからない」と思いながらそのへんの草を食う。草の名前は教えてもらえるけど、名前の意味はわからない。アカ語は難しい。そんなのでようやく本格的に楽しくなる。
 この種の旅行好きなんて可哀想なもんですよ。死なない程度の未知を体験しないと気が済まないんだから、年とったらどうしたって積む。経験が増えて知恵がついて費用に余裕ができて、積む。現地の人が商売で相手してくれる範囲を超えたらもうできることがない。俺も草くったあとどうしていいかちょっとわかんなくて困ってるところです。あ、これどうぞ、土産の草。向こうのお茶です。

 わたしは彼ほどハードな旅行を頻繁にやったのではない。だからまだ「草を食う」楽しみは残っている。

信仰への介入に関する個人的な基準

 わたしが近ごろ信仰について考えているのは、他人の信仰にどの程度介入するかに悩んでいるからである。この場合の「信仰」は伝統宗教や新宗教にかぎらず、科学的根拠なしに人に何かをさせる、超越的存在を(暗黙理にでも)想定した言動をさす。
 典型的なものは「親が陰謀論にはまった」「極端な排外主義者になってしまった」というケースである。現在四十代であるわたしの親世代が高齢になり、新しいメディアを使って人を引きつけようとするいろいろな企みに対抗しきれなくなった結果だろう。わたしの父親も一時期危なかった。
 他人の信心は尊重したい。したいが、ではそのために自分の父親が延々と隣国ルーツの人を罵るYoutubeを閲覧している生家を許容しようと思うだろうか。これがお父さんの最近の信仰なんだね、とうなずくことができるだろうか。わたしにはできなかった。だからわたしは父親と対立した。母親には「ことを荒立てないでほしい」と言われたが、「人生には荒立てるべきことがあるのだ」と宣言しておおいに荒立てた。生家につくなり激怒して自分の家に帰ったりした。滞在二時間の帰省であった。それがわたしの「信仰」のありかたなのである。
 父親はそのうち「眼が悪くなった」という理由でモニタをあまり見なくなったそうで、少なくとも表面上は、元に戻った。わたしの説得が功を奏したとかではない。単に眼が疲れて飽きただけだ。ありがとう、父の老眼。

 占いやスピリチュアルにはまるケースもあって、こちらは同世代でよく聞く。わたしの直接の知人も二人そちらに行った。いずれも女性である。
 最初は「不思議なものが好き」という程度だった人が、しだいによくわからないことを話すようになり、それ以外の話がどんどん減って、しまいには交友関係をやっていられなくなる。「やっていられません」と言うべきなのか、その占いなり何なりに対する苦言を述べるべきか、けっこう悩んだ。
 盆正月に戻る、自分が育った家のリビングで排外主義コンテンツが流れているのではない。昔の知り合いが変なこと言っているだけだ。わたしがそういう人のいる場に行かなければ良いだけの話である。
 わたしはそのように判断した。
 一人は中学校のクラス、もう一人は高校の部活で一緒だった人なのだが、中学校のほうはたまに開かれていた同窓会を欠席してLINEグループを抜けた。高校のほうはその人自身が集まりから外れていった。
 これは彼女たちの信仰を尊重した結果といえるだろうか。わたしにはわからない。

 あなた三十代のころから同じような悩みあったじゃない。
 友人がそう言う。あったっけ、とわたしは訊く。
 あったよ。当時のあなたの受け入れられない「信仰」は殴る夫やよそで結婚している男にすがりつく女たちのものだった。
 わたしは少し驚く。そしてつぶやく。そうか、あれも信仰か。そして、わたしは「人間は殴られているべきではない」というような信仰に自覚的でなかったんだね。そうか。
 当時のわたしは自分の信仰に対する客観性がなく、「殴る男なんか悪いに決まってるんだから離れればいいだろう」と思っていた。
 殴る男なんか悪いに決まっている。そしてその相手と離れるかどうかはその人の自由である。殴られる女の話に耐えられないなら、わたしのほうから離れるしかない。だって世の中には、「男のいない女」になることを死にもの狂いで避けているように見受けられる女性たちがいて、彼女らはそれを愛と呼んでいて、ひとつの関係が終わっても同じような関係を繰り返し持つのだ。そして彼女たちにとって、たとえば殴る男との関係は同性の友人関係などよりずっと大切で崇高なものなのだ。
 今はそう思う。それが「彼女たちを尊重する」ことなのかは、まだわからないけれど。

