傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

それは装置として埋め込まれている

 それはわたしの内面の底ちかくに装置として埋め込まれている。
 その上に乗っかるようにしてわたしの人格が形成されている。それを取り除くことは、だからほとんど不可能である。それは時に煙のような憂鬱を吐き、時に極端な行動力をもたらす。
 その装置とは、「わたしは自分の意思で死ぬことができる」という信念である。
 生育環境の問題で発生した装置だ。しかし、個人の性格を構成する要素のおよそすべてがそうであるように、わたしと類似する生育歴の人間のすべてに発生するものではない。だから、たまたまやってきたものだ、ともいえる。

 自我の確立していない子どもは、自分の頭の中が自由だということを知らない。誰かに覗かれているような気持ちと、誰かの規則にしたがわなくては生きていられないような気持ちがある。生育環境が良好であればそこに「守られている」という感覚が加わるのだろうが、わたしにはそれはなかった。
 小学校の低学年が終わるころ、遅ればせながら、学校では強制される内容が極端に少ないことに気づいた。大人の感覚では小学生は不自由だが、わたしの生家での不自由はそれどころではなかった。わたしにはしょっちゅう手を動かしていないと終わらない量の家事や介護に関連するタスクが課せられており(たとえば床を拭くこと、家族七人分の皿洗いをすること、歩行に問題が出ていた祖母の杖として歩くこと。水仕事をしすぎて、冬でなくても手指の関節がすべて派手に割れていた)、何より口をきくごとにその内容を修正された。それはしばしば長時間の嘲笑と罵倒をともなった。
 本を読んでものを考えているときだけが楽しかった。集中してそれができるのは夜中に布団の中で懐中電灯を使って本を読むときだった。そのほかの時間はいつ何をいいつけられるかわからなかった。
 それに比べたら小学校はほんとうにラクだ、とわたしは思った。授業中に簡単な作業をするだけでよく、それ以外はぼんやりと別のことを考えていてもバレない。
 だからわたしは、死んだらラクになれると思っていた。何もいいつけられず、何もさせられず、何も修正されない。死は希望だった。祖父が死んだのがわたしの八歳のときで、そのときに死の何たるかを理解した。死んだ人がひどくうらやましかったことを覚えている。だって、死んでいれば、なにもしなくていい。
 そうしてある日、突然に気づいた。十歳のときのことである。
 わたしには死ぬ自由があるのだ。頭の中で死の準備をしても、誰にもバレないのだ。嫌なことは拒絶して、拒絶しきれなかったら死ねばいいのだ。そのほうが今よりずっとずっとラクだ。
 こんなに素晴らしいことがあるだろうか。わたしの頭の中はわたしだけのものなのだ。おもてにさえ出さなければ、どんなにひどいことを考えていても、「わたしじゃなくて親が死ねばいいんじゃないか」と思っても、バレないのだ。わたしは何を考えてもいいのだ。

 陰惨な子どもである。それはまあしょうがない。世の中にはさまざまな家庭環境があり、わたしはハズレを引いた。その上、親に媚びて環境を改善するような性格に生まれつかなかった。だからしょうがない。
 わたしは死という希望を握りしめ、頭の中の自由より尊いものはないという感覚で「何もいいつけられず、罵倒されず、身体を触られない」ことを最大の目標として思春期を過ごし、早々に家を出て大人になった。家の外の世界はラクなところだった。子どもを資源として活用する親はたいてい子どもを手放さないものだが、わたしは「ダメだったら死ねばいい」と思っていつまでも刃向かう不気味な少女だったから、早々に手放された。ラッキー、とわたしは思った。

 陰惨な人間である。それはまあしょうがない。起きてしまったことの上に人間ができあがるのだから、わたしはこの仕上がりでしかありえないのである。別の経験をしたら別の人間だろう。
 だからわたしには、ときどき「死ななくていいのか」という声がやってくる。「ダメだったら死ねばいいや」と思って蛮勇をふるって生き延びた人間は、自分が生き延びたのはたまたまだということを知っている。努力とか才能とか、そういうのではない。ただの運である。
 だから自分でない人が若くして死んでいると、どうしてそれが自分でないのかと思う。
 もちろん、それはたまたまである。
 わたしにはそのような出力をもたらす装置が埋め込まれている。死ぬまで一緒にいるのだろうと思う。ここまで生きたのだから長生きをしようと、気休めのように思う。