 放っておくしか、ないのかねえ。
 わたしが尋ねると、友人はあっけらかんと言う。わたしは、「信仰」に遣うお金がその人の手取りの10%未満なら、放っておく。あなたのお父さんみたいに、単に飽きてやめることだってあるし。
 わたしはかなり驚く。手取り?
 友人はうなずく。そうだよお。お金って、だいじじゃん。あと、身ぐるみ剥がそうとする集団じゃなく、持続可能な集金をしようとする相手なら、まだマシじゃん。10%以上は取り過ぎ。あとはたとえば、子どもが犠牲になっているな、とか思ったら、けちつける。けど、この年になると、子どもがもう大きいか、いないかでしょ。だから取るカネで判断すればいいかなって。

わたしのいくらかの信仰

 伝統宗教にも新宗教にも属していないという意味では無宗教だが、だからといって自分に信仰心に類するものがないとは思わない。たとえば和室のある家に入ったら畳の縁は踏まないし、自宅の箸や茶碗はメンバーごとに専用のものを使うという感覚がある。
 わたしは、科学的な根拠のない習慣と宗教の区別を、最後の最後でつけることができない。超越者の存在を信じるか否かで区別していたのだけれど、仏教のお坊さんの中には「頭にぶつぶつがある、あの仏さまが実際に存在すると思っているのではない」と断定する人もいたし、他の宗教の聖職者ポジションの人も同様のせりふを言っていた。そうなると生活習慣と宗教の区別が、わたしにはつかないのだった。
 そう、慣習やタブーの意識は、わたしにとって宗教に近い。
 箸なんか洗ったらきれいになるので、家族のものを使ってもまったく問題はないはずなのだが、試しにやってみようとするとなんともいえない居心地の悪さがある。そういうものを、ここでは広く「信仰」と呼ぶことにする。

 若い時分はそういうのはぜんぶとっぱらっちゃえばいいんじゃないかと思っていた。科学的根拠のない習慣のすべてに対して、「その文化圏でうまくやりたければ同調しなければならないが、内面化する必要はない」と思っていたのである。
 そのように考え、愛についても検討した。たとえばわたしは対等な一対一の恋愛関係を指向するが、これだって幻想である。べつに三人で恋人同士になったっていいだろう。
 しかしわたしは排他的な二人一組の幻想を、どうやら信仰しているのだった。その信仰がたしかであるのか検証するには三人でつきあってみないとわからない、とも思ったが、その機会はなかった。
 「対等」にいたってはそれ以上に幻想の度合いが高い。経済的な背景などがないと仮定して、当事者全員の自由意志による隷属の何が悪いかと問われれば、「悪くないです」としか言いようがない。自由意志をもって誰かのセカンドポジション(愛人とか)をやったりハーレムを形成したりするのもその人たちの自由である。「おまえもそうしろ」「一対一? だせえ」などと言われるのでなければ、わたしは黙っていたらいいのである。

 三人でつきあってみるのは、相手が見つからないという意味で難しいが、畳の縁なんか踏んでもいいと決めて実行するのは容易で、おそらくすぐ気にならなくなる。
 しかしその調子ですべての科学的根拠のない慣習を手放すと、わたしは少しずつ、この世から遊離してしまうのではないか。そんな気がするのである。法律だってそういう慣習をもたらす信仰的な何かを取り入れて作られているのだから、真のノー幻想パーソンになったら、法律を守る動機づけも減るだろう。わたしは、無法者をやれるほど強い人間ではない。
 だからわたしは、いくらかの信仰を持っていよう。そして他人の信仰には口を出すまい。
 そう思う。
 同時に、他人が自分の信仰に積極的に口を出してきたら、戦うことも必要だ、と思う。個人的な「宗教戦争」をやるべき時はあると。

 たとえばわたしは「女性は結婚すると幸福になる」という幻想が提示されたら、拷問されてもうんとは言わない。法律婚は任意に締結する民事契約である。幸福とは関係ない。自分が女性とされていることに特段の異議はないが、それだって「そういうことになっているらしいですね」という程度のもので、そもそもそんなに区別する必要もないと思っている。
 わたしはそのような信仰を持っており、しかし一方で結婚を「聖なるもの」とする人もたくさんいる。そして彼らの中には、自分の信仰にしたがわない人間にひとこと言わずにはいられない人がけっこういるようなのである。彼らはわたしに「結婚しているのか」と問い、結婚式や新婚旅行の検討すらしなかったことや結婚指輪をつけないことをいぶかしがって、「まあともかく、結婚できてよかったね」と言う。
 したくてしたのではない。住宅ローンの都合でやむなくしたのである。わたしは幸福だが、それは結婚とは関係がない。わたしはわたしのパートナーをとても好きで、できることならカネなんか関係ないところでずっと一緒にいたかった。
 しかし彼らはそのような言い分を許さない。結婚は幸福でなければならないと、彼らは思っている。「しかたなく結婚した」と言う人間を、とくに女性を、彼らは許さない。そんなのわたしとわたしのパートナー以外に許すも許さないもない、とわたしは思う。
 わたしにとって、それはとても大切なことである。だから彼らにうなずかない。「こういう考え方の人間を、いないことにさせない」と思う。

効率の領域

 ふだん行かない部署を訪ねて、タスク管理ツールの使い方を教えてもらう。わたしの親しい同期の現在の配属部署で取り入れられて、「他部署の人でも、仕事で使わなくても、タダで教えてもらえるよ」と聞いたからである。
 本を読んでひとりで勉強するのも良いし、今はあちこちの企業や教育機関が無料で公開している動画もある。だからたいていのことは低コストで自習できるのだけれど、それはそれとして、目の前に人がいてしゃべってくれるとやけに学習効率が良いのである。どうしてかはわからないが。
 導入担当の社員はわたしよりいくらか若い男性で、まだ小さい子がいるのだそうだ。それで、仕事のために覚えたタスク管理ツールを家庭生活でも使っているのだという。とにかく時間がなくて、管理しないと混乱するんすよ、と彼は言う。たとえば子どもの成長と性質にあわせて商品を買う。そしたら、週末の買い出しパターンも定期便の品目も買ったものの収納や入れ替えサイクルも、予算立ても、みーんな変わるじゃないですか。そういう小さい変化が、生活のぜんぶに及ぶじゃないですか。「これにこんな時間かかるの? 言ってよー」ってなりませんでした?
 わかる。子どもが小さいと細かいタスクと判断が大量にあるし、すぐ成長してフェーズが変わる。頭が「わー」ってなる。
 わたしの子はもう中学生だから親としてのタスクはだいぶシンプルなんだけど(子が自分で起きて自分で寝て何でも食べて自分で学校や塾に行って自分で宿題をやったりやらなかったりする、それだけで親の判断の数が減る)、受験の準備がはじまったから、また親が管理するものごとが増えるかもわからない。

 ちゃんとした人ですねえ、とわたしは言う。人生の効率がよさそう。
 それを聞いて彼は眉と視線の角度をわずかに上げ、それから社交的な苦笑を浮かべて、言う。あの、おれのことコスパタイパくそ野郎だと思ってません?

 わたしは声を出して笑い、いやいやいや、と手を振った。ただのコスパタイパくそ野郎じゃなさそうだな、って思いましたよ。
 すると彼もげらげら笑って、通じすぎ、と言った。楽しい人物だと思った。
 そのようにしてわたしはその社員と、ときどき話をするようになった。

 彼は言う。
 おれの言う「コスパタイパくそ野郎」は、自分の欲と意思と目的でもって効率を必要とする領域を決めることしないやつをさします。短時間と低コスト自体に価値を置いている愚か者のことです。
 おれは映画が好きで、映画を早送りで観ない。でも早送りする人をとやかく言うことはない。なぜならその人たちの目的は映画に没入する時間ではなく、映画を多くチェックすることで得られる別の何かだからです。それなら倍速でも切り抜きでも使ったらいい。SNSでそれらしい感想を見つけて「自分の意見」にするのも効率的でいいと思うよ。おれも趣味のキャンプの道具なんかを紹介する動画は倍速で流します。自分の楽しいキャンプのために新しい道具をチェックしたいので、その動画を閲覧するのが目的なのではないから。
 子どもの養育環境を効率的に整えるのは何のためかといったら、空いた時間で子どもと一緒に意味のない遊びや昼寝をするためです。家の運営をシステム化するのは、おれと奥さんが各自ぼけっとしてマンガ読んだり一緒に全然ためにならないバラエティを観ながらぜんぜん健康によくないビールを飲んだりする時間を作るためです。
 仕事だってそうです。成長とかスキルアップとか、別にしたくないです。嫌悪感のないジャンルで苦痛が少なくていくらかは楽しくて長時間じゃない労働をして、それでもってそこそこのカネがほしい。そんだけ。そのためにやってることを「成長してるね」みたいに言われるとダルい。「成長」すればエライと思ってる連中と一緒にすんなよって思う。
 嫌いなんすよ昔から「エライ」ほうばかりを選ぶ連中。偏差値だけで選んだ大学の偏差値だけで選んだ学部に行ってランキング上位の企業に就職してグラビアアイドルとでも結婚してろって思ってた。あ、すいません、これぜんぶ男の話です。おれ男子校だったんです。

 グラビアアイドルと結婚する男性に対する偏見がすごい。あと、今はどちらかといえば「自分と同じくらい稼いでくれて、でも自分よりは上ではなく、『育ちがいい』美人」みたいな女性のほうが、いわゆるトロフィーワイフとしても価値が高いのではないか。
 わたしがそのように言うと、同じことですよ、と彼は言う。まあね、とわたしも言う。

きみはラリらずに生きていけるか

 二十代前半くらいまではいろんな経験が少ないから、何をやってもテンションが上がった。大学生のころなど、今にして思えば些細なことで脳内麻薬がばんばん出ていた。
 旅先の景色はいつも新鮮で、恋愛は比喩でなく「死んでもいい」ほどのもので、友情は永遠の輝きを宿していた。読む本にいちいち驚いたり泣いたり狼狽したり、そりゃあ忙しかった。ものを知らなかったから、世界を説明するための概念ひとつがどれだけ感動的だったことか。
 今はそうではない。
 旅行は飽きないように頻度を減らしているし、恋愛の高揚は平熱の愛情に着地して、友人関係なども平和なものである。本を読んでいても、しばしば「ああ、こういう系統ね」と思う。遭遇するたいていのできごとが予想どおりの結末に向かう。そんなだから、近ごろのわたしの心拍数の標準偏差はとっても小さい。
 「こうして人は大人になるのだ」といえば、まあそうなんですけど、「それをこそ幸せというのだ」というのも、わかるんですけど、三十になろうが四十になろうが、何なら七十になろうが、たまには「うひょー」系の気持ちよさ、ほしいじゃないですか。わたしはほしい。

 「うひょー」となって気持ちよくなっちゃうあの感じは、たぶんドーパミンとかそういうのが出ている感覚に依拠するんだろうけど、年をとるとそれを味わう機会は減る。経験が増えて飽きを覚えるし、体力も減るからだ。それはもうしょうがない。しょうがないんだけど、少しはほしい。
 年をとって落ち着いたあとの年代に向いた幸福感はあって、たとえば子どもが育っているとか、熟練の技能があるとか、満足のいく業績がたまったとか、長い時間をかけてほしいものを手に入れたとか、そうしたことは主に年長者の楽しみだと、そうは思う。思うが、それらはドーパミン系の楽しみではない。じんわりといいものである。テンションは上がらないでしょう。上がる人もいるのかな。
 上がらないんですよ、わたしは。わたしの手持ちのカードでは。少なくともしょっちゅうは。

 多幸感を求める気持ちが「少し」じゃないとき、人間は病的な行動をするんだろうなと思う。
 いちばん簡単に多幸感が味わえるのは薬物である。日本ではアルコールがいちばん使いやすい。ひどく容易に気持ちよくなるので気味が悪くなってあんまり飲まなくなった。だって、結局のところ、薬物の楽しみって、孤独なものじゃないですか。わたしは孤独を好きだけど、薬物の孤独は好きじゃない。あと健康によくない。健康でないとき(宿酔いとか)の身体の不快感が薬物の快感を上回ってしまう。身体頑健でしょっちゅう薬理作用にひたっていても孤独にならない(あるいは孤独でもかまわない)なら死ぬまで薬物でドーパミン出しててもいいんだろうけども。
 薬物ではないけれど薬物に近いはたらきをするものもたくさんある。人間の脳はいろんなことで麻薬を出してくれるようだ。何なら食べ物で多幸感を得る人もいる。しかしわたしはこれにも適性がない。贅沢な食事は好きで、ときどきファインダイニングをやるのだが、わたしの場合、あれは冷静さをともなわなければできない掛け算である。「未知の味覚かけるシチュエーションでの高揚かけるアルコール、文化的な読み解きの楽しみを添えて」である。我を忘れるようなものではない。

 そんなわけで、最近は運動をしている。走りこむと脳内麻薬が出るからだ。中高生のころに陸上をやっていたので、十五歳から進歩がないともいえる。
 地味な人生である。ドキドキしたいからといって志願兵になって戦場に出て行く度胸も能力もない。
 結局のところ、ラリらずに生きられるように自分を訓練するしかないのかもわからない。だってわたしは、酒や美食で身をほろぼすことにも、いつまでも劇的な恋愛を求めることにも、適性がなかったからだ。
 身も世もない快楽をもたらすものって、あと何があるかな。ギャンブルでもやってみようかな。ハイリスクな金融商品を買うとか? でもわたしのささやかな余剰資金で買ったってドキドキしないよな。お酒とかのパターンと同じじゃん。借金して買うくらいじゃないとヒリヒリするわけないんだよ。でも借金するほどの、健康をそこなうほどの、命をかけるほどの魅力を感じる対象が見つからないんだ。破滅的快楽に手をのばす才能がないんだ。

 みんなはどうやって折り合いをつけているのかな、と思う。それとも、折り合いなんて必要ないのだろうか。みんなは最初から、ラリらずに生きていけるのだろうか。いい年をして「どうにかしてラリる方法はないかなあ」などと思っているわたしとは違う構造の精神を持っているのだろうか。

愛の純粋さを希求する

 僕はしみじみとした気持ちで、「ぜったいに損をしたくないんだね」と言う。相変わらずだなあ、と思う。
 この後輩は、「結婚は民法上の契約で、愛とはまったく関係のないものだ」と思っている。そうして「民事契約のごときものに、自分の愛が影響を受けていいはずがない」と思っている。世間では愛と結婚が結びついていることになっているが、そのお話は自分には無関係だと。自分の愛と自分に向けられる愛だけは、愛として独立していなくてはならないと。
 この後輩は愛というものをやたらと純粋にとらえているのである。この場合の純粋というのは「他の要素に影響されない」という意味である。そんな良さげなもんでもないだろうとも思うので、なんか他の言い方があるといいんだけど。
 事情があって法律婚をするなら、絶対に損をしたくないし、相手に損もさせたくない。二人して得をするのはかまわないが、片方だけが得をするのはいけない。
 愛はお金なんかに左右されてはならない。愛は、個人の意思にのみよって継続されるものでなくてはいけない。少なくとも自分の愛は。
 後輩はそのように考えている。若いころに聞いた。

 この後輩は以前、僕の友人とつきあっていたのだけれど(僕が紹介した)、高価な贈り物を嫌い、「買われているようでいやだからやめてほしい」と言ったのだそうだ。友人は非常に裕福な家に生まれた人間で、どうも恋愛におけるお金の流れに対して何らかの屈託を抱いていたらしい。それで後輩の変な態度(変だよね、おれならもらえるものはもらっとくよ)に感激していた。そうして僕は後輩の「愛は意思によってのみ継続するものでなくてはならない」という信念を把握したのである。
 友人が結婚をしたがった段階でこの二人は離別した。まあしょうがないよなと思う。だって後輩は給与所得のほかに何の収入もなく将来の遺産のあてもない女性で、結構な資産のある家の、不労所得のある人間と結婚したら、たいそう得をしてしまう。後輩とつきあっていた僕の友人は子どもをほしがっていたから、なおさらである。女性である後輩が仕事をおさえて出産育児をし、キャリアが毀損されたところで相手を嫌いになったとしたら、カネのためにくっついている期間が発生しかねない。
 この後輩はそのような可能性のある関係は絶対に嫌なのである。
 そんなの九割九分「いざ」とはならないんだから、そっちに賭けりゃあいいのにねえ。
 僕はそのように思ったものである。まあお互い恋人としては潮時と感じていたのかもわからないけど。
 ところで、僕は犬を飼っていて、飼いはじめてすぐのころ、この後輩にも写真を見せた。どうだいかわいいだろうと言うと後輩は「かわいいですね」と言ってにっこり笑った。そうして言った。でも子犬ちゃんのお世話はたいへんでしょう。やんちゃな子ですか、それともおとなしい?
 感じのいい笑顔だ。確実に作り笑いである。ふだんはそんなさわやかな表情をしない。おおむね仏頂面をしている。
 まあまあ、と僕は言った。ぜったいに気を悪くしないと誓うからさ、犬を飼うことに関して、きみの本音を聞かせてほしいんだ。辛辣な意見でかまわない。きみの考えに興味があるからね、なるべく率直に頼むよ。極端なやつでかまわない。というか、それを期待している。
 後輩はしばらく逡巡してから、では言います、と言った。可愛がるためだけに動物を飼うなんて、グロテスクなことだと思います。生殺与奪の権をにぎられた動物が自分に従うことを愛情と呼ぶなんておかしいと思います。
 僕はげらげら笑って、後輩の肩をばんばんたたいた。いいぞいいぞ、徹底してんなあ、期待どおりだ。

 もちろん僕は後輩とは異なる考え方を持っている。かわいがるためだけに犬を飼うし、誰かが高価なプレゼントをくれるというなら断らない(もらったことないけど)。
 僕の配偶者には障害があって、フルタイムで働くことができない。子どもを育てる自信はないとのことで、僕も自分メインで育てる自信はなかったから、うちに子どもはいない。僕は料理が好きだから、夕食は九割がた僕が作っている。お金を使うことに遠慮してほしくないので(法律婚をする前から)贈与税が発生しない範囲で相手名義の通帳に自分の給与をうつしている。
 あの後輩は知らないのだと思う。好きな人を囲い込んで、自分なしでは途方にくれる環境を作り上げることの、目がかすむような幸福を。
 僕はおそらく、そのような自分を、どこかで少しだけ後ろめたく思っている。だからばかみたいに自分の信念にのっとって生きている後輩の話を、ときどき聞きたくなるのだと思う